4.ささやかな恋の魔法【挿絵あり】
丘へと続く細い階段を登りきると温んだ風が肌を撫でていった。風が持ち去ろうとする帽子を都度押さえ、展望の良い広場に向かって歩いていく。
視線は自ずと眼下に吸い寄せられた。彼方に望む対岸は複雑に入り組み、湖面は細波が立ってきらきらしい。幾らか黄色みが増してきた陽射しに夕暮れの始まりを感じつつ、アデレードは恨めしげに溜息を吐き出した。
「……いいお天気」
「まるで晴れてたら問題でもあるような口ぶりだな」
背後から隣へ移動していく声を追えば苦笑の混じる双眸とぶつかった。
「もしかして雨が降ってほしかった?」
「そういうわけじゃなくて……」
「うん」
軽い調子でウィルトールが首を傾げる。風に遊ばれた髪がさらさらと顔にかかるのを払う仕草につい目が留まった。
あの手にさっきまで繋がれていた、そう意識すると頰がほんのり熱くなる。離さざるを得なかったのは丘に至る階段幅が狭かったためだ。登れば登ったで辺りの閑散とした様子から再度繋ぐ必要はないとみなされたようだった。
腹の前で両手指を組み合わせアデレードは思案げに彼を見つめる。どう説明すればいいのか──だが結局は「なんでもない」と視線を逸らした。視界の外でふぅんと不思議そうな声が響いたが、幸いそれ以上の追求はなかった。
晴れ渡っていること自体は何の不満もない。ただ、空の色が少女の求めるものには程遠いというだけ。せっかく大好きな人とこの丘に来たのだもの、ささやかな恋の魔法を試せたらよかったのに。
浮かない顔で再び憂鬱を吐き出すと、驚くことに隣からも溜息が被さってきた。
「この分だと夕焼けも見応えありそうだな。真っ赤な空と湖か……どうせなら見たかったかな。せっかくだし」
「えっ、夕焼け見るの!? 一緒に!?」
「……まあ、朱鳥の丘だからね」
弾かれるように振り向いたアデレードの視界に、手で庇を作り蒼空を仰ぐ青年の姿が映る。その顔がのんびり笑いながらアデレードに振り返った。
「ここが夕陽が一番綺麗に見えるポイントだって、クラレットに縁がある人ならみんな知ってるよ。待ち合わせ、二つ目の鐘の頃にすればよかったんじゃないか?」
「決めたのはわたしじゃないもの……」
「そうか。それなら仕方ないな」
ウィルトールは彼方に視線を投げた。アデレードもつられるように湖を眺めるふりをした。そうして隣にある横顔をそっと仰ぎ見た。彼の口許にはいつもの微笑が浮かんでいる。
──朱鳥の丘で夕陽に愛を誓ったふたりは末永く結ばれる──。
ここにはそんな恋のジンクスがある。恋人同士はもちろん、片想いをする者にとってもなにがしかのご利益にあやかれるのではという期待から告白の場に選ばれることの多い展望台だ。
ウィルトールのことだ、知らなかったからこそ「一緒に夕景を」と提案してくれたのだろう。もし知っていたなら肯定的な意見を言うわけがない。ジンクスだのおまじないだのそういう不確かなものに対する彼の見解はなかなかに厳しいから。どうせ「根拠は?」と聞かれて終わりだ。
溜息をつく代わりに帽子を目深に被り直した。今日はこれがあって本当に助かった。お陰で膨れっ面を見せずに済む。
なだらかな坂道を抜け広場の入口に辿り着くと、脇の時計台が約束の時間を過ぎたことを示していた。
「やっぱり、さっきのが一つ目の鐘だったんだな」
「階段を登ってたときに聞こえてた、あれ?」
アデレードは辺りを見渡した。待ち合わせにも半端な時刻のせいか人気はあまりない。湖に向かって等間隔に並ぶベンチは物寂しく、木陰に位置する二つ三つに先客がいるばかり。
「会うのはどんな感じの人だって?」
「う……ん、まだ来てないみたい。アッシュはどこかしら?」
「……いないようだな」
赤みがかった金の髪をした佳人はどこにも見当たらなかった。てっきり待ち構えていると思っていたアッシュの姿もだ。時間にうるさい弟にしては大変珍しいことだった。マリーとの面会に時間がかかっているのか、不測の事態に陥っているのか──いずれにせよ面倒なことになっていなければいいのだけど。
暑いな、と独り言ちたウィルトールが木立の並ぶ方を指した。
「向こうで待ってようか。おいで」
「あっもう大丈夫だから……ウィルトール、あの、今日はいろいろありがとう」
「うん、アッシュが来たら帰るよ」
迷いのない足取りでウィルトールは広場を横切っていく。両手をきゅっと握りしめアデレードはしばらくその場に立ち尽くした。それではアネッサと会わせることになるかもしれないのか。
