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感想返し

なんか偉そうに見えるやり方ですが、感想返しが長くなりそうなのでこちらにさせていただきます。興味もない方はスルーでどうぞ。後、本当に長いしクドイですw。


Q. ホリ○モンのやつ読みました。

いや~、酷いですね。利権利権で嫌になります。

みんながもっと協力すればよい国、良い世界になるのに(夢物語ですが)

ところで、どうしたらそのようなものの見方ができるようになるのでしょうか。(私には気づけないことが沢山あったので。どうやら人の善意を信じすぎるところがあるようなのですがね涙)


略式A. 端的に先に言っておくと、対象と対象以外に私達は概念で定義するから対象だけ見ても現実はその対象につながる対象以外の部分がある。だから主張される明確な部分はどの様なバックボーンを持っているものなのかを、普段から考える様にするという所かなと。その時だけその情報を扱って答えが出る程世の中は甘くなく、世の中の全ては結局は繋がっている(全ては同時性。単体で区別できるのは条件を限定するから。その条件を限定出来ないなら無視できない。one for all, all for one)という認識でしょうか。一つ一つの情報をそのまま受け取るんではなく、バックボーンがどういったものでその事象が発生したかを考えていくとやがて個々の要素が繋がる(「なぜ」と考える事。これは子供の考えが第二次成長期にそれまで溜め込んだ情報が繋ぎ合わさり人格と呼べるものを形成する過程と同じ)かも知れません。行動とは行為の表現形であり、必ずその行動を行った動機(行為)があります(たとえそれがストレスの発散などのその場限りの短絡的行動でも)。行動を見て行為を推測する、その行為の基本原則に分かり易くスマートな快感原則を私は用いています。見えるものはその手掛かりに過ぎないと私は考えます。



A. 基本的に一つの話題では根本的な部分を語れないので交渉なんてものは長い間の付き合いで基盤を作り共通する認識を固めるものである事は前提にしてください。その為に拙作があるしその作品もそこそこのボリュームで書いています。それらの総体が私が持っている価値観と世界観と言葉の大体の言葉の定義などを支える根拠になってます。


で、今回の話の前提として。


私達は良くも悪くも過去の習慣を基盤にします。その時点で、妄信しているという前提がある事にまず気づけないと自身がどう判断して行動しているかに誤解が生じます。そしてそれに従う理由が"それまでそれでうまくやってこれた"から、となります。この時点で"非論理的"である事実を受け入れているわけです。この先に科学だどうだと言って誰かの精神の一部の表現形となる理論を論理的に構築しても、それは非論理上に展開される論理でしかありません。

しかし私達は全知でなく全てを解明しているわけではありませんから、大なり小なりその状態で生活しています。言うなれば私達の体を構成する物質を含めた世界がどの様に構成されて機能しているのか明確に分からないが、私達の精神は私達という存在を維持していけるだけの漠然とした結果を寄せ集めて行動原理にします。痛いから避ける、気持ち良いから手に入れる、というものをチャレンジアンドレスポンスして行くのですが、その基盤が出来上がる為には、あるチャレンジアンドレスポンスの結果として生死があり、正しいかどうかも分からない行動をして結果的に生き残ったというそこにどの様な根拠があったのか分からない行動の結果として、ルールを構築していきますが、最初の段階でそこにあるのは、よくわからないがルールを守っていれば安全だ(ルールを守れない者は死んで居なくなる)という認識がそこにあります。

ここまでの流れで私達は受動的にルールを構築しているというのが特徴になり、それで何の不都合もなければそれ以上の定義も何もしません。

しかし、状況が変化してそれまでのルールで対応できないと争う事になり、ルールが細かくなったり例外として緊急法みたいなものが出来上がるわけです。しかしそれも粗いからまだ争うし、例外対応はいつになったらやるのかで争う事になるので、どこかに基準が居るから皆が納得出来る基準としてリーダーの言う事を聞きます。

