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御魂の森  作者: 10ノ29
1/3

白い着物の女

 その森、一度足を踏み入れれば

 肉を持って、再び出ること能わず


 過去に囚われし罪を持ちて

 未来永劫彷徨い続ける


 一箇所に非ず

 一刻に非ず


 朧とも思るるその森を

 人は畏れを以って忌み嫌う


 御魂の森 と



 森の周囲を囲む篝火がその内と外の境界をはっきりと照らし示す。

 外に逃げ出そうとすればすぐに見つかり、引き摺り出され、晒し者になるだろう。

 内側へ、内側へと逃げるしかない若武者の名前は弥生やよい

 その者は腹に太刀傷を負っていた。深手ではないものの、血液を止められる傷の大きさではなく、徐々にだが確実に彼のいのちの滴が溢れるには充分なものであった。

「…情けない。こんな傷貰うなんて」

 その傷は、いのちを切り取るには充分な速さを以って弥生の腹に襲いかかった。その速さを躱せる者はそうはいない。だが、そのようなことも一度我が身に刀を受けてしまえば無意味であった。

「自分が奪ってきたもの。いつか人に奪われる覚悟はしていたつもりだ。だがこんなにも早いものとはな…」

 若者の目はすでに定まっていない。森の獣道には点々と血の足跡が踏みしめられている。

 森に入ったばかりの時は土塊に紛らせることもしていたものの、既に逃げ道を塞がれていれば追いつかれるのは時間の問題。選ぶはふたつにひとつ。

 このまま若者を探すことを諦めるまで森に籠るか、それとも討って出て対象首を刎ねるか。

 そのどちらも、現実味がないことは弥生自身が1番わかっていることであった。

「あいつじゃあ無ければまだ、目もあったが。おそらくあいつが出てきているだろう。…正念場、か」

 限界のところで張り詰めていた糸が途絶え、弥生は大木の根元を背に目を閉じた。既に動く身体ではない。自分の運が悪かった。そう覚悟を決めて追われている身でありながら、沈みゆく意識に身を委ねた。

「…生きたい?」

 周囲に鈴の鳴り響く音がする。同時に、その鈴とも聞き間違う女の声。その声に生気はなく、ただ夜の帳に羽ばたく鳥の声のように誰に向けたものかもわからない。

 弥生の耳にも届いていた声は、沈みゆく意識を引き留めるだけの力はなかった。

「生きたい…?生きたい…?」

 女の声は徐々に弥生に近付いていく。

「ねぇ、生きたい?」

 女の声に初めて方向というものが加わる。声は弥生に向けられていた。弥生からの反応は無い。

 弥生の目の前に立つ女は、血の滴る腹を爪先で抉る。

「痛ぇ…。何しやがる!」

 沈み込んでいた弥生の意識は、腹の痛みで呼び戻される。地べたに座り込んだまま腹を押さえて腹にめり込んだ爪先から見上げていくと、弥生は息を呑んだ。

 白い着物を着た女が目の前に居た。真っ暗な森の中にもかかわらず自ら光を放つが如くほんのりと浮かび上がる、女。その女の表情は全くの無。能面でも貼り付けたかのように血の気も無い有様だった。

(美しい…)

 先ほどまで意識が死の淵に沈みかけて、しかも今は追っ手が差し迫るこの状況。

 頭では理解していた。だが、自分の傷を抉った女に最初に出て来た想いは、美しさに見惚れる感情だった。

(こんな美しい女、初めて見た…。いや、だがこの女の顔、どこかで)

「…生きたい?」

 弥生がわずかに感じた懐かしさ、その記憶を辿る前に女は更に同じ問いを重ねた。

 先ほどから繰り返し続けられるその問いに、弥生は答えなければならないという考えが過ぎる。

「生きたいか、だって?そんなこと…」

『血がこちらに続いているぞ!』

 先ほどまでの静寂を切り裂く殺気だった声。その声に反応して弥生は腹を押さえながら刀を支えに立ち上がり声の響いた方向に向き直る。

「あんた、下がれ」

 声の主が弥生を追っていることは間違えない。巻き込まれた形の女を逃すために、森の奥に手を指し示す。その忠告を受けても微動だにしようとしない女。それどころか呆然とした面持ちで小首を傾げた。