のろのろ追いつき、勧められるまま木陰のベンチに腰掛けた。人心地がついたアデレードはふうと息をつく。隣に腰を下ろしたウィルトールとの距離は握りこぶし三個分。近いようで果てしなく遠いこの距離が、きっと全てを物語っている。
ちらりと盗み見た時計台の下にもその向こうの坂道にもまだ来訪者の気配はない。
ふたりを紹介する流れになるだろうか。アデレードの事情を知るアネッサなら助力を仰げば笑って力になってくれそうな気もする。問題はウィルトールだ。綺麗で大人っぽいアネッサを見た彼がどんな顔をするのか、どんな言葉をかけるのか。あまり想像したくはないし、それならいっそふたりが会わない方向にどうにか仕向けたい。アッシュが先に来てくれさえすれば──。
そこまで考えたところでワンピースの胸元を握りしめ、下唇を噛んだ。胸がドロドロして気持ち悪かった。お世話になったアネッサに対してまでこんなふうに考えてしまう自分が、酷く醜くて嫌になる。
「アディ」
「え?」
顔を上げるとウィルトールが藍の瞳を僅かに眇めていた。組んだ足に肘をついてアデレードを見上げるように覗き込む顔はどこか思案げだ。
「疲れた? 随分難しい顔してる」
「へ、平気よ。全然疲れてないって言ったら嘘になるけれど……。お店巡りはとっても楽しかったし、だから大丈夫」
「そう? ……もしかして邪魔だったんじゃないかと思ってさ。俺の我儘を押し通しちゃっただろう。下向いてるなと思ったらすぐ離れていくから、ひとりでまわりたかったのかなと」
「そんなわけないじゃない! 楽しかったのはほんとよ。あの、久しぶりだったからいろいろ懐かしかったの。見たいお店がいっぱいあったし、人も多かったし……」
しどろもどろに答えながらアデレードの目線は落ちていく。
「確かにね。おかげで追いかけるのが大変だった」
苦笑混じりの声が耳朶を打つとますます申し訳ない気持ちに襲われ、アデレードは小さくなるしかなかった。ごめんなさいと、何度目かの謝罪の語を口に乗せるが彼の顔はとても見られそうにない。
不意に帽子が浮いた。あ、と思ったときにはもう重みは消えていた。瞬時に振り向き帽子を求める手は宙に浮かせたまま、アデレードは目を見開くことになった。てっきり風が悪戯したのだと思った。でも違う。それを取り上げた犯人はアデレードと目が合うとのほほんと綻んだ。
「ほら。また俯いてる」
「……ウィルトール」
「これ、似合ってるけど顔がよく見えないのが難点だな」
手にした帽子を一瞥し、ウィルトールは再びそれを少女の頭に返した。少し後ろ側に傾けて被せ、つばを掴んだまま真正面に見つめてくる藍の双眸は存外近い。それこそ握りこぶし三個分ほどしかない位置から覗き込まれ、逃げることもできずにアデレードは息を詰める。
「別に謝ることじゃない。俺に気を遣うこともないし、好きに飛び回ってる方がアディらしいと思う。でももしまた人が多いところを歩くなら、次は始めから捕まえておこうかな」
「捕まえるって……」
視線を絡ませたまま、まるで芝居がかった仕草で彼は小首を傾げる。緩く上向きに弧を描く口許はとても見慣れたものだ。瞳に浮かぶ悪戯っぽい笑みの色も。けれどこんなに間近で見たのはあのとき以来ではないだろうか──。
夜明けの空の色をした瞳に自分の姿が映り込んでいた。そこに刃を思わせる鋭い光や恐ろしさは全くない。だというのにアデレードは動けなかった。どこか熱を孕んだまっすぐな眼差しに心臓が一際大きく跳ねる。
どのくらいそうしていたのかわからない。ほんの瞬きをするほどの間か、一呼吸分くらいだったのか。
ふ、とウィルトールの気配が揺らいだ。すぐに居住まいを正した彼の手が帽子から離れ、呪縛が解けたアデレードは二度ほど瞬いた。つられるように視線を辿ればすぐに得心が行った。視界に入ったのは時計台の向こうからやってくる弟と、その数歩あとを歩いてくる長身の佳人。
「アッシュだわ。アネッサさんもいる」
「……誰だって?」
「約束してた人よ」
ウィルトールの怪訝そうな声に明るく答え、僅かに残る頰の熱と胸の高鳴りをどうにか抑えて立ち上がった。後ろ髪を引かれる思いで日向に踏み出すと弟が手を上げて応えた。
「姉さん、ちゃんと合流できたんですね。挨拶の方は姉さんの分もしっかりしておきましたからご心配なく」
「う……さっきはすぐ戻れなくて悪かったわ。ごめんなさい。……ねえ、何かあったんじゃないの? アッシュがこんなに遅刻するなんて」
「特に何がというわけではないんですが……。下でアネッサさんと一緒になったので、少し立ち話を」
「アデレード!」