そうして環境を改善していくと、次第に死亡率が低下していって生存率が上がり、以前と同じ様な厳しいルールに則っていなくとも生きていけるだけの環境になります。すると常に厳密に守らなくて良いと思い始めてモラルが緩んで、失敗を繰り返しますが、失敗を繰り返しながらどこまで緩めてよいかの基準をチャレンジアンドレスポンスで追及していく事になります。だから争いが進歩させるというのはある面では正しいんですがそれだといつまでも私達は同じ間違いと苦しみを繰り返す事になりますし、物理的な争いで勝った側が決めたルールを守るという結果になり、なら事後事実で正当化すれば良いよね、となりいつまでも争う事になります。

だから私達はそんなものでは揺らがない確固たる信用出来るルールという基準を欲します(勝ったらなんでもありという考えを抑え込むため)。<-哲学などの目覚め。

しかし、勝ったらなんでもあり、という考え方は欲望を満たすには魅力的であり、得られる利益は見つけるのも維持するのも面倒な"揺らがない確固たる信用出来るルール"なんてものよりも遥かに良いものに見えます。自身が勝っている側に立つと。そしてそれが誰かに与えて貰ったもので買ったのか自分が元々持っているもので勝ったのかなど欲望を満たせる事には何ら関係なく、その違いが分かれば欲望を満たせないなら違いが分からなくする事までする様になります(社会、文化を下げる要因)。

その中で私達は、今までは外的要因に対して団結していたのが内的要因により争う事になり、しかし団結がなくなると外部要因に対してのリスクが高まり生きていけないので、内部で争いながら、外部からの圧力で分裂しない状態を作り出します。その中で世代継承していき、更に新たな外部と混ざるなどして、単一社会ならやがてある程度の成熟を見せるものも成熟度の違う社会(国家、地域、集団、個人)を持つために平均は出せるとしてもそれはあまり意味のないものになります。そして、そうやって混沌とした状態であれば、いくつもの要因が重なり、解明が難しくなり、解明がされない事で区別されず、その区別されない状況で利益を稼げる状況があるからこそ混沌とした状態を望む者が居る状態になります(この辺りがロウとカオス(本当はゲヘナ)の争い)。


という前提があって。

で、ここでは2点扱います。"なぜオリジナルは生まれるのか"、"どうすれば私の様な考えを持つ子供が出来るのか(若しくは大人が私の様な考え方をするにはどうすれば良いか)"です。

"なぜオリジナルは生まれるのか"ですがもう少し細分化すると、"時代の最先端での新しい発見"と"かつてあった文化の再興"の2つに分けられます。1つ目が厳密にオリジナルと言えるものでもう一つは現状でなくなってしまっていたものがもう一度注目されるもので準オリジナルです。準オリジナルの方は悪用出来ます。社会を潰してもう一度作り直し、その社会でかつてあった社会の模倣をすればそれだけでかつての社会を知らない者には"オリジナル"に見えます。なろう小説などによくある「強くてニューゲーム」というやつですね。

-->ここは別に読まなくて良いです。閑話休題

なろう小説の場合はそうやって誘導して行動するものを仕立て上げて本当の悪人がその中に隠れたいか自身の悪事を擦り付ける為の誘導ですが。また、その考えを平然と受け入れてする側になるのに躊躇しないならされる側になっても文句言わないよね?という事で、"現状で"されている可能性も考慮してくださいw。主にはこの先の未来で、そういった考えで行動する様に仕向けて、そこをかつてその考えで悪事を働いた者やその悪事を働いた者を見つけようとする者が糾弾して、社会を潰した悪人だどうだと扱い、罪の擦り付けをするのが目的と思われます。なろう小説の全てが全てそうではないとは書いておきますし、具体的にどれがそうだとは言いませんw。その為にここで書いてるわけではないのでw。願わくば読み手がその意図を読み取れるだけの知性を持つ事を望みますしその一助になれれば良いと思ってます。

