第四章 藍①
第四章 藍
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弁当に手を着けるのも億劫で、竜吉は竹筒の水をちびりちびりと飲んで、手持ち無沙汰を凌いでいた。時折舞台の方を見てはいるが、今は美々しく着飾った女形も出なければ、隈取も綺羅な伊達男も登場しない退屈な弁当幕、清元の声がかえって眠気を誘うばかりでいけなかった。
(まったく、女将も大した役者だ)
ちょいと江戸へ行くから供をしろと言うから、てっきり花見に備えて植木屋へ桜の相談にでも行くのかと思えば、そうではない。いきなりこんな芝居小屋なんかに連れてこられて、桟敷席のそれなりな席に座らされたと思ったら、既にいたのは先客の母娘。
(なにが〝オヤ偶然だこと〟だ、ぬけぬけと…)
片方は女将をもっと若くして、品をよくしたような中年の女、もう片方は十六七の若い娘だった。聞けば女将の妹と姪だという。ここで初めて竜吉は、自分がまんまと女将の罠にはまったことに気付いた。偶然などとはとんだ猿芝居、これは立派な見合いであった。
竜吉が二番番頭を務めるようになって今年で三年、女将が何やら一物ありそうな目でこちらを見ているのを知っていて、わざと竜吉は知らぬふりをしていた。それでもいつかはその企みを、さぁ飲み込めと目の前に突き出される日が来ることは覚悟していた。だがそれがこんな騙し討ちのような形では、竜吉も全く釈然としない。第一全て合点しているような女将とその妹とやらはともかく、いい迷惑なのは相手の娘ではないか。元は大店の倅でも今はたかだか女郎屋の使用人に過ぎない三十過ぎの男と、娘盛りの素人娘をくっつけようなどという企みは、彼女の目には一体どう映っているのか。見れば器量は十人並みだが、なかなか賢そうな娘である。ほかに良い嫁ぎ先などいくらもあろうというのに。
女将とその妹は、久々に会って積もる話もあるのか、それともわざとそうしているのか、とにかく喋るのに没頭して竜吉とその娘はまるで放っておかれていた。かといって初対面同士、どころか会うことすら知らされていなかった娘と、喋ることなぞありはしない。竜吉は所在無く客席をぼんやりと見つめていた。行灯が燈されてはいるが場内は大分薄暗く、平土間のところどころに寄添いあう男女は、時折、だがこちらから見るとまるでまる見えな格好でいちゃついている。あまりここはいい眺めじゃないなと竜吉は微苦笑しつつも、自分も若い時分に芝居小屋で、ああして女と偲び合ったことがあったものだと懐かしくもあった。生家が未だ裕福であった頃は、使用人も総出で芝居見物に行ったこともあった。まだ子供であった自分には、それはもう祭りや盆正月に匹敵する贅沢な一日で、その頃はこの薄暗い芝居小屋も、随分と華々しい世界に見えたものだった。こうしていると、色々なことが思い出されるのが不思議である。
――ふと、自分の膝に隣の娘の膝が触れた気がして、昔を懐かしむあまりつい隣に寄ってしまったかと、慌てて竜吉は身を退いた。だがしばらくすると、また娘の膝が当たってくる。ひょっとして誰かに押されているのかと見るとそうでもない。嫌な予感がした。ふと娘の顔を覗くと、伏目がちな瞳の下から、何やら熱っぽい眼差しを感じる。これはしまったと竜吉は慌てて目を逸らした。これで娘の方が三十路の男なぞいやだと駄々をこねてくれればまだ逃げ道はあったが、娘に好かれてしまったのではもう後には退けない。困ったことになってしまった。
それにしても随分大胆な娘だ、と、竜吉は視線を舞台に逃がしながら思った。いくら辺りが薄暗いとはいえ、生娘が、それも母親と伯母がすぐ傍にいるのに、男に自分の身体を寄せてくるなどと、なかなかどうして出来ることではない。それとも、世間知らずな娘ほど案外こういう時は、思いもよらぬことをしでかすのだろうか。
(年頃で言えば、あいつもほぼ同じなはずだが)
だが小紫は、この娘とはあまりに違った。生い立ちも育ちも廓という特異な環境だったせいだからなのか。竜吉は身を持ち崩してから素人娘を全く相手にしなくなっていたので忘れていたが、男達の影に隠れて生きているように見えて、存外彼女達にはある種の強かさがあった。それは玄人の遊女達とは異なるもので、ある意味でそれは堅気の世界で生きていく上での強さでもあったのだろう。小紫は、逆にその強さは全く欠いているのだった。どんなに美貌や才智で男どもを魅了しても、それはあの里の中でこそ力を発揮する強さに過ぎない。
今年、小紫は十七を迎え、春の花見の時分には突き出しが決まっていた。そうなれば彼女は晴れて正式に一本立ちし、見世に出て客を取ることになる。だがあれがそんなことをするようになるとは、到底信じられない。吉原に身を置いてからは、そんな娘達の突き出しなど何度も見てきたはずなのに、なぜか小紫に関してはその実感が湧かなかった。彼女自身は、既に新造の時分から後ろ盾がつくほどの人気ぶりだというのに。
「ああ、面白かったこと」
幕が降りた後、小屋を出る人波に乗りながら、娘は開口一番こう話しかけてきた。先程膝を寄せてきた時の熱っぽい眼差しは消え、ごく当たり前の明るい、それでいてどこか怖いもの知らずな娘がそこにいた。娘の名はお志乃といった。彼女は口をつぐんで座っていることの苦行からやっと解放されたと言わんばかりに、堰を切ったように芝居のあれがよかったの役者のあれが色っぽいだのと語りだしたが、竜吉はその時人ごみの中に自分とお志乃だけが取り残されているのに気付いて、娘の話をほとんど聞き漏らしていた。
(あの女狐め! 見え透いた真似をしやがって…俺たちを何だと思ってるんだ)
心の中で吐く悪態が、油断すると口から出そうになりながら、竜吉はお志乃にそっとそれを伝えた。
「お志乃さん、お母様と伯母様が見当たらないようですが」
「あらほんと…母さんたら方向音痴だから…でも伯母様と一緒なら大丈夫でしょうね」
不安がるだろうと思っていた竜吉の予想を見事に裏切って、お志乃は飄々とこう言い放つと、悪戯っぽい笑みをこちらに向けた。伯母が伯母なら、姪も姪。竜吉はこの瞬間、言い知れぬ脱力感にどっと苛まれて、もうこうなれば娘の好きにさせてやろうと投げやりな気分になった。
「じゃあ仕方が無いから、江戸見物でもしますかい」
「まぁほんと? あたしいっぺん浅草の観音様にお参りしたかったの。仲見世はたいそう賑やかだそうじゃない」
女将の話によれば、お志乃の生家――つまり妹の嫁ぎ先というのは野田の醤油問屋、だとすれば彼女は江戸に出てくることなぞほとんどなかったのだろう。芝居小屋での興奮冷めやらぬまま、竜吉に連れられて浅草までやってくれば、大勢の人出を小さな身体でくるくるすり抜け、よくもそんなに色んなものを見つけるというほどあちらこちらの見世を覗いては、あれが綺麗のこれが素敵のとはしゃぎ回っている。竜吉はそれを、まるで娘を連れた父親のように見守りながら、十七の娘というのはこんなものだったかと考える。赤い千代紙の風車、色とりどりの紙風船に、竹の小笛、そんなこまごまとしたものをいじりながら歓声を上げているお志乃の姿は、自分が普段見ている娘達とはあまりに違う。白粉と紅の香気の中、華やかに飾り立てたあの娘達は、見た目にいかにきららかでも、淫靡な、けだるい翳が覆っている。真昼の日差しの中で笑うお志乃と、夜の中でにやりと微笑んだ小紫。同じ娘でも、それは全く異なる生き物だった。
竜吉が露店に並んだびいどろの笛を手慰んでいると、せわしない仕草で裾を引かれる。お志乃があれは何と指差した先は、人垣が十重二十重に取り巻く絵草子屋。特に皆の目を惹いていたのは、吉原の花魁達を描いた美人画であった。
「いずれ菖蒲か杜若、百花繚乱これが傾城の絵姿だ。さぁさ寄ってらっしゃい見てらっしゃい」
高い売り声に惹かれて思わず足を運ぶお志乃について、竜吉も近づいていく。絵の中にはいくつか見たことのある花魁も混ざっていたが、お志乃には言わなかった。
「そしてこれが本日の目玉、並み居る花魁・太夫を押しのけて、今吉原で飛ぶ鳥を落とす勢いの人気ぶり、春は花見の時分にはいよいよ見世へ出ようという新造・小紫の絵姿だ!」
台の天辺に掛かっていた布が取り払われると、群集からどよめきと拍手が沸いた。そこに掲げられていた看板絵は、実物よりはいくらか大人びて描かれているものの、見る者にはすぐにそれとわかる紫の振袖を着た小紫、絵は三枚あり、ひとつは立ち姿、もう一つは琴を弾く姿、最後の一枚は見返っている後姿だった。
(なるほど、どこの絵師が描いたか知らねぇが、なかなか似ているじゃねぇか)
竜吉は腕を組みながら、遠目にも色鮮やかな三枚の絵を見つめていた。
「ひいなちゃん…」
お志乃が、竜吉の横で呟いた。小さな背をうんと伸ばしながら、懸命に見つめる先にいたのは小紫。
「お志乃さん、あれは小紫って新造の絵ですよ。丁子屋の雛鳥なら、あの右の絵ですぜ」
「ううん」その目は絵に釘付けられたまま、「あれはひいなちゃんよ…あの目がまるで同じだもの」
「ひいな…?」
その名に、何か気になる響きを見つけて思わず竜吉は振り返った。
「お志乃さん、そりゃ一体どういうことですかい?」
問いかけた竜吉の表情に驚いて、お志乃は思わず背伸びを止めて身を退いた。
「あ、いや、すいません、ちょいと気になったものですから…」
お志乃はほっと溜息を吐くと、首を振りながら応える。
「いいえ、そんなはずはないんです。あれは吉原っていうところのお女郎なんでしょう、あの子がそんなところにいるはずはないんですもの」
「そのひいなっていうのは、誰なんです?」
お志乃は急に押し黙った。ふと、周りの人目が気になった。
「ああ、人ごみに疲れやしたね。汁粉でもいかがですか。いい茶店を知ってるんです」
腰を降ろして熱い茶を口にすると、途端に腰から背にかけて疲れがどっと流れ出す。通りに面した縁台で雑踏を眺めていると、行き交う様々な人々が回り灯籠のように目の前を巡っていくのが面白い。それを見ながら、次第にお志乃はぽつりと語りだした。
「ひいなちゃんっていうのは、本当の名前じゃないんです」
店の女将である老婆が二人の間に、ほとんど音を立てずに汁粉を置いていく。
「ただあんまり可愛くて、雛人形みたいだったからそう呼ばれていただけで、本当の名前は誰も知りません。でも、あたしにはただ一人の友達でした」
竜吉は冷める前にと、汁粉をお志乃に勧める。
「野田ってところに、竜吉さんは行ったことがありますか」
竜吉は首を振った。
「すごくさびしい所ですよ。江戸からは想像もつかないくらい、田舎です。家なんか数えるほどしかなくて、歩いても田んぼと畑と森と、そんなところだから、同じ年頃の子供なんてほとんどいなかったんです。だからあたしは来る日も来る日も、ひいなちゃんと人形遊びをしたり鞠つきをしたりしていました。でも、あの子は他にも色んなことをしていて、あたしが遊びたくても遊べないことが多かったから、よく邪魔をしては母さんに叱られてました」
「他にも、色んなことって?」
「よくは覚えていないんですが、そう、手習いとか、あとお花を生けているところも見たことがあります。稽古事っていうんでしょうか。そういう特別なことを色々とやらされていたみたいでした。何でも…」
ここで汁粉を一口すすって、お志乃は辺りにはばかって声を落とした。
「どこか偉いお殿様の落としだねだって、そして訳あって家で育てられてるんだって…そういうふうにみんな噂してました。実際、すごく綺麗な子だったし、それに同い年とは思えないくらい落ち着いた、大人っぽい子だったんです。あたしにも優しくて…」
「…それで、その子は今どうして?」
「知りません」お志乃は目を伏せた。「六つか七つの時に、その子はどこか遠いとこに貰われて行きました。きっともっとしかるべき家に引き取られたんでしょうね、うちはただの問屋ですもの。でも子供の頃はそれがわからなくて、随分寂しがって泣きました」
竜吉は、その話の中の少女の姿が、記憶の中のある一人の少女と重なっていくのを感じていた。掌の中で、汁粉の椀が温みを失っていく。お志乃は一通り話し終えてしまってから、動かないままの竜吉を不安げに覗き込んだ。
「あの、ごめんなさい。今日会ったばかりの人にこんな話…おかしいですよね」
「あ、いや…」ここで初めて我に返り、「その幼馴染と、さっきの絵の新造がよく似ていたんですね。不思議な話だ」
ごまかすように汁粉を啜り、その熱い甘さに舌がしびれた。
「ええ。あの黒い、潤んだような眼。よく覚えています。綺麗な、でもどこかさびしい目でした。他人の空似っていうんですかね」
お志乃もつられて汁粉をすすり、
「おいしい。郷里で食べる汁粉より、ずっと上品な味」
また笑顔を咲かせてみせた。竜吉も、思わず笑ってしまう。屈託のない笑み。だが彼女と同じ時を過ごしたという少女の姿が、眼裏にぼんやりと浮かび、やがてそれは実像を結んだ。秋草の色さやかな小袖に身を包み、赤い彼岸花を摘んでいた少女。
〝おまえ、名前は?〟
〝……雛〟
ふいに目の前で、火花がはじけた。全ての糸が、繋がった。少女は幻影の中で見る見るうちに成長を遂げ、あの浮世絵の中の女になった。汁粉の中に浮かぶ白玉のように、それがただ一つ、はっきりと見あらわされた真実だった。
「ねぇ、あれ伯母様たちじゃないかしら?」
お志乃の声で、竜吉ははっと椀から目を上げた。彼女はいつの間にか随分自分の近くに寄添って座っていたが、そんなことよりもまず、指し示す先の店を見た。そこはここと同じような茶店で、赤い毛氈の敷かれた縁台で、中年の女が二人、団子を持ったままお喋りに興じている。
「女将さんっ!」
竜吉は声を張り上げながらあまりに勢いよく立ち上がったので、椀が引っ繰り返って中身が地面にぶちまけられた。黒い餡がどろりと、砂利道に広がった。
「どうだい、お志乃はなかなかいい娘だろう」お志乃親子と別れた後の帰り道、女将は悪びれもせずこう言った。「金持ちの娘なんて、だいたいろくなもんじゃあないんだが、あの子は小さい時から利口で気も利くし、今じゃ母親に代わって店のことも随分手伝っているみたいだよ。きっとあたしに似たんだね。弟の惣領息子よりよっぽど出来が良いって、随分と評判がいいそうさ」
竜吉はもう文句を言う気力も無く、夕景に映える日本堤をぼんやり眺めながら応える。
「そんないい娘を、女郎屋の女将にするんですかい。しかも俺なんかに娶わせて」
女将はふいに竜吉を振り向くと、いつものような鉄漿を見せた笑みでなく、どこか寂しげな風情で唇を上げて見せた。こんな女将の姿は初めて見た。
「そいつはね、あたしと妹の――お鶴との約束なのさ」
もう大気にはいくらか温みが出てきていたが、夕刻川べりを吹き渡る風は、まだ身を縮めるほどに冷たい。
「身の上話なんて女郎の手管みたいでこっ恥ずかしいけどね」女将はまた背筋を伸ばして歩き出した。「あんたにはもうみんな話しちまおう……あたし達は三姉妹だった。あたしは真ん中、お鶴は末、それも随分年が離れてたから、あたしと姉さんは娘みたいに可愛がってたもんさ。」
竜吉も、懐手をしながらその後を黙ってついて行く。
「――親父が商いに失敗した時も、お鶴はまだいとけない子供でね。姉さんは決まってた縁談がお釈迦になって、借金のかただってんで妾奉公に出されちまった。それでも立ち行かなくて、今度はあたしも深川に売られた。でも妹のお鶴だけは、この子だけは何としても真っ当な女として生きてもらいたい、あたしらみたいになっちゃならないと、姉さんとあたしで必死にあの子を育てたよ。幸いあの子は養い親にも恵まれたし、人さまに後ろ指指されないように仕送りだけはきちんとしてやった。おかげでたとえ片田舎でも、大店の若旦那に見初められて、ああやってご内儀にまでなれたんだ。もう思い残すことは無かったよ。姉さんはそれを見届けたかのように病であっけなく死んじまった。その時ね、お鶴が言ったんだ。あたしは姉さんとちい姉さん――こりゃあたしのことだよ――には一生かけてご恩返しするつもりでした。でも姉さんにはそれが出来ませんでした。だからちい姉さんに二人分ご恩返しいたしますって…泣かせるじゃないかねぇ。それだけであたしゃ、それまであった嫌なことなんてみんな忘れちまったよ」
女将の背中が、急に小さくなったような気がした。
「あたしはよっぽど幸せだったさ。芸者をしていた時あの人に――ああおまえはひょっとしたら昔会ったことがあるかもしれないね、湊屋の源兵衛に身請けされてさ。そりゃ一緒に店を切り盛ってくれと言われた時は戸惑ったよ。おまえだって吉原のしきたりは知ってるだろう。どんなに腕が良くたって芸者は遊女よりは格下なんだ。そりゃあそうさ、芸は売っても身は売らぬなんて生半可な連中が、あの妓らにかなうわきゃないんだ。理屈はわかる。だからこそ、芸者上がりの自分が見世の女将だなんて大それたこと、到底考えられなかった。でも源兵衛は先のかみさんを亡くして一人身だったから、色々と大変だったんだろう。とうとう乞われてすかされて、それが縁さ。ただあたしにも先のかみさんにも子供がなかったから、跡継ぎだけはどうしようかと思っていたところ、お鶴が言ってきたんだ。そんならあたしの娘を差し上げます。あたしの娘は姉さんの娘。どうぞ跡継ぎにしてやってくださいとね。驚いたよ。いくら吉原じゃちっとは名の知れた大見世でも、所詮は女郎屋だよ。その女将に娘を差し出そうなんて、それも堅気の店の娘をだよ。正気の沙汰じゃないと思ったね。あたしもつい最近までは、お鶴がいくら言おうがそんなつもりじゃなかったんだ。でも、今日、あの子――お志乃と、おまえを見て、あたしにも決心がついたよ」
ここで再び、竜吉を見返った女将は、もういつもの、堂々たるあの立ち姿に戻っていた。
「おまえもお志乃も、あそこの生まれじゃない。ましてやおまえはともかく、お志乃はずぶの素人だ。あたしも一から鍛え直さなきゃならないよ。だけどね竜吉、あの世界はあの中だけのことを知ってりゃいいってもんじゃないんだ。ことに見世を取り仕切るとなれば、外の世界にこそ通じてなくちゃなんない。お客は、外から来るんだからね」
女将はふいに立ち止まって竜吉の傍らに来ると、坂の下に見える吉原の方を指差した。お歯黒溝に囲まれくっきりと辺りから隔てられたその空間は、もう既に行灯が燈り始めたのかちらちらと星明かりのような光を瞬かせながら、暮れなずむ田園風景の真ん中で、それ全体が一つの飾り燈篭のようにぼうっと浮かんで見える。
「ご覧、竜吉」女将の指は、衣紋坂を下って大門へとなだれ込む人々を指していた。「今日もああして大勢の男が、光を慕ってたかる羽虫のように、あの大門に吸い込まれていく。行ったところで、金をむしり取られて、女に振られて朝まで待ちぼうけ食らわされるだけかもしれないのに。なぜだと思う?」
竜吉はいつも以上に饒舌な女将の言葉を頭に入れるのにやっとで、返答の言葉など浮かばなかった。
「あそこには朝が来ないからさ。銭を稼いで、飯を食うために働かなきゃならない、そんな煩わしい朝が来ないからさ。行けばあそこはいつも夜。酒と女と歌が迎えてくれる、心楽しい夜が待っている。その夜を買うために、あいつらはみんな大金をはたく。あたしらは、あいつらが喜ぶようにその夜を飾って、銭を巻き上げる。だがその代わり、あたしらは夜が明けたらば生きられぬ。あそこから一歩出れば、ただ蔑まれ、卑しめられるだけのものに成り下がるのさ。まるで雛祭りが終わったら、河に流される紙ひいなみたくね」
ここで女将は喋り疲れたようにふと口を閉じると、それきりすたすたと坂を下り始めた。竜吉はその後姿を――かつての自分自身を重ねるように、生家が潰れて身寄り無い自分を引き取ってくれた、その恩人の後姿を見守りながら、全てを話したように見える女将が、唯一つだけ話し損ねたことを問い質したい衝動に駆られた。それは小紫のことだった。女将は姪を自分の跡継ぎとすることが、妹の大きな恩返しだと語ったが、女将が妹に頼んだことはもう一つあったのではなかったか。――それは小紫を、しをんを、女郎の娘としてではなく、堅気の、それも高貴な娘として一時的に養育させたということだった。だが、その養育が果たしてどういう意図を以て行われたのかは、竜吉には一向に理解できなかった。花魁になるための下地であったなら、箕輪で育てようが廓で育てようが出来たはず。むしろ生まれながらに廓で育てた方が、花魁にするにはふさわしかろう。わざわざ外の世界で、出自まで偽って育てる必要がどこにあったのか、竜吉は心底女将に尋ねてみたかったが、夜見世の始まる時分、急ぎ足で見世に帰る女将の足を留めることが出来ず、ついに竜吉は聞きそびれた。
番台に座るのもようよう慣れたが、一日の終わりに来る体の凝りだけはどうにも慣れぬ。竜吉は肩を鳴らして首を回しながら、冷たい廊下を渡っていた。途中、伍平が行き違って会釈した。可哀想に、眠たがりの彼には不寝番はさぞ堪えるのだろう。早くも眠たげな瞳で廊下をぼうっと歩いていたところへ、竜吉が通りかかったものだから転びそうになりながらお辞儀をしていた。
彼の部屋は、ご内所に近い奥まった一画にあった。かつては他の若い者たちと同じ大部屋に雑魚寝であったが、二番番頭になってからこの一室が与えられた。六畳一間の粗末な部屋ではあったが、それでも朋輩の鼾に煩わされずに眠れるだけ有難かった。欠伸をしながら近づいて、襖の隙間から明かりが漏れていることに気付いた。今日はこの部屋にまだ一度も帰っていないのに、伍平が気を利かせて灯を入れたのか、何となく気味悪く思ってそろりそろりと襖を開けた。
行灯の灯りの中にいたのは、思いもよらぬ闖入者だった。衣の色があまりに辺りの闇に溶け入っていたので、始め人がいたことにも気付かず、人影が動いた時は思わず背筋が寒くなった。
「人を食った悪戯をするんじゃねぇ、小紫」
夜陰によく似合う藍の衣を身に纏った小紫は、竜吉の方に顔を向けると、滑るように立ち上がった。彼女は遊女達の中では随分背が高い方で、髷を含めると長身の竜吉の首の辺りまであった。これで高下駄を履いて道中をすれば、他を圧するであろう姿は容易に想像がつく。長身の遊女は客の好みが分かれるから不利と言われるが、小紫はそのぶん線が細いので、たおやかな竹のように抱き取りたくなる風情をたたえていた。
「竜吉っつぁん」
番頭になってからも、この少女ばかりは自分を名で呼び続ける。この呼び声を、この十年もの間何度聞いたことであろうか。
「なんだ」
竜吉が応えると、小紫は肩をずらして腕をたらす。するりと、小袖が囁くような音を立てて床に落ちる。舞うような仕草で腰に巻かれた帯を取ると、下から燃え立つような緋の襦袢が姿を現す。
「一体何の真似だ」
襦袢の襟元を緩めると、滑らかな肌を伝って布地があっけなく落ち、蝋石の肌が露になる。濃い影に縁取られながらも白く浮き出し、形佳い乳房は銀燭に照らされて、かえってまろやかな質感を惜し気もなく主張する。思わず知らず目が吸い寄せられてから、竜吉ははっとなって声を上げた。
「悪ふざけはよせ。酒にでも酔っているのか」
小紫は言葉がまるで聞こえないというように、耳朶を動かしもせず、徐に竜吉の方に手を伸ばす。しっとりとした掌の感触が、襟元に滑り込んできたのを感じて、竜吉は手を振り払った。
「やめろ!」
「竜吉っつぁん」振り払われても、もう片方の手が竜吉の帯を解こうとする。「抱いてくんなまし」
帯を掴まれたまま身を退いたので、竜吉は足元を崩してその場に尻餅ついて倒れこむ。小紫はその体の上に乗りかかり、竜吉の体に指を這わしてくる。
「いい加減にしろ、こんなことしてただで済むと思ってるのか」
だが竜吉の言葉は、女を遠ざけようとするにはいくらか気迫に欠けていた。それは外を気にしているからだけはなさそうだった。
「抱いてくれなんすか」
「水揚げ前の大事な新鉢を抱く馬鹿がどこにいるんだ。起きてて寝ぼけるってぇとただおかないぞ」
「なぜ?」小紫は不思議でたまらないという表情をする。「竜吉っつぁんは亡八になるんでありんしょう。だったらばわっちの〝検分〟をしたっておかしくはありんせん」
小紫の指先が、竜吉の胸を這う。だがその手つきには、なぜか少しも淫靡なところがない。
「俺は旦那じゃねぇ。そんなことする資格はまだねぇさ」
「だいいち」ここで小紫はじっと竜吉の目を覗き込む。「わっちがもうとっくにおぼこでないこと、竜吉っつぁんはご存知でありんしょう」
小紫の瞳が、燈の光を受けて星が宿ったように輝く。だがその瞳の色は暗く、中に潜む闇は果てがなかった。そこに吸い込まれそうになって、竜吉は必死で目を逸らす。
「それでもおめぇは〝新鉢〟だ」体の昂ぶりを抑えるのに必死だった。「その手つきがいい証拠だ。芸事の稽古もいいが、これからはそっちの方の指南もしてもらうんだな」
こう言い放つと、ようやく小紫は身を起こし、竜吉の体から降りた。
