異欲
彼以外誰もいない家のなか、彼は自室の前と彼の妹の部屋の前を、何やら思い悩んだ顔で何度も往復していた。学校から帰ってきたばかりなのか、彼はまだ着替えておらずまだ制服のままだった。襟元の立派なバッジが光っている。しばらく続けた後、彼は俯いていた顔をあげ、妹の部屋の前の方に立ち止まり、冷たい金属製のドアノブに手をかけた。そしてそれをゆっくりと回し、しばらく静止した後、今度は勢いよくドアを開いた。
彼は部屋の中をみて目を丸くした。その部屋は、彼が知っているはずの部屋とはかけ離れていたからである。薄い桃色の壁には所々に白い水玉模様があしらってあり、広いフローリングの床には部屋の広さに見合わない小さなハート型のカーペットが敷いてある。勉強机やベッドの枕元には大小さまざまなテディベアが並べられている。窓には日光を遮ることもできなさそうな薄い布が垂れ下がっていた。ほかにも御伽話にでてきそうな形をしたタンスや、少し力をかけただけで折れてしまいそうなコートハンガーなど、彼曰く、『女の子が好きそう』なものがその部屋にあふれかえっていた。彼は、彼の妹が最近そういったものに興味を持ち始めていたのは承知していたはずだった。しかし、この部屋の内装は彼の期待以上に変わっていたのだ。当然だが、彼はこれまで妹を女性として意識をしたことが無かったが、この部屋を見るとかなり遠い存在のように感じられた。もはや、彼は少し感動すら覚えていた。それは、親心にも近しい純粋な心と、新しい玩具を貰った少年の時のような高揚感からくるものだった。
彼は先ほどのタンスの方へと歩み寄り、上から一段目の引き出しを開くと、中にはシャツの類がぎっしりと並んでいた。彼はその中の一枚を手に取る。彼はそのままそれを広げ、アルファベットがプリントされたそれをしばらく見つめた後、一旦それをベッドの上に丁寧に置いた。そして、彼は学ランを脱ぎ、シャツの第一ボタンから順に一つ一つ丁寧に外していった。やがてインナー一枚になった時に、彼はふと罪悪感なようなものに襲われた。彼にはその原因が何なのかはよくわかっていなかったが、それが妹に対するものでは無いのはわかっていた。いや、彼は生来真面目な性分で通してきた人なので、正確には無いとも言い切れなかったが、もっと根本的な原因は他にあるのだということだけは確信していた。同時に彼は疑問に感じていた。なぜ自分がこのような行動をとっているのかがわからなかった。わからなかったが、きっと何やら神の啓示にも似た強い衝動に突き動かされているのだと思い込むことにした。先ほどの感動はもうどこかへと行ってしまっている様子だった。
結局、彼は得体の知れない罪悪感を放置したまま、彼は再び妹のシャツを手に取った。しばらく手に持ったそれを見つめ、何やら決意を示す表情を浮かべた後、彼は妹のシャツをインナーの上から被った。レディースのシャツは大柄の彼にとって非常に窮屈だったが、彼は何やら憑き物が落ちたように晴れ晴れとした気分に覆われた。彼は微かに、でも確かに高揚していた。彼は引き寄せられるようにして姿見の前へと立った。そこにはサイズのあっていないシャツを着ていること以外は変わらない、いつもの彼の姿があった。しかし、彼はそんな自分の姿をとても美しいと感じてしまった。彼はナルシストでは無かったし、女装趣味があるわけでもなかった。それに彼が着替えたのはシャツだけであってほかの服は男物である。それでも彼は、自分が生まれ変わったような心地さえした。
彼には、もはや自分の衝動を止めることはできなかった。半ば焦るようにしてズボンのベルトを外す彼の姿は、客観的に見れば猿のように見えた。先ほど確かに彼の脳内を埋め尽くしていた疑問でさえも、彼にはもはやどうでもよくなっていた。彼はタンスの二段目を勢いよく開ける。しかし中身が目当てのものでは無かったらしく、そのまま今度は一番下の引き出しを開いた。彼はその中から、赤と黒のチェック柄のミニスカートを手に取った。やはり一瞬躊躇する様子をみせたが、そう思ったのも束の間、彼は勢いよくスカートを履いた。シャツの同じくサイズが彼とあっておらず、しかも勢いよく履いたせいで一瞬布が裂けるような音がしたが、今の彼にはそんなことを気にする余裕なんて無かった。何よりも自分の姿を確認することが彼の為すべきことだったのだ。再び姿見の前に立つ。今度は体格の良い青年が、全然サイズがあっていない少女の服を着ている様子が映っていた。明らかに可笑しな姿だったが、彼の表情はよい一層明るみが増していた。彼は恐る恐る色々なポーズを取り始めた。今までとは異なる自分が鏡の中で動いているのが、彼にとってたまらなく嬉しかった。
突然、彼の背後で物音がした。彼はその音に驚いている様子を見せたものの、すぐに振り返ってその音の正体を確かめようとはしなかった。振り返った瞬間、すべてが崩れ去るような気がしたからである。しかし、ほんの僅かな好奇心に負けて、彼は後ろを振り向いてしまった。そしてすぐにその行為を心底後悔することになった。そこに、彼の妹が立っていたからである。彼の妹はしばらく動かず、呆然と変わった彼の姿を見た。その表情から彼女の心情を読み取ることはできなかったが、ポジティブな心情でないことだけは確かだった。彼を包んでいた熱がしだいに感じられなくなっていた。しばらくの間沈黙が流れる。まるで飴状の鉛がのしかかってくるような重苦しい沈黙だった。やがて妹の方が動き出した。彼女は逃げるように部屋から出ていった。その目が潤んでいたのを見逃さなかった彼も妹を追って走り出そうとした。一歩目を踏み出した瞬間、彼の背中から布の裂けるような音がした。