<--ここまで別に読まなくて良いです。

で、本当のオリジナルの方ですが、これももう一回細分化出来て、本当の天才とそれに続く天才です。本当の天才というのは画期的なアイデアで世の中を変える者です。マクスウエルは電磁気学を体系付けましたが、その時にある程度の未来予想をしています。その予想を証明する様に新たな発見や照明を行う、これが後に続く天才です。本当の天才はアイデアを含めて画期的で、それがなければその後続の天才は凡人(秀才)で終わる可能性の高いものです。どこにまだ解明する余地があるのかも示すのが(大)天才、その余地を埋めていくのが後に続く天才です。ですからそのオリジナル(天才)の発想に瑕疵があり間違っており真理というものがあるとしてからズレているなら、その間違いを指摘出来ないとそのまま解明は続けられ真理からズレたままになります。それでもそれが用に足り問題がないなら、私達はそれ以上を望まなければそのズレた状態で社会を維持します。それが問題になるのはズレている部分で生じる問題が深刻化して表面化する時と、その先に新たな解明が出来ずに先詰まりを起こすときです。だからそこにも悪用が出来て、自分達に都合の良い未来を一部の専門者が構築する可能性があります。要は出来るかどうかは嘘を吐かない理由にはならないって事です。


で、私の様な考え方をするにはどうすれば良いか、ですが、

ーー>ここはつまらないジョーク

情報意識統合体(神)とリンクを持つ事です。

<--ここまでつまらないジョーク

極論で言えば利己益を優先する考え方ではなく純粋に知的好奇心で物事を探求しようとする事と公私の区別をなるべく作るという事です。

-->ここも読まなくて良い部分です。

宗教の話を持ち出すのもアレですが、瞑想は日常における些末な情報を削ぎ落して、主題となる要点に自身のリソースを集中させる手法です(眠りとはその極端なもの。区別なく得られた情報の処理を行う時間。勿論寝る前から考えながら寝る事でそこに焦点を当てる事も出来る)。単に目を瞑って寝てるわけではありません。要はアプローチの一つです。それは(利権や利害関係を排除して)純粋に対象を知ろうとするアプローチ法です。場合により利権や利害関係を追求する為にも使えます。所詮アプローチの仕方なので。この時に私達は私達自身が持つ情報を用いて追及しますが、遺伝子上にある情報(現実の情報を分析して生じる差違、違和感)も使うので、瞑想をすると言う事は神(純粋な知識)と繋がる方法だと受け取られます。勿論真似るだけのその行為が目的となる、目的の劣化もあります。

<--ここまで読まなくて良い部分です。


でも、利益目的での方が人間は動かしやすいわけです。1と0、というより明確に利益になるならそれを目当てで動けるわけです。しかしそれは子供をおやつで釣って勉強させるのと同じでしかありません。おやつが貰えなきゃやらない、おやつさえ貰えれば良いからズルをして怠けて、当初のおやつで釣って勉強させる事で得られる成果が出なくなります。だから勉強した結果でご褒美を上げる方法をしようとするのですが、今度はご褒美を貰えるとされる目標の主要因しか達成しなくなります。それが一番スマートで効率が良いから(快感原則に従うとそうなる)。そうすると目標さえ達成すれば良いという考え方になって、目標がテストの点数なら、点数を書き変える(家で見る分には先生には分からない(情報の不伝達))、カンニングする、他者の答案とすり替える、などが実行出来てそれを禁じて罰を与えると大人しくしますが根本が変わってないから違う方法をやろうとする。その時にその者の知能が高ければ巧妙な手段を行って騙してくるので、高い知能を与える前にその性質は矯正しないといけませんがそれをやらないのが現状です。で、それらもしない様になっても、結局は目標となる明文化出来ている部分だけを見るのでそれ以上は追及しないわけです。やってもおやつも利益ももらえないから。その時点でまだ利己的で甘えたままなのは、見た目の数字のみを競う社会では問題が表面化しにくいです。それしか評価する基準がなく、社会は約束を守る前提で組まれ、社会を維持するに足る人物である指標が学力などに見られるデータなので。

そして、おやつが貰えさえすればよい、利益が出さえすればよい、と考えているのであれば、偽装報告や情報の改ざんをした方が簡単に利益が出るわけです。現状の社会はそれを見つけられるかどうかのラインで作られていると言え、見つけられない不正はそのまま見逃されているのが現状であるという"見えない部分"があるという認識も必要です。そうなると利己的なディベートに見られる様に特定の集団の合意により特定の集団の利益優先で作られるが専門性の為にそこにある問題を指摘出来ないというのも現状の社会です。