「だがそれを教えるのは俺じゃねぇ。そういうことは客に聞け」
竜吉ははだけた胸元を直し、畳の上に座りなおした。小紫はといえば、夜気に晒した乳房もそのままに、ただ呆然と立っている。
「おめぇ、一体何が望みだ」
その声に、小紫の目元がぴくりと動く。
「おめぇがこんなことをするってなぁ、何か俺に頼みがあるんだろう。女郎の考えそうなことだ、体を与えりゃ男が何でも言うこと聞くと思ってやがる」
未だに治まらぬ動悸を隠すために、竜吉はわざと投げやりな口を利いた。実際、小紫の不意をついたやり口に腹も立っていた。
「俺がこの見世を継ぐかもしれねぇってこと、誰に聞いたか知れねぇが、まだどうなるかわからねぇ。だがもし俺がそうなるにしろ、ならないにしろ、この見世の者としておめぇにしてほしいことがあるとしたら、それはこんなことじゃねぇ」
竜吉が見上げると、小紫はやはり暗い瞳のまま、こちらを見ている風を装いながら視線を中空に散らしていた。
「俺はおめぇに、花魁になってもらいてぇ。それもこの吉原で、いや江戸で一番のな。そしてこの湊屋で〝浮舟〟の名を継いでみせろ。この名前はな、この見世に代々伝わる大看板さ。吉原はおろか江戸中にその名を轟かすような、そういう花魁じゃねぇと継げねぇ名だ。元吉原の時代から続くこの見世にだって、まだ五人と出ていねぇという、そういう名前なんだ。おめぇがこの名を継いだら、おめぇの望みを叶えてやろう。どうだ出来るか」
相変わらず返事はない。竜吉は構わずまくし立てた。
「おめぇが何を望んでいるかは知らん。だがこんなことをするならよっぽどの望みだろう。だったらおめぇにだって、これくらいのことをしてもらわなくっちゃわりにあわねぇ。その代わり、出来たら俺も、おめぇの望みを何でも聞いてやる。それが俺に叶えられる望みならな」
あまりに一気に喋ったので、ついに息が切れた。声は狭い部屋の中で壁にぶつかり、天井に吸い込まれて消えていく。じじ、と、炎が蝋燭の芯を焦がす音が聞こえてまた止んだ。小紫は徐に自分の襟元を直すと、帯を拾い、元のように服を調え始めた。そうして一糸乱れぬ姿に戻ってしまうと、竜吉に向き直ってこう言い放った。
「わかりんした。その浮舟とやら、わっちが継いでみせんしょう」その姿は、先程自分に迫ってきたのとは同一と思えぬほど、凛として人を寄せ付けぬ雰囲気を帯びていた。「その代わり、竜吉っつぁんもきっとその約束、忘れないでくんなまし」
「ああ、それは請合おう」
「きっとでありんすよ」ここで小紫は、もう一度ぐっと竜吉を覗き込む。「どんな望みであっても、叶えてくんなますか」
その言葉の後ろに、まるで心中の約束を交わす男女のような、寸分の猶予も許さぬ厳しい覚悟を見て、竜吉は一瞬ためらったが、一度出した言葉を引っ込める気はなく、
「いいだろう」
そう夜の中に誓いを立てた。小紫はそれを聞くとにっこりと、貼り付いたような笑みを――薫が死んで以来、小紫はよくこのような笑い方をするようになったのだが――浮かべると、踵を返して滑るように部屋を出た。襖の音一つ立てぬ、見事な退出の仕方だった。彼女はいつの間に、あんな所作を覚えたのだろう。
小紫が部屋を出ると、竜吉は途端に全身の力が抜け、続いて猛烈な眠気に襲われた。そうなるともう蒲団を敷くのも億劫で、竜吉はそれへ投げてあった綿入り半纏を引き寄せると、灯火を消すことも忘れてごろりと横になった。足が少々冷えたが、さっきの火照りを逃がすにはかえって丁度よかった。
――そしてその約束が果たされるのには、そう時間はかからなかったのである。