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死神と白昼夢

 空気に漂う雨の名残りが、夏という季節で煮詰められている夜でした。脂肪が溶けだした煮凝りのように、ねっとりと粘ついておりました。

 煩わしい蛙の求愛の声が、四方から攻め立てます。

 黒々と大きな山の裾に向かって、前方には、はてしなく畦道あぜみちが続いておりました。濡れた身体を引きづって、いまだぬかるんだ道をトボトボ行く私の裸足の足指が踏みしめる泥は、人肌のように、いまだ、ぬるく……。

 着物と、髪と、蛙の嬌声が、じつに煩わしくまとわりつき、みじめなこの有様に爪を立て、山影を縁取る明るい星々の群れすらも、ひとりきりの私をあざ笑っています。

 そのありさま、そのすべてに、私はあの人の青ざめた頸筋くびすじの血管、その鼓動に触れた記憶を反芻はんすうするのでございました。

 やがて、ぽつねんと立つお地蔵が見えたので、そのかたわらで足が止まりました。

 真新しいお地蔵でございました。

 穏やかなお顔立ちはまだ断面が尖り、大きさといい、眠る赤子のようにも見えました。

 アア……。

 苦い……苦い……とても苦い涙の味が喉からせり上がり、声が漏れ。

 目を閉じた暗闇ですら、煮詰められたように粘ついた熱さをしており……。

 罪の一文字を思い出したのです。

 その罪とは、今この夜に、この身が独りきりでいることなのだ。とそう私は痛感し、どうぞ、この命をどなたさまかあの世へお連れください……などと、目をつむったのでございました。


【壱】

 ……はて。

 そこは不思議な心地の昼間でありました。

 私は、少し目を閉じただけのはずでありました。

 塀の向こうに突き出した電柱ですら、見慣れたようでいて、どこかしら違うように思うのです。

 目の前に立つ娘の化粧ですら、私には見慣れぬものでありました。銀粉をまぶしたように、赤く塗られた唇が輝いております。

 立ちつくす私に娘は目が合うや、「ウワァ、起きた」と言いました。

 娘の背は私の背をゆうに超え、あごのあたりに私のつむじがあります。

 見上げた空は、くすんだ水色をしており、おどろくほど空が低く感じました。

 そこは、どこぞのお屋敷の庭とうかがえました。かたわらに立つ小さなお社は、どこか見覚えがございますお顔立ちのお地蔵が、苔むしておりました。

 夜が昼になるのは必然とはいえ、瞬きの間に日が昇るとは突飛なこと。

 そこで、私はぴいんときたのでした。

 ああ、私はついに死んだのか、と。

 彼女は高下駄を思わせる黒い靴を履いておりまして、いくつもレェスのついた毬のように膨らんだスカァトを着ております。

 その奇怪な装いの娘は、私を座敷に上げると、あの世の服へ着替えるようにいいました。

 そうして自分は長い栗色をした髪をすき、熱い鉄棒を使い、じつに見事に自分の髪をくるりと巻いてみせたのでした。

 お聴きくださいませ。

 これは、私が見た死神の国の見聞録にございます。


【弐】

「ジーパン似合うじゃん。これなら気付かれないね」

 先を行く死神は、出掛けにそう言ったきり何も口にせず、つまりそれは、ついてこいということなのだろうと考えました。

 街らしきものを歩きますと、とりどりの瓦や壁の色が目につきました。砂糖菓子に似て、非常に可愛らしいものでしたが、どこか浮世離れして見える色形をしております。そうしていると、ときおり驚くほど見慣れた町家などもあり、私の心は騒ぐのでした。