つまりは私達が必要とする基準を満たしているかを保証する条件を私達が明文化出来ないので付け込む隙があるという事です。


で、私が今の考え方をする様になった理由は純粋に知的好奇心です。それは私が今の私になるまでの血統から来る情報と現実との差違に感じる違和感、だったかも知れません。蛮族が長年世代継承してきた村で蛮族として世代継承してもそこに違和感を抱くかと言えば難しい、それが当たり前だから。また、文明化した場所で世代継承してきた者はそこで世代継承するとそこに違和感を抱くかと言えば難しい、それが当たり前だから。当たり前を当たり前のままに済ませるとそこに現状を維持出来るルールを守る以上の何かをする必要もなく終わります。


そして私が抱いた知的好奇心の源泉を言葉で表すなら「この社会は一体何の冗談だ?」です。


子供の頃にそう思ってからずっと世の中を見てきました。そしてその答えを誰も持ってませんでした。そもそも自身がそれをうまく表現できない子供だったからです。なら誰も教えてくれないなら自身で調べて考えるしかない、という事になります。物事を見ても「なぜこうなる?」と延々と考える事になります。「それがルールだから」ととりあえずは受け入れますが、それでは自身の疑問の答えにはなりません。もし私が自身が楽をしたいだけだったらそれで満足出来たと思います。

-->ここはジョーク。

でも囁くんです。私の中のゴースト(遺伝子情報)が。何かが違うぞと。

<--ここまでジョーク。

そうなると、正しいかどうかは自分で決めていかないといけません。そうして現実と自身の折り合いをつけていく事になります。世界との対話というやつです。あえて酷い例えかも知れませんが、LGBTの方がその考えを許容されない環境に居たとしてどうにか折り合いをつけていこうと努力するのと似ているかも知れません。折り合いがつかないならそこに居れないわけですから。でもそんな事をしてたら不利にしかならないから一旦はルールに従いますが、「なぜ」と考えるからそこにある不都合に気づくわけです。そうして物事の良い所だけじゃない部分を見ていくと、自分の都合だけを考えるディベートではうまくいかないのが分かってきます。自分の都合だけを考えるディベートはそれが成功してしまえばその先はもうブラックボックスを解析する必要もないからそこで状態の追求は止まりますから。ちょうど私達がルールに従っていれば何の問題もないと考えるのと能動的か受動的かの違いがあれど根本的に同じになります。


なににせよ、ある出来事があって、その時こういった行動があった、後になってそれがどういった理由で行われたか分かった、それを繰り返して1つの情報に対してある程度の塊で情報を扱っていき(自分を持ち上げたくないので控えたい表現ですが、自分で分かっていようがいまいが、なるべく大きな分子構造で持っておくのと同じ)、他の情報と組み合わさり更に事実が分かる、という事を繰り返して、ある出来事が起こった時に、そこに至る可能性を模索して、自身の中に持つ情報から重み付で妥当なケースを導く。そしてその判断が正しかったかを確かめて更にその判断が間違っていればなぜ間違ったかを繰り返して、自身の判断が行動原理にしても問題ない所まで持っていこうとする、というのを繰り返した結果が今の私の物事の見方です。

その際に、公私の区別が付かないとそれだけ物事の分析において情報を詳細に分析出来ないから自身も普段から公私の区別をつける、利益優先で見るだけならその見方しか出来ないからそれ以外を見る事が出来ずに、自身で考えられるケースの幅が狭まり情報の信用度に影響するから、自我における自と我は区別する、というのが必然的に必要になってきます。自身にとって都合が良いから正しい、というのは自身を中心とした世界でのディベートでしか通用しないものです。そこにある不都合を全て抑え付けるだけの何かがないとダメですがそれがなくなれば当然通用しなくなり、そんなあやふやなものを私は求めていないわけです。

相手を抑え付ける力を持たないのは間違いと言えるかも知れないが、力があろうがなかろうが通用するロジックを私は求めたから他者の欲望も見るしそうではないものも見ます。私は善人とは思っていませんし、私が欲しいのは私が善人であるという事実ではなく、ぶっちゃけきれいごとになりますが「種の生存と繁栄」です。私にとり私の生存を追求すると最も分かり易く最も面倒が少ないスマートな方法に見えるものです(何度もしなくて良い同じ事で面倒を被りたくない)。それを現実に表現する為には(現界する為には)なんだかよくわからない良いイメージを与えてくれる綺麗事を言うだけでは、なんだかよくわからないものを達成しようとしているだけですから達成条件も分からず具体的な計画も練れないので、私は私達を論理的に追求しようとしている、からこの考え方を手に入れる必要があった、となります。<-とっても綺麗事。出来ているかどうかとは関係ないのであしからず。