「…何故、下がる必要が?」

「声の主は俺を追ってきている。一緒に居ようものなら…殺されるぞ」

 声の響いた方向から足音。かなり急いでいるようで感覚が短い。必要最低限の弥生の言葉を受けて得心したように頷く女は、その場から動こうとしなかった。

「何をしている。早く逃げないと…」

「必要はない。何故なら私は…」

 女の言葉の最中に木の葉が舞い散り刀の煌めきが弥生に向かって疾る。弥生は刀で合わせるも受け流せずに堪えていた。

「こんなところでお独りで…寂しかったでしょう!」

 斬撃が飛んで来たことよりも刀を振るった男、平八へいはちの言葉に弥生は目を見開いた。

(独り…?今ここには…)

 斬り合いの最中に目を逸らすほど愚かではない。弥生の目は平八を中心に据えている。自分の見えている女が、平八には見えていない。そのことを気に掛けている暇はなかった。

 刀を押し返して距離を取る。無理に力を込めたせいで体躯を崩すも、平八は踏み込んで来ることはなかった。

「初手で仕留められなければ、距離を取れ。本当に教えの通りの戦い方をなさる」

「手負いのものなら攻め立てて圧倒しろ。そう教えたはずだが。相変わらず頭が弱いな」

 斬りかかってきた平八は弥生から戦う術を教わった者だった。弥生が教えた者の中でも指折りで腕が立つが、頭に血が上ることが目立つ粗忽者だった。

「そうやって見下す態度、前から気に食わなかった!」

 この通り、ほんの少しの挑発で見境がなくなる。

 せっかく取った距離も、平八自ら詰めてくる。

 明らかな格上相手には数で圧倒することが定石。平八は奇襲を掛けられる機会を潰してまで周囲の人間を集めた。そのことをしておきながら功を焦ったのか独りで斬りかかり更に、時間が稼げる状態も放棄した。

 要するに、馬鹿なのだ。折角の機会をことごとく自ら潰していく。弥生が指導していた時に何度も指摘したことで、平八は自らの首を絞めていた。

 平八の真っ向から振り下ろされる刀を弥生は自らの腕に刀を乗せてやなぐ。軌道を逸らされて体勢を崩した平八の首元に弥生は踏み込みながら袈裟を放つ。

 前のめりになっていた平八はなんとか後ろに下がるも仰け反りながら重心が傾いている。弥生は手を返し、腰を捻った。袈裟からの斬り上げ。重心の崩れた平八は切先のところで弥生の刀を躱すもそのまま仰向けに倒れてしまった。

 弥生は更に踏み込んで平八の肩に足を置く。踏み抜かれた平八は無様に喚き散らす。

「貴様…。殺してやる!」

「最期の教えだ。止めは必ず、躊躇なく、だ」

 弥生が、平八の喉に刀を振り下ろす。途中、弥生は平八から身を離す。炸裂音。

 瞬間、弥生の肩から血柱が立った。


「あれを躱しますか。目の前で獲物が転がっていて、確実に仕留められる状況で。こう見えて気配を殺すことはあなたからも褒めて頂いていたと記憶しておりましたが」

 音の響いた方向から、のっぺりとした顔の男が姿を表す。

田吾作たごさく!貴様、俺を獲物と言ったか」

「独り先走り、無様仰向け。獲物以外の何者でもないでしょう」

 姿を現した田吾作に、弥生は肩を押さえながら歯噛みする。最悪の組み合わせだと察したからだ。

「いやはや、目の前の獲物に集中していて?言ってしまえば油断していて?何故避けることが出来ますか、理解の範疇を超えています。ひょっとして、あなた獣か何かでしたか?」

「そうだ、さっき種子島だろう?そのままやつを仕留めちまえ」

「平八、あなたは頭を使ってください。単発式、詰め替えはありません」

 悠長に話す田吾作。弥生の緊張は先ほど平八と対峙していた比ではなかった。

 数が増えたから、ではない。確かに数が増えたことも驚異だが、平八と田吾作互いの組み合わせが追い詰められて手負いの弥生には最悪の組み合わせなのだ。

「だったら、なんで出てきた!そのまま隠れて闇討ちすればいいだろう」

「そのままでは猪武者が死んでいました。それでもよかったのなら構いませんが」

 平八は押し黙る。自分のことを救ってくれたという認識が芽生えたらしい。

「そんな猪1匹救うために、絶好の機会を逃すとは。揃いも揃って程度の低い」

「なんだと!」

「平八、挑発です。先ほどその挑発でやられたことをお忘れなく」

 弥生は心の中で舌打ちをした。弥生が危惧していた状況に自然出来上がってしまう。

 田吾作は大柄ではあるものの力が弱く、持久力もない。兵としては下も下。使い道がない。

 その田吾作を兵足らしめていたのは、この冷静さだった。自らが動けない代わりに常に状況を見定め、最適な動きをする。たったそれだけと思えることだがそれだけのことが意外に難しい。

