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ふたりはずっといっしょ~百合と林檎の物語~  作者: 館西夕木
第一部 灰谷百合の青春
23/55

第二十二話  林檎の収穫と間接キス

 1



 秋になると、こざっぱりとした空模様が続いた。


 祭りの後の静けさのように、それまで猛威を振るっていた暑さが去り、しっとりとした風が山裾から吹き降りてくる。

 青かった富士の山肌には赤い紅葉が混じり始めた。赤いと言えば、中庭の林檎もみずみずしい赤色に染まり、順調に育っていた。


 十月中旬に今年二度目の海外出張のため、勇心が日本を発った。すると、再び夏江が不審な外出を繰り返すようになった。どこへ行くのか、と尋ねても、妖しい笑みを返すだけで、夏江は何も答えてくれなかった。今回も勇心が帰国した途端、ぴたりと終わった。


 わたしだって馬鹿ではない。


 嫌な邪推が頭の中に浮かんでは消えた。もしかすると、と一度でも思い立ってしまうと、想像は具体的な現実感を伴って暴走する。


 率直に言えば、夏江は不倫をしているのではないか、とわたしは疑っていた。


 勇心の目が届かないことをいいことに、他の男と逢瀬を重ねているのではないか。しかし夏江に問い質すことなどできはしない。彼女を敵に回せば、わたしの立場は悪い方へ転がっていくだろう。

 夫の不倫に気づきながら、それを問い詰めることのできなかった灰谷正子の気持ちが、今になって判った気がする。


 勇心の方に伝えようにも、これまた良策とは言えない。


 もし疑いが真であったなら、当然二人は離婚するだろう。すると、林檎が片方の親を失うことになってしまう。林檎の悲しむ顔だけは見たくないし、彼女の幸せを守ることがわたしの使命なのだ。

 結局、夏江の不審な外出については誰にも打ち明けることはできなかった。わたしの勘違いかもしれない。そう自分に言い聞かせた。


 この頃から、わたしは林檎の部屋で寝起きをするようになった。両親の不在による寂しさ、心細さに耐えられなくなったのか、林檎が自分から「一緒に寝て欲しい」と頼んできたのである。


 断る理由などありはしない。


 愛する妹の頼みとあらば、わたしは何でもする。ベッドも二人が余裕を持って横になれる広さがあったし、姉妹が同じ部屋で寝起きすることを咎めるものなどいはしなかった。


 唯一の誤算があるとすれば、それは夏江と勇心が帰ってからも、共寝(変な意味はない)が続いたことだ。思いのほか林檎がこの共寝を気に入ってしまい、特別な理由がない限りは二人で寝ることにした。

 わたしの腕の中ですやすやと眠る林檎を眺めていると、幸福で胸がいっぱいになる。彼女が自分に依存しかけている。そのことに気づくと、その幸福は何倍にも膨れ上がった。


 十一月の頭に、浅間大社でまたお祭りが行われた。今回はただの秋祭りで毎年この時期に行われるという。五月の流鏑馬の様な特別な催しはなかったが、規模は前回のそれと遜色なく、活気に満ち満ちていた。


 十一月半ば、待ちに待った林檎の収穫が行われた。


 一本の林檎の木からは、多くて五〇〇個以上もの実が収穫できるそうだ。しかし、数が多ければ多いほど一つ一つの実の質が落ちてしまうため、花が散って実がついた段階で摘果――果実の間引き――を行い、小さなものを取り除いてしまうのである。可哀そうだが、そうすることで残された実に栄養がしっかり行き届き、美味しい林檎になるのだ。


「百合お姉ちゃん、どっちがいっぱい取れるか勝負しよ」


「いいけど、あんまり騒いだらいけないわよ」


 林檎はこの日が来るのを何日も前から楽しみにしていた。八神邸には林檎栽培を専門とする使用人が雇われていて、毎日彼に突撃し、「もう収穫してもいい?」と一日三回は尋ねていた。

 そうしてようやくお許しが出た今日、林檎は朝起きた時から発情期の雌猫のようにぎゃあぎゃあと喚き散らし、何度も夏江に雷を落とされていた。


 枝にぶら下がった林檎を捻るようにしてもぎ、籠に入れていく。林檎は手が届かないので、使用人が枝を下に引っ張って、実が手元にくるように調節していた。

 八神邸の林檎も春に摘果作業を行ったため、一般的な収穫量に収まった。だいたい一三〇個くらいだろうか。大勢の使用人が手伝ってくれたとはいえ、それでもかなりの時間がかかり、勝負のことなどすっかり忘れてしまった。


 ベンチに腰を下ろし、達成感と疲労感を同時に味わいながら実をもがれた林檎の木を見据える。使用人たちはすでに屋敷に戻ってしまった。そよ風が気持ちいい。


「疲れたねぇ……あっ、盗み食いしてる」


「えへへ、バレちゃった」


 林檎は収穫した実を一つだけくすねていたらしい。両手で包み込むように持った、夕焼けのように赤い実に、齧りついた痕が一口分残っている。


「もう、洗ってからじゃないとダメでしょ」


「えっ、百合お姉ちゃんも食べたいの?」


 そんなこと言ってないのに、林檎は自分が齧った反対側をわたしに向けた。


「はい」


「全く……あ、美味しい」


「でしょー」


 疲れた体にほどよい酸味がしみわたる。一口ずつ順番に齧り合い、あっという間に芯だけになってしまった。


「あ、そういえば、勝負してたんだった」


「今頃思い出したの?」


「百合お姉ちゃん何個取れた?」


「えぇ、憶えてないよ。っていうか、数えてなかったし。林檎は憶えてるの?」


「んーと、二〇〇個くらいは取ったかな」


「総収穫量を超えてるわよ、それ」


 その日の夜は収穫したばかりの林檎をふんだんに使った特別ディナーが食卓に並んだ。


 どれも美味だったが、とろとろの林檎ソースをかけたグリルチキンが一番美味しかった。逆に、これはどうなのか、というものも中にはあった。角切りにした林檎を、アップルチップで燻製したベーコンで包んで焼いただけ、と思しき料理はなかなか刺激的な味がした。


 林檎は晩餐の場でも二〇〇個以上収穫したと自慢げに話し、勇心と夏江は「すごいね」「すごいわ」と娘の健闘を称えていた。


 食後に運ばれてきたデザートも林檎づくしだったが、その中に、いたって普通の皮をむいた林檎があった。一切れ食べてみると、甘酸っぱくて、懐かしい味がした。

 やっぱり林檎は加工するよりも皮をむいた生のものを齧るのが一番だ。


 林檎はいつものようにすりおろしたものを好んで食べていた。


「林檎はそればっかりね。めったに食べられないのがいっぱいあるじゃない」


「これが一番美味しいよ? 百合お姉ちゃんも食べてみなよ。はい、あーん」


 林檎はスプーンをわたしの口元に持ってきた。間接キス、という言葉がとっさに浮かんできた。いやいや、姉妹同士で何を意識してるのだ。さっきだって、一緒に林檎をかじったではないか。

 わたしは努めて冷静に振る舞い、林檎のスプーンを受け入れた。


「ね、美味しいでしょ?」


「うん、そうだね」


 本当は気恥ずかしさで味など判らなかった。





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