-->ここは宗教話

これを「神の国を実現する」方法を模索すると言ったりします。求める目標はある、そこにどうすればたどり着けるか、その為におおよそ分かっているであろうルールを守りながらどうやって生活していくか、を追求するという考えになります。そのおおよそをもっと具体的に追求するのが私のしたい事です。やり方は宗教的ではないですけどね。ただ基本は哲学に至り、哲学の派生として宗教、神学があるので全く無関係じゃないというところです。同時に哲学の派生として科学があるのでどちらにも見えかねないです。発想を出し、信用出来る裏付けを取る。ただそれだけのシンプルな事です。

<--ここまで宗教話


で、Q.の意図に含まれているかどうか分かりませんが、地域発天才行きのチケットは私の目標と合致するのでそれの一助になればと、ディベートの在り方と私の様な考え方をする為にはどうすれば良いのかを考えて見ます。


利益優先ではない方法として子供の教育は知的好奇心を持たせるのが古来からの方法です。そこに興味を持てば、誰かに言われなくとも自身で追求しますので。

-->ここは脱線

だから、現状の社会の様に、無意味に派手な、簡単に欲求が得られそうなもので誤誘導して、知的好奇心で高度なレベルに到達させる方法を妨害するのが現代のやり方です。自身が上に上がれなくとも周りが下に落ちれば相対的に自身が上に上がった事になる。全体が下がっている事などは考慮しない、という考え方です。良くあるシェアを上げて総量パイを減らすというやつと同様の手口です。

<--ここまで脱線

被教育者が興味を持ったものに明確に答えてあげられる者が居るかどうかが教育には重要です。

「なぜ?」->「そういうルールだからだよ」ではダメで、被教育者の側が理解できるか分からない場合は最初はそれで良いかも知れません。でも出来る限り理由を教えるべきです。「そういうルールだから」と答えるとそこで考える必要がなくなります。どの様な物事も「そういうルールだから」と考えなくて良いと思った時点でそれ以上の思考は生まれずに、そのまま教わったものを教わったままに使い、ルールを維持する為の部分に対してなんの情報も持たず、持たないから状況が変わっても違いを判断出来ずにリスクを高めます。

そして被教育者の知性が低いとその者の世界観は近しい人物だけで構成されており、その人物が被教育者を軽視して扱うと、そういったのが普通なんだと被教育者も同様な態度で行動するので増々何の思考も持たずにただ従うだけになります。

そういった負の感情は思考を停止させます。苦しさから正しい事から目を逸らしてこれが現実だと諦めて受け入れてしまい思考停止もします。そこで考えてしまえば、自らが間違っていると判断出来てしまい、自身を肯定出来ないなら常に苦しむ事になるからです。そうすると逃避してしまい、自身が生存する前提で考え、自らを苦しめる考えこそが間違っているのだと、思い込もうとします。

そして苦しみから逃れる為の思考は、苦しみがなくなると目的が達成されるのでそこで停止します。この場合も苦しみから逃れて気持ち良くなりたい欲求が基本になりますから欲望を満たす事と傾向は似てしまい、苦しみから逃れられるのであればどの様な方法も選択肢に入ります。


そしてディベートを行う訓練はこれからは必要だとは思います。自身がどう思っているのか、どう主張したいのかの訓練として。ですが同時に、ディベートは当事者同士の合意を元にして成立するかが決まり、社会全体の基準に合致しているかどうかとは関係がない事も教える必要があります。

これは私達の精神が物事を対象と対象以外に分けて抽出するからです。そうしなければ私達はお互いの共通する基準を得られませんが、同時に対象としたものだけを扱えばその対象と関連があるはずの者が対象以外の中にあれば影響を与えてしまっており、そして現実は大抵がそうやって影響を与えます。これを例えるなら子供が水の入ったコップを持っている時に何か他に興味を持って、手に持っているコップから注意が他に向いたことでコップの取り扱いが疎かになって水を零す、と言う様な状況になってないかを常に確認する必要があるのと似ています。ある一つのディベートはそれまでに行われたディベートで作られた社会の状態と不一致にならないディベートである事が条件とも言えます。


