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ふたりはずっといっしょ~百合と林檎の物語~  作者: 館西夕木
第一部 灰谷百合の青春
20/55

第十九話  ぽかぽか陽気は春の日常

 1



 四月に入っても、富士山から降りてくる風は冷たく、冬の名残を感じさせた。

 春らしさはまだ冬眠中のようである。


 富士山頂には雪が積もっていて、景色はあまり代わり映えしない。あの雪が完全に解けるのは夏頃だそうだ。本格的に暖かくなってきたのは、四月中旬を過ぎてからだった。いったん寒さが落ち着くと、それまでの肌寒さが嘘のようにぽかぽかとした春らしい陽気が続いた。


 そんな日は中庭の芝生に仰向けになり、陽光を浴びながら読書をする。庭の西側は少し盛り上がった場所があり、寝転ぶのにちょうどよかった。撫でるように吹き付ける風がとても気持ちいい。


「百合お姉ちゃん、何読んでるの?」


 林檎がわたしの隣にしゃがみ込み、手元を覗いてきた。数時間前、定期検査のために城戸の病院へ夏江と共に向かったが、もう戻ってきたようだ。


「推理小説よ」


「またー。百合お姉ちゃん、そればっかり読んでるねー」


「林檎だって、読むのは『かいけつゾロリ』ばっかりでしょ。いいの。お姉ちゃんはこれが好きなんだから」


「面白いのー?」


「面白いよ、林檎も大人になったら、読んでごらん」


「字ばっかりのは、面白くないもん。ねぇねぇ、なんで百合お姉ちゃんはそれ……推理のやつばっかり読むの? 他のも読めばいいじゃん」


「他の本だって読んでるよ。でも、今はこれが一番好きなの。推理小説はね、お姉ちゃんの大切なお友達が教えてくれたの。もう会えない、友達が」


 武光楓は今何をしているだろうか。本にしおりを挟み、雲のかけら一つない青空を見上げる。短すぎる時間だったけど、彼女と過ごした日々は今でもわたしの胸の中で色褪せることなく輝いている。


「ふーん。あ、百合お姉ちゃん、林檎のとこ行こー」


 林檎に手を引かれ、庭の奥へ歩いた。林を抜けて、広場に出る。林檎と同じ名前の木が、いつもと同じようにそこに――


「あれ? もう咲いてるね」


 そこにあったのは、今までとは違う林檎の木の姿だった。

 大きく伸びた枝の先に、小ぶりの白い花がいくつも顔を出している。まるで白い蝶々が身を寄せ合っているかのようだ。

 三日ほど前にここを訪れた時はまだ蕾だったはずなのに、もう咲いているとは。


「すっごーい。見て見て百合お姉ちゃん。きれーい」


 林檎は高まるテンションを抑え切れないのか、今にも駆け出してしまいそうな様子だった。両手を握りしめ、不規則なリズムで体を上下させている。スタートの合図を待つランナーのようだ。

 彼女のうずうずが伝染したのか、わたしまで気分が高揚した。


「あのね、林檎の花が咲いたらね、ぽんぽんするんだよ」


「ぽんぽん?」


「粉を付けるの」


「ああ、受粉させるのね」


 この後、すみやかに使用人たちの手で受粉作業が行われた。


 これは後になって知ったことだが、林檎の花は開花期間が極端に短く、わずか数日しかない。また、人の手で花粉をめしべに付着させて受粉させるのだが、面白いことに林檎は同じ品種の花粉では受粉しても実がならないのだそうだ(このことを自家不結実性というらしい)。そのため、わざわざ別の品種の花粉を用意しなくてはならないのである。


 同じ種類同士では子供ができないなんて、林檎の世界も世知辛い。



 2



 ゴールデンウィークの連休中に、富士宮市内の浅間大社せんげんたいしゃ流鏑馬やぶさめ祭りが行われるというので、林檎と共に見に行った。勇心と夏江はそれぞれ別の用事があったため、泉が保護者として同行した。


 お祭りに足を運ぶのは実はこれが初めてで、昨夜は楽しみのあまり遅くまで眠れなかった。


 広大な敷地内は足の踏み場もないほど露店と人とで賑わっていた。通路の両脇に立ち並ぶ露店は途切れることなく続いており、様々なものが売られている。


 数歩歩くたびに売られているものが変化するのが面白い。焼き鳥、焼きそば、ケバブ、わたがし、亀、スーパーボール、ピカチュウの形をしたベビーカステラ、りんご飴にぶどう飴。


「あれ、カレーも売ってる」


 茶色いどろッとした液体が寸胴鍋の中を満たしていた。縁日の場でこのような庶民的な料理に出くわすとは思ってもみなかったので、少し驚いた。


「違うよ、百合お姉ちゃん。これ、ビーフシチューだよ。ほら」


「あ、ほんとだ」


 なるほど、のれんに目を配ると、たしかに「ビーフシチュー」と書いてあった。見た目はカレーそのものだが、ビーフシチューを食べたことがないので何が違うのか判らない。


 その隣には「フルーツの粉」なる珍妙なものが売られていた。レモン味は黄色、メロン味は緑、というふうにカラフルな品揃えだったが、その鮮やかさは逆に体に悪そうな気がしてならない。

 散々迷った末、最初はりんご飴を買うことにした。


「百合お嬢様、富士山は誰の所有物か、ご存知ですか?」


 大きなりんご飴を林檎と食べていると、泉がそんなことを言い出した。


「富士山? えっと、たしか静岡県のものじゃないんですか? あ、いやでも、一応山梨県の中にも入ってるから……ええと」


 頭の中で日本地図を開きながら考える。面積的には静岡の方に分があるか。


「実は、どちらも不正解なのです。富士山は、この浅間大社のものなのでございます。正式名称は富士山本宮浅間大社。その名の通り、富士信仰の総本山というわけでございます。八合目以上の山頂部は実はこの浅間大社の私有地となっております。三十年近く前に裁判で国と所有権を争い、見事所有権を勝ち取って、公的にも認められたのでございます」


「へぇ、初めて知りました。富士山について知ってることと言えば、高さが3,776メートルだってことくらいです」


 3776(みななろー)という語呂合わせで小学生の頃に覚えた。大きな富士山のように皆でなろう、という意味らしい。


「林檎は知ってたよ」


 りんご飴を齧りながら、林檎は得意顔を見せる。


「嘘だ」


「ほんとだもん。泉に教えてもらったの。コノハヒメとか」


「何それ」


「コノハナサクヤビメ。浅間大社に祀られている祭神でございます。古来より、富士山は噴火による災害で地域を悩ませていたため、それを鎮めるために水の神であるコノハナサクヤビメを祀っているのでございます」


「噴火かぁ。そういえば、富士山って火山なんですよね。あの、もしかして、富士山が噴火したら八神のお屋敷は……」


「はい、あっという間に火砕流に飲み込まれるでしょう」


 泉は朗らかな笑顔で言った。


「……ははは」


「ご安心ください。富士山の噴火活動は一七〇七年の宝永大噴火以降、目立ったものはありません。噴火の頻度も、近年は数百年に一度のペースですので、我々が生きている間に富士山が火を噴くことはないと思われます」


「ならいいんですけど……」


 簡単な富士山講義が終わり、今回の目的である流鏑馬を見物することにした。浅間大社の敷地を東西に走る馬場には、もう多くの人だかりができている。


 流鏑馬とは馬に乗りながら的を弓矢で射貫く武芸である。泉によると、この流鏑馬祭りはあの源頼朝みなもとのよりともが浅間大社で流鏑馬を奉納し、武運長久、天下泰平を祈願したことが始まりとされているそうだ。


「もう始まっていますね」


「お馬さんだー」


「林檎、静かに」


 木の杭で仕切られた細い通路を、砂埃を上げながら馬が駆けていく。その上には平安時代の武士を思わせる服装に身を包んだ射手がまたがり、矢をつがえている。彼らの左手には三つの的が構えていた。物凄い勢いで馬場を駆ける馬。それを緊張の面持ちで見守る観客たち。


 一つ目の的に差しかかった。


 射手は真横に体を捻り、的に上半身を向けると、矢を放った。その瞬間、木の的が真っ二つに割れ、歓声が上がった。射手は二本目の矢をつがえ、二つ目の的に備える。

 あんなに激しく揺れている馬の上で、よくあんなに落ち着いていられるものだ、と感心する。わたしだったら、絶対にできない。

 二つ目、三つ目も無事命中し、射手は拍手の中退場した。と思ったら、すぐに次の射手がスタートした。全部で十五騎ほどの馬が走るという。


「今のように全ての的を射貫くのは大変珍しいのです。一発でも命中すれば御の字。全く当たらなかったり、落馬したりなんてこともあります」


「へぇ、危ないんですね。落ちたら骨折しそう」


「林檎もね、お馬さんに乗ったことあるよ」


「本当?」


「うん、昔ね、パパとママと一緒にね、おっきな牧場に行ったの」


「えぇ、怖くなかった?」


 地上から馬の背中までは二メートル近くある。わたしだったら、怖く身動きが取れなくなるだろう。


「今度、百合お姉ちゃんも一緒に行こう」

「い、いいけど」


 流鏑馬を見学した後は、また露店を冷かしながら敷地内を散策した。東の端に大きな池があり、赤く塗られた橋が渡されていた。橋の上から池を覗くと、緑色の水草がゆらゆらと揺れている。


「綺麗な池」


「ここは湧玉わくたま池という池でございます。富士山に降り積もった雨や雪が地中に浸み込み、長い年月をかけてろ過され、湧き出たものと言われています」


 聞くところによると、この近くに富士山の湧き水を飲むことのできる水飲み場もあるという。


 陽光が煌めく水面を眺めていると心が洗われるようだった。


「あ、亀さんがいる」


「ほら林檎、あっちには鯉もいるよ」


「お嬢様、記念にお写真を」


 橋を渡り終えると、泉がデジカメを掲げながら言った。そういえば、彼女と写真を撮るのはこれが初めてだった。というより、家族で写真を撮るという経験がわたしには全くなかった。母はそういうところが抜けていて、アルバムの類は一切なかったのだ。


「お二人とも笑顔で……そう、いいですよ。はい、チーズ」


 パシャリ、と小気味いい音が連続して鳴った。


「どう、上手く撮れてますか?」


「それはもう。お二人とも素晴らしい笑顔でございます」


「見せて見せて―」


 林檎が泉に向かって走り寄る。


「あ、こら走っちゃダメ」


 この日撮った林檎とのツーショットは、わたしの宝物である。


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