 よそよそしい死神の背中は、しかし、こちらの足が遅いことに気が付くと、すこしだけゆっくりになり、私はあの人のことを思い出すのです。

 さて、あの人とのことは、出会いを語るより終わりの話のほうが、手っとり早くてよいでしょう。

 お嫁にいくのは女の定めと、理解しておりましたが、私にとっての縁談は寝耳に水のことでした。

 好いた互いと結ばれぬであろうことは、互いに分かっていた恋でありましたが、しかし『縁談』という突きつけられた現実は、私たちの幼い夢に冷や水を浴びせかけたのです。

 両親の耳にはすでに彼のことが届いておりましたようで、私の縁談は、あっという間に調えられました。

 嫁いで二年の夏。再び彼が私の前に現れたときのこと。なみなみと水の張られた田の向こうで、こちらを見つめる彼と目が合った瞬間のことは、生涯忘れることはできません。

 駆け落ちをしたのです。

 しかし逃げ延びた先に、何があるのか。

 私の耳にこびりついていたのは、夫となった人ではなく、姑の声でございました。

「ぐず」「うまづめ」「めすいぬ」「しりがる」

「唾のついた女を貰ってやったんだ」

 姑の口癖でありました。

 蒸す夏の夜。絶望の夜でございました。神社の賽銭箱に隠れるようにして雨を避け、やぶ蚊を払いながら座り込み、あおい首筋を見上げ、ついに口にしたのはこちらから。

 こちらを向いた黒い瞳は、すでに心を決めておりました。

 私の手が互いを手ぬぐいで結びました。彼は力強く、その太い腕で私を抱き、その大きな足で、岸辺を蹴り上げてくださったはずです。

 なのに、気が付けば……。

 さて、あのあぜ道はどこだったのでしょう。いつまで私の命はあったのでしょう。私は気が付けば独りきりでございました。

 願うばかりは、あの人とともに死ねただろうかということなのです。

 死神は、私のその問いに、「もうすぐわかる」と、意外なほど優しい声で言うのでした。


【参】

 死神は、死神の街を私を連れて歩き回りました。

 街の人々を見て気が付いたのは、死神の娘の格好は、おそらく奇抜なものなのだろうということでした。

 英語の看板の店で、店員の娘にじろじろ見られながら、透明な入れ物に入った飲み物を買ってから、小部屋のある店に連れてこられました。

 料金は前払い。鍵のつかない硝子張りの扉の小部屋がずらりと並び、中には壁を囲むようにして布張りの椅子が並んでいます。大きな音で喋る、私が知るそれよりずっと大きなテレビを消し、死神は座るように言いました。

「心中っていうんだっけ。あんたがしたような、ああいうの」

 ぶっきらぼうな口調で、死神は尋ねました。ためらいながら頷いた私を軽く小突く調子は、やけに気安いもので、居心地の悪さと、かすかな高揚を感じておりました。

「死神は心中を知らぬのですか」

 尋ねますと、死神は顎を掻き、「だれそれが心中したってとかは聞いたことないな。するなら恋愛じゃなくてお金じゃない? そんなんするくらいなら別れるし。いろいろ自由な時代だからね」とつまらなそうに申しました。

「自由っていうか、無責任なのヨ」自分で言ったことに納得がいかない様子で、娘は顔をしかめます。

「家とか、地位とか、家族とか。しがらみを捨てても別に生きていけるはずだからね。生きるのに責任がいらないからさア、あえて誰かの死を背負っていっしょに死ぬって発想になりにくいんだと思うね」