そして私達は私達の精神を解明していませんから大体は分かっていてもブラックボックスを相手にしているとも言えます。ですから教育とは、まず学ぶ側が学ぶ姿勢を見せ、それを教育者が指導するわけですが、教育とは割符により完成させる様なものです。被教育者がどんな形の半券を持っているか分からない状態でそれに合う半券を教育者が提示して成果が出る様にするものです。

ある目的を達成する方法がいくつかあるとして状況に合わせて行動を変える様に、自身が1つの方法に固執して自分は達成できる方法だと証明されている方法を用いているから悪くない、というのでは教育にはなりません。あくまで現在の被教育者の状況に合わせて目的へとたどり着ける方法を選択するのが教育(集団共同教育よりも専門家庭教師の方が効果が高い点)です。集団共同教育は、まだ充分な体制が整っておらずそこまで時間を掛けられない時に"足りない所は自分で埋めて追いつけ"と言うものになります。要は半券は提示する、その半券に合う形で自分の半券は用意しろ、という感じになります。問題はこれは教育であり、基本的にまだ知性が未熟な存在に自分の面倒は全部自分で見ろというのに等しく、分からない事は分からないし気づけない事は気づけません。


教育とは、この言い方は宗教くさくなりますが「教導」とも言い方を変える事が出来ます。例えば樹が枝を伸ばす時に伸びて貰っては困る方向へは制限を掛けて伸びない様にし、伸びて欲しい方向へと伸びる様にする方法と同じです。ここで、樹が伸びる方向を誘導するのに光を当てる事で伸びる方向を調整出来ると考えると、これは樹が枝を伸ばして探求する所に、光(求めるものである知識)を与えて方向を誘導するものだと言えます。あくまでそうやって成長させないと自発的に成長しなくなります。

強引に教えようとしても自発的には行動しなくなりますが、いつか自発的に動こうとする時に最低限の知識は必要なのでそうやって動ける様になるまでに必要な知識を教え込む、というのも初等教育として必要です。その違いが分かる様に教育者がまず認識するべきだと思います。自発的に動くにはどうすれば目的を達成できるかから決める必要があり、受動的に教育を受ける様に与えられた課題を達成するだけでは到達出来ません。そもそもその課題をどんなものにすれば目標を達成できるかから考える必要があります。


これらに悪影響を与えるのは現代科学の方針でもあります。ブラックボックス法で分かり易いのでは鳳ーテブナンの定理というものがあり、自身が注目する部分から見たそれ以外の全体を対象にして解析するという手法なんですが、それだと全体がどういったものかも知らずに、欲しい結果だけ得られるという方法であり、ディベートに見られる様な当事者が合意すれば成立するという感覚を助長します。


ではその影響がどういった具合に出るかというのをちょっとだけ考えて見ます。

今回の新型コロナの対策として検査を多く行って対処するのがベストだという意見がありました。でも待ってください。それ、本当に効果がありますか?と言えます。

まず検査をして感染しているかどうかを明確にする、これは正しいです。ですが次に感度70%、特異度95%?位だったと思いますが、ここでどれだけ検査しても最初の、感染しているかどうかを明確にする、という目標は達成できない事が分かります。次に、同時検査数です。検査していけばいずれ全数検査とも言える事は出来るでしょう。しかし待ってください。誰が今対象としている集団以外の集団が、お行儀よく列を作って待っていてくれると言ったでしょうか。ここに最初に見たモデルが現実と一致しないという事実が突きつけられます。つまりは検査して感染しているか明確にする、という話を具体的に突き詰めていないから、自分達がどんな主張をしているのかが分かっていません。

この段階だと、自身だけが動いていて、周りは動いていない、という理想条件が必要になります。そんなのは到底有り得ませんよね?では次に検査が出来たとして、皆が行列を作って待っていてくれるかと言うとそれもまず有り得ませんよね?だから全数検査の様なやり方は初めから成立しないわけです。その規模が今言ったような状況を作る事が出来る規模でないと初めから成立していないという事です。