アッシュが背後を振り返りながら場所を譲ると件の人が姿を現した。前に踊り出た彼女は嬉しそうに目を細めて両手を伸ばす。アデレードの手を握る彼女のそれは真夏であるのに汗をかくでもなく、さらさらした温かみのみを感じさせた。
「久しぶりだね、元気だったかい」
「はい! アネッサさんもお元気そうで何よりです。またお会いできて嬉しい」
「あたしもだよ。あんたはもう来てると思うって、下でアーシェラントに聞いてね。幼馴染も一緒に──」
朗らかに笑む紫紺の双眸はアデレードの背後を見やった途端に丸く見開かれた。ああそうだ、ウィルトールを紹介しなければと振り返った瞬間、アデレードの耳にすっとんきょうな声が届いた。
「ウィル! なんであんたがここにいるの、誰かと待ち合わせ?」
思わず姉弟の視線がアネッサに向く。ぽかんと口を開け、青年に向かって指をさす彼女のまわりにたくさんの疑問符が浮かんでいるのが見える気さえする。遅れて日向に出てきたウィルトールも驚きを隠せないといった顔をしていた。
「いや、付き添いみたいなものだけど……アンが約束してたのって、アディたちだったんだ?」
「え、アディちゃんって。……もしかしてアデレードのこと? どういうこと?」
「それは俺の台詞だよ」
アデレードとアッシュはただただ目を見張るしかない。向かい合うふたりの間でそれぞれの顔を交互に見比べていたが、先に声を取り戻したのはアッシュの方だった。
「……失礼ですが、おふたりはどのようなご関係ですか?」
胸元で両手を組み合わせたアデレードも弟の言にこくこくと激しく頷く。ウィルトールはアネッサと顔を見合わせるとその隣に並び、あらためて姉弟に向き直った。
「アンは、俺の叔母にあたる人だよ。父さんの、妹」
「あたしからすると可愛い甥っ子だね」
「アネッサさんが、ウィルトールの叔母さま……!?」
「母代わりと言ってもいいかな。子どもの頃は朝起きてから夜寝るまで、一日の大半を一緒に過ごしたよ」
「嘘でしょう!? だってそんなに年が離れてるようには見えないわ──」
アデレードはまじまじとアネッサを眺めた。年上なんだろうなとは思っていた。まさかウィルトールの母代わりを務めるほど上だったなんて。こうして見てみても彼よりせいぜい二つか三つ年上に見える程度なのに。
一目で似ていると感じられる箇所もあまりない。顔の造作はもちろん髪色や目の色、まとう雰囲気も全く別だ。叔母と甥ならこんなものなのかもしれないけれど。
アネッサが声を上げて笑った。
「なんて顔してるの、アデレード?」
「……びっくりするしかないわ。誰も教えてくれないんだもの。全然、知らなかった」
「そういえば、セイルに以前聞いたことがあります。たまに遊びに来る叔母がいて、頭が上がらないと」
「あんたたち、セイルのことも知ってるの?」
「彼とは仲良くさせてもらってます」
「わたしはそうでもないけど」
途端に色の差が出た姉弟をアネッサは不思議そうに見下ろした。いわゆる幼馴染ってやつだよ、と合いの手を入れたのはウィルトールだ。
「アディもアッシュも、シアールトで知り合ったんだ」
「あの、マリー小母さまとわたしの母さまが友だちで。その繋がりでよく遊ぶようになったんです。セイルも一緒にみんなで学校にも通ったのよ」
佳人はなるほどねと腕組みをする。その僅か数秒後、紫紺の色をした吊り気味の瞳はハッとアデレードに向いた。
「待って、幼馴染……? アデレードが言ってた年の離れた幼馴染って、もしかして」
「あっ、キャーッ! だめだめだめっ!」
アデレードの行動は素早かった。勢いよくアネッサに突進し、そのまま十数歩離れた場所まで一気に押しやってしまった。両手で背中を押すアデレードをアネッサはたじろぎながら振り返る。
「あ、アデレード!?」
「その話はナシ! だめ! 違うんです。……冗談。冗談なの。だから忘れてくださいアネッサさん。お願いします……!」
真っ赤な顔で詰め寄るアデレードに始めこそ気圧されていたアネッサは、ややおいて「わかった」と頷いた。
「じゃあ、あたしは黙ってる。……それでいい?」
一拍おいて返ってきたのは含みのある声だった。口の端を少し持ち上げ、明らかに訳知り顔の様相を見せる彼女にアデレードはそれ以上何も言えることがない。完全に見透かされている。
「アディ!」
飛んできたテナーボイスに振り返れば置いてけぼりをくらった状態の男性陣と視線が交わった。青年の言葉は「どうしたんだ」と続き、何も返せないでいるアデレードに代わってアネッサが応えた。口許に片手を添えて。
「そろそろ行こうか! ウィル、せっかくだからあんたも一緒においで」