 十五、六に見える死神は、流暢に大人びたことを口にします。

「貴女にとって、家や地位や家族は、しがらみなのですか」

 娘は目を丸くしました。

「そう聞こえたんだ? おもしろいね」

「そう聞こえました。ここの人は、家や地位や家族をしがらみと捉えるのですね」

「そういう人もいるってだけ。多数派じゃない」

「貴女は? 」

「マッ、場合によりけりね。ねえ、せっかくだから、なんか歌ってよ」

 私は、そう言ったときに覗いた彼女の八重歯が可愛らしいと思ったのです。


【四】

「……これはなんていう汁ですか? 」

「汁ってなによ。タピオカミルクティー」

「この小部屋は、歌うための部屋なのですか? 」

「そうだよ。カラオケっていうの。なんか歌う? ていうか何なら歌える? 」

「この薄切りの天ぷらは、なんですか」

「ポテチ」

「あの風が出ているのは」

「エアコン」

「なぜあなたの靴は底が分厚いの? 」

「脚が長く見えるから、おしゃれでしょ」

「これからどこに? 」

「次はメインイベント」

「めいんいべんと? 」

「ん~、っていうか、これまでがメインで、これからが締めってかんじかな」

「しめ? 」

 老人の多い場所でした。見慣れなくとも、どんな場所なのかは聞かずとも察せました。そこは病院でありましょう。

 死神は迷うことなくひとつの病室に辿り着きました。

 五人部屋のそこは、窓が近い寝台以外は、すべて天幕カーテンが締めきられておりました。

 窓の外で、立派な百日紅サルスベリが薄桃色の花を咲かせています。枕を重ねてそれを眺める老婆の寝巻から露出した肌は、白い雪の中に埋もれつつある倒木のようでありました。

「ばあちゃん、来たよ」

 死神は、手慣れたようすで椅子を二脚引っ張り出し、すとんと座りました。老女はゆっくりと軋みをあげるように振り向いて、彼女をその目に映して、「あら、死神さん」と、切れ目のような唇と、皺に埋もれた目元で微笑みました。

「ねえ、覚えてる? 」

 老婆の手を手繰って、両手で挟むように握った死神は、その言葉を前置きに、今日私と歩いたことを話し始めました。

「カラオケして、タピオカ飲んだでしょ~」

 指折り数えるようにして言う彼女に、頷きを返す枯れ木のような老女は、いつしか私になっておりました。

「約束したでしょ。あたしの古着あげるって言ってたし、こんどカラオケ行こうって言ってたし、駅前にできたタピオカミルクティー行ってみたいねっていうのも話してたから」

 私には、もう彼女の名前は分かりません。しかしこの子と交わした約束と、彼女が『死神さん』であること。それは夢うつつの日々の中でも、確かなことのように感じておりました。

「あたし、ずっと不思議だったの。呆けたばあちゃんが、どうしてあたしのこと『死神さん』なんて呼ぶのかって。今日、わかったよ」


【五】

 長い夢を見ていたようでありました。

 大きく熱い暁が、真正面にありました。

 太陽を感じた蝉たちが、目覚めていっせいに鳴き始めます。私もそうして、突然にこの世へ戻ってまいりました。私は、お社の屋根を支えに立ち上がり、自分が彼女の服を着たままでいることに気が付きました。

 ……ああ、あれは、夢ではなかったのだと。

 彼女の年の頃ならば、孫でしょうか。それとも曾孫でしょうか。いいえ、血が繋がってる証拠はありません。本当に死神のような、不思議な力がある存在であったのかもしれません。

 確かなのは、彼女が優しい子であったこと。見た目は少しばかり奇抜でしたけれど。

 どこぞから声が聴こえます。

 蝉の求愛の声の向こうで、私の名を呼ぶ誰かの声が。

 畦道を駆けてくる、あの人の声が。

 『死神さん』にいつか会えるとしたならば、彼女と約束をする日がいつか来るならば……私は……。

 私はこれからどこで生きるのか。どこで彼女と出会うのか。本当にこの先に彼女がいるのか。

 私の未来には何の保証もありはしない。

 それでも。

 ……それでも。

 涙とも、汗ともつかない雫が滴り、私が蹴り上げた泥と混ざりました。

 私はまだ、この先を歩くことが出来るのでしょう。

 実に奇妙な一夜。胸に芽生えたこれを、あるいは『希望』と呼ぶのかもしれません。




本作は「同人誌『虹色異譚集』企画」参加作品です。

企画の概要については下記URLをご覧ください。

https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/1423845/blogkey/2352385/(「小説家になろう」志茂塚ゆり活動報告)

なお、本作は下記サイトに転載します。

http://nijiiroitanshu.seesaa.net/(「虹色異譚集」企画:seesaablog)

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