なぜなら、今対象として検査出来る集団以外の集団は皆、動き回ります。そして検査が終わった者を別の場所に隔離出来ないなら、検査を終えた者がその集団の中に入り、感染するリスクを持ちます。で、検査って意味あったの?となります。この場合のやり方は、感染していないのが分かった側を隔離して別に避ける事でしか検査する意味が出てきません。例えるなら使えるかどうか分からない部品の中から選別して使える部品を分ける、という感覚と同じです。そこでその部品を使えると判断してまたその中に戻すと選別した意味がなくまた探さないといけなくなる。

検査を終えた印をたとえ付けたとしても、印をつけてないものと混同させたらコンタミする可能性を排除出来ません。

以前にも時事ネタで書きましたが、検査を受けて陰性と分かるー>帰宅途中に菌に感染ー>陽性、という可能性もあるわけで、検査したからもう感染しないわけではありません。だから行動を決める前に、現状がどうであるかをどう認識しているかが問題になります。それを考慮せずに、伝染病だ、伝染病の時には検疫をしている、なら検疫だ、とすると現状を認識できていないなら、今回の様な検査さえすれば抑え込めると盲目的に思い込めるわけです。それは現実が見えていない、とも言える行動になり、誰かが与えてくれた知識をなぞっているだけとも例えられます。だから空港での検疫の様に、症状が分かり易く、ほぼ確実に特定できるものであり、かつ対象とする規模が小さいのであれば成立するものも、いつ誰が持ち込んだか明確でなく、どれだけ感染しているかも分からず、規模すら特定出来ない時点で、検査だけで抑え込むのはまず不可能です。偶々、感染している規模をその検査体制の範囲に入れる事が出来たなら可能かも知れませんが、それは博打をするという事です。リソースが無限であれば構いませんがそれなら初めから悩んでおらず、そもそもじゃあ皆並んで検査が終わるまで待ってね、とすれば良いだけになります。その博打をしなければならない程に危険なものであるならそもそも該当地域そのものを完全封鎖になり検査なんてしてられません。

となりますが、後付け理論とも言えます。終わってしまえば何とでも言えます。結果論とはそう言ったものです。一応私は重点検査と予防を推奨してましたが、その根拠はこういった考えからです。検査を適用する集団がそもそもどういったものなのかを普段から考えていたら、私はその判断に行き着いた、という話であって、検査するからそこから考え出したのではないです。ダイナミズムとして私達が行動しているという前提でそこに検査する体制を適用すればどうなるかを、検査するよとなった時に考えただけです。こういったのも普段からの心がけとか言われるものですが、大抵バカにされますw。金にならん事をするなと。


最後に、知的好奇心を得させる方法は正直難しいです。今の世の中だとゲームだ遊びだと豊富です。そうやって考えない者を量産させるのが主流になっているので増々難しくなってます。誰もが単純明快で従っているだけで済む楽な1と0の明確なルールは欲しますが、私達は私達でルールを壊してしまうのでそんなものを誰かが与えてくれるなんて妄想は初めから出来ないわけです。なら知的好奇心を持ってもらって知性を育んで貰う事になりますが現状でVRとかもゲームとかに使うという間違った展開になってますので更に難しくなるでしょう。

ならそれ以外の方法ではとなるとディベートでの問題点の抽出などになります。互いに主張して、自身が何を言いたいのかどう考えているのか、それはなぜダメなのかと明確にさせる必要があります。しかしこの場合の注意点は、そうしてディベートする時に明確に間違いを指摘出来る人物が必要な事です。ディベートは成功すると成功体験になりますが、それがそもそも間違っていない根拠にはなり得ません。犯罪者2人が犯罪行為についてディベートして成立させればそれも成功体験です。

だからまず私達はかつての宗教基盤で構築されたルールをなぜそうなっているのかを解明し、概念として明文化して言語上で扱えるようにする必要があります。それがディベートにおいて公的な立場から見て間違いを指摘出来る根拠になりますから。でも、これ非効率なんですよ。そういった事を学んでいる時間があるなら金稼げが現代ですから。そこからパラダイムシフトが無い限り、同じことの繰り返しかも知れません。


という感じになります。自分でも何長く書いてんだよw、という感想ですw。


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