 事実、怒りに任せた平八をなだめて、常に弥生への注意も切らない。

 腕は立つが短慮な平八に、冷静だが腕の及ばない田吾作。このふたりをよく組ませていたのは他ならぬ弥生だった。

 補い合うふたりに、手負いの弥生。敗色は濃厚だった。

「やはり、動きませんか。と言うより動けませんか。弥生様」

「様付けとは皮肉だな」

「本当にそう思います。どうでしょう、ここは降っていただけませんか?」

「田吾作!」

「手負いとはいえ、あの弥生様。こちらも無事では済みますまい。だったら、大人しく降っていただき便宜を申し立てる。そのほうが皆丸く治る」

 田吾作の提案に弥生の一瞬心が揺れた。ここでふたりを退けても体力を消耗した身で逃げおおせると弥生自身も思ってはいなかった。

「魅力的な提案だが…総大将はあいつだろう?」

「…ええ。神をも殺す、あのお方です」

 弥生の言葉に田吾作は舌打ちしながら構えを取る。弥生と平八も合わせて構えた。

 確かに田吾作の提案は魅力的だった。しかしそれは捕まえた人間の処遇を決める人間次第だろう。弥生は確信していた。今回の総大将は捕虜に情けなどかけないと。

(まして、ことの顛末を知っている俺にはな)

 懐柔に失敗したと理解した田吾作の行動は早かった。平八に目配せをしながら、左右に散る。

 人間左右に目が付いているわけではない。まして手負いの弥生がふたり相手に気を配り続けられるわけがないのだ。

「田吾!どうすんだよ」

「あなたは普段通りで。こちらが合わせます」

 言葉の通り、やたらめったら突き進む平八と反対方向へと動き続ける田吾作。これがただ、反対にいるだけなら処理しやすいものの、時に同じ方向、時に直角と常に居場所を変えている。

 そうは言っても単純な方法だ。破る方法はいくらでもある。

 だがそれは弥生の体調が万全であればだった。腹に負った傷、そして先ほど田吾作から受けた銃撃。流しすぎた血は、容赦なく弥生の体力を奪っていく。

 むしろ、田吾作はあえて深入りせず体力の消耗を狙っている節すらあった。

 何度も飛び出そうとする平八にその都度声をかけて制する田吾作。

 自分ひとりで功を焦る平八に対して田吾作の1番の褒美は生き残ること。ふたりで仕留められれば上等、人が集まり袋叩きにすることが次善と時間稼ぎに徹した動きをする。

 弥生はそのことを分かっていながらも、焦れていた。踏み込めない、踏み出せない。

 迂闊に踏み込んだら返り討ちに遭うことは目に見えている。まして田吾作は未だ火縄銃を捨てていない。すでに装填を済ませていて、わざと弾切れといった可能性を弥生は捨てきれずにいた。

 弥生の焦りは、伝わっているのだろう。田吾作の表情にも余裕が見えている。

「ふたりがかりで手負いひとり仕留められないか、腰抜け!」

「なんだと!」

「指導者が臆病で逃げるしか能がない人でしたから!」

 弥生の挑発に、熨斗を付けて返すと言わんばかりに声を張る。

 追い込まれているのは、間違いなく弥生の方だった。

 剣撃は飛んで来ず、あえて足を踏み鳴らして注意を向けさせたら別方向から。気を取らせるための音を無視すればそのまま刈り取る刃に変わる。

 弥生の息は既に上がっている。それにも関わらず、決め手を打ち込む指示を出さない田吾作。

 その時平八が足をもつれさせて尻餅を着く。罠かもしれないが、この機を逃して切り抜けられる状況にもなかった。

 弥生が一気に距離を詰める。恐怖に染まる平八の顔。罠では、無い。

 そこに再びの炸裂音が鳴り響く。今度は脚から鮮血が飛び散る。

「だから、避けないでください。なんで避けれるんですか、あなたは」

「く…あ…」

 避けたと言っても、脚を貫いた鉛玉。この脚では身動きすらままならない。

「お前、弾は無いと言ったはず」

「敵を騙すなら、と言うやつですよ。ここまで追い込みました。首級は私のもので構いませんね?」

 平八は2度も助けてもらった手前、是首で答える。

 田吾作は、脚を貫かれ転がる弥生に近づく。

「最期の教えでしたね。止めは必ず、躊躇無く」

 田吾作の振り上げた刀が、弥生の首に向けて振り下ろされた。


 続

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