凪
森を囲うように引かれた篝火、そこから遥か後方に陣を敷き、凪はのんびりと腰掛けていた。
「捜索兵、未だ弥生の発見には至りません!」
「…わかった、下がれ」
凪の代わりに、報告に答えた男、柊はちらりと凪を見た。
「お聞きの通り、未だ弥生を見つけたという報告が上がりません。大丈夫でしょうか?」
「…なにがだ?」
凪は、どろりと濁った目で柊を見下ろす。
柊はその瞳から頭を伏せることで目を逸らした。
「これだけの人数を割いて、未だ報告が上がらないとなりますと、すでにこの森を抜けている可能性はございませんか?」
「可能性は、あるな。ただ低い。やつの性格を考えるなら、ここに留まって返り討ちする機会を探るだろうさ。この俺のな」
凪は森を見ながらくく、と喉を鳴らす。柊には自分を狙ってくる人間がいるのに笑うことのできる神経が理解できなかった。
「それならば、捜索の人間を減らして凪さまを警護する人間を…」
「柊」
凪は、柊の言葉を鋭い声で制する。ここへの出陣前に言い含められていたことを思い出した柊は、先の言葉を言い直す。
「将軍さまの御身を護る人員を増やした方が」
この弥生討伐に向かう前に、全ての兵を集めて凪は皆に言い放った。
『この度の出立に際し、俺は将軍の地位を確約された。今回陣内では将軍と呼ぶように』
その宣言に兵たちは少なからず動揺が走る。凪を将軍に据えた速さ、お上の考えの柔軟さに感銘を受けた者だけでなく、先の将軍が謀反で殺されたばかりだというのに、落ち着くことを待つでもなく空白を埋める、速すぎる対応にだ。
「俺を護る人間など要らぬ。俺は俺より弱い者に護ってもらう気などない」
凪は柊の提案をあっさりと退ける。柊は、それ以上の意見をしようと思わなかった。
事実、弥生が反旗を翻し先の将軍を屠って軍内に於いて剣の実力で凪に勝る者は居ない。
そのことは周知の事実ながら、柊は胸につかえのようなものを感じていた。
先の将軍の死体を改めたのは柊だった。
将軍と凪、そして弥生が3人で会合をしている傍に控えていたためだ。
そうは言っても言葉を通せる話ならわざわざ密で行うこともない。
話している内容は柊の耳には届かなかった。
その後、凪の叫び声が響いた。
「将軍が斬られた」
ただそれだけの言葉だった。
1番近くに居た柊は3人の元へ走った。そのために控えていたのだから。
部屋に入ると柊の目に飛び込んできたのは、血塗れて倒れる先の将軍、刀を握る弥生…そしてその場で刀も抜かずに立っている凪。
証左は充分だった。だが柊が見聞している最中も弥生が逃げ出すことも、刀を振るうこともなかった。
「凪…これはどういうことだ?」
弥生がそう呻くのは確かに柊の耳には入っていた。その言葉を聞いて、柊は凪の表情を伺うと、薄ら笑いを浮かべていた。
「…出合え!将軍様が殺された!斬ったのは、弥生だ!」
柊は自分が見た光景のままを叫んだ。
その声を聞いた弥生は、抵抗するでもなく、逃げた。
柊はこの数瞬の間に自分の目で見たことを、弥生の行動で理解していた。
「しかしながら、やつも戯けたことをしましたな。先の将軍を斬れば自分にお鉢が回ってくるとでも思ったのでしょうか」
「さぁな」
凪は詰まらなそうに柊の言葉を一蹴した。言葉を退けられた柊は、安堵で胸を撫で下ろす。
(これで良い。やつに興味を持たれるな)
柊と凪の付き合いは、それこそ凪と弥生が軍に入った時から名を知っている程度には長い。だが、同じ任に付いたのは一年前、ある村を滅ぼした時に一兵卒として参加した時以来だった。
柊は、自分の合わせの胸元を握った。不安になったときに癖づいていることは、本人は気付いていない。
「将軍さまが居られることを鑑みれば、やつに次の将軍が務まらないことは目に見えていたはず。考えなしに動くのは、産まれの卑しさからでしょうな」
柊は不安からつい言葉が多くなる。黙って柊の声を流していた凪は、腰掛けから立ち上がると、柊の前に立つ。
「そうだな」
凪はいきなり柊の口元を掴む。歯が歪むほどの力で顔を握られた柊は、呻き声すら上がらない。
「俺とやつは同じ村の出だ。やつを卑しいというなら、俺のことも卑しいというのと同義」
骨の歪む音が柊の頭の中でこだまする。
「人をこき下ろすときは、相手の素性も頭に入れて置くのだな」
柊はどうにか首を振って、理解の意思を伝える。顔をそのまま握り潰さんとする手は、気絶寸前のところで解放された。
「ふん…。こんなところでお前を殺しても憂さ晴らしにもならない。よかったな、俺に獲物がいる時で」
柊は口内に溜まった液体…唾と血の混ざったものを吐き出して「ありがとうございます」と小声で呟く。
凪は聞く気もないのか、先ほどまで座っていた腰掛けに座り直す。
自らの失言を取り繕うように、再び言葉を紡ぐ。
「ご厚意痛み入ります。…しかし大丈夫でしょうか」
「有象無象の心配をできるほど、貴様も偉くなったか」
この言葉に、引いた方がいいと柊の中での警鐘が鳴る。しかし己がいのちと関わることであるためか、先程の失言を以ってしても言葉を止めなかった。
「兵の心配ではなく…。この森の噂をお耳に入れておこうと存じまして」
柊はここに陣を敷く際、周囲の住民から聞いたことを凪伝える。
「どうやらこの森、1年ほど前より突如現れたものらしく。近隣の者は不気味がり近寄ることもしなかったのですが、旅の者の休息や荒くれが根城にしているという噂でした」
凪は聞いているのか、聞いていないのか反応もすることなく、柊の言葉を受けている。
「ただ、この森入って行った者が戻って来ないというのです。旅の者、荒くれ、獣の肉を欲した狩人、全てこの森に入ればその姿を二度と見た者は居ないとのこと。そうして付いた名が…」
『御魂の森』
柊の言葉を黙って聞いていた凪は、森の名前を柊と共に言う。
「ご存知でしたか」
凪は柊の感銘の声を煩わしそうにため息を吐きながら答える。
「そんなもの、この森に陣を引くときに雑兵から上げさせている。知っておけば助かるものも、知らぬばかりに呪いと変わる。だから、俺は全ての情報を上げさせる」
柊は凪の言葉に、胸元を握っていた。
「柊。貴様も生き延びたくば、生き延びられる行動をせよ」
凪の冷たい言葉に、身震いをする柊。つまりは、自分に付き従え、と。
「お言葉、胸に刻みます」
凪はすでに柊から興味を無くしたのか、ぼんやりと森を眺めている。柊は立ち上がると視線を凪の見ている方向に合わせる。
凪の奇行を柊が聞き始めたのは、ちょうど1年前、村を滅ぼしたあたりだと柊は聞いていた。
(それ以来、なぜかやつは私を必ず連れ添わせる。今回も、だ)
柊は凪の思考を計りかねていた。
柊は日和見と裏では言われているのは自覚していた。危険な任に付かず、手柄も上げない。居ても居なくても良い昼行灯、そのあだ名は自身の耳にも入っていた。
その言葉を聞いたときに、柊は別に気に掛けなかった。
その認識であれば重要な任につかされることはない、そう思った。
だが、実際は常に凪の横にいることが増えた。昼行灯が居ても成果を上げてくる、そのことで相対的に凪の評価が上がっていった。
今回の弥生討伐の一端は柊の責があることは本人が自覚していた。
確証は、無い。その上で理解していた。
将軍を殺めたのは、凪だと。
凪の行動は、誰もが評価をしていたが上にこれ以上上にはいかないと誰もが知っていた。
兵を束ねることが限界だと。
確かに凪は軍で1、2を争う刀の腕を持っていた。その上で、策を練る頭も持っていた。
だが、そこまでだと皆が知っていた。そのことを口にした男は次の日には隊から消えていた。野党に殺されたと言われていたが、凪が殺したのだろう。そのことを誰も咎めることはなかった。
『凪に関わるな、殺されても自業自得』
そんな認識が軍には暗黙の了解で広がっていた。
もし、凪の腕が、もっと弱かったなら。
もし、弥生の腕がもっと立っていたら。
今回の弥生討伐には至らなかったかもしれないと、柊は感じていた。
凪の立場への執着は尋常でなかった。
まだ内々に決まった将軍という立場をこの場でも使わせることでその内情は明らかだった。
順当に行けば、弥生が取り立てられることは皆が知っていた。
今回、将軍が弥生に殺されて1番得をするのは、凪その人なのだから。
誰もが感じていた。
誰もが口に出せずにいた。
誰しも自分のいのちは惜しい。
こんなくだらないお立場争いで殺されることなどまっぴらだった。
兵と言ってもほとんどが稼ぎのなくなった農民、口減らしに家を出された次男坊。そして野盗に襲われて村を焼かれた者たちの吹き溜まり。そのような中で規律を作るとしたら、それは力と金しかなかった。
先の将軍はそこを見誤った。
黄金色の鼻薬を嗅がせていれば靡かぬ者はいないと信じきっていた。
凪の言葉ではないが、情報は大切だ。
もし、将軍が凪のことを少しでも知ろうとしていれば、そのことに気づけたかもしれない。
鼻薬の匂いに惑わない、獣の匂いを。
全ては想像だが、先の将軍はそういう意味で人の上に立つ器ではなかったのだろう。
柊は、そんなことをぼんやりと考えていた。
「捜索兵、1名帰還しました!」
報告を受けて、柊は眉をひそめた。
(1名…?)
凪の指示は2名ひと組で捜索にあたるように全員に申しつけていた。
なにか不測の事態があったときに対処できるように、という指示だ。
報告兵に引きずられてこの場に崩れ落ちた男は、泥にまみれていた。
「この者、森から逃げようとしていたところを捕獲いたしました。面通しを行なった結果、今回の兵であることがわかり、ここに引き連れて来た次第です」
報告兵は、自らの仕事を果たすと足早に去っていく。これから行われることを知っているかのように。
凪は、任を果たせなかった者に容赦は無い。この男も、逃げ帰ったところを捉えられたのが運の尽きだろう。明日の朝日など拝めまい。
だが様子がおかしい。
凪の前に引き摺り出されたことは先の会話で理解しているはずなのに、男はうずくまったまま、顔をあげようともしない。
柊は男の髪を掴むとその顔を引き上げた。
「どうした、将軍さまの前でその態度。よほど首をとられたいと見える」
柊の声で男は震え出した。「首…嫌だ…化け物…化け物…」戯言のように繰り返す。
「いかがなさいますか?」
柊は、凪に向き直り男をそのまま引きずる。凪と柊の間に、戯言を垂れる男。
凪は、ゆっくりと近づいて、首を掴む。
「…話せない、か?」
凪は至近距離で男の目を見て首にかけた手に力を込めていく。徐々に食い込んでいく爪。
ゆっくり、だが確実に締まる男の首。
「はな…します…だから…」
徐々に近付く死の香りに男は現世に未練を落とした。
その言葉で凪は男を突き飛ばして腰掛けに座り直す。
「さぁ、話してみよ」
柊の声が突っ伏している男の頭に降り注ぐ。まだ男は咳き込んでいる。
咳が止まると、男は震え出した。
「将軍様、無理です。やつは…化け物に成り下がりました!」
「化け物?」
柊は凪に振り返る。
凪は薄ら笑いを浮かべるだけだった。
続