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雛いちもんめ  作者: 緋川 桐子
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第三章 銀③


 夏が終わりに近づくと、薫の病は更に悪くなった。原因不明の微熱が何日も下がらず、昼間は調子が良いように見える日も、夜には起き上がれないほど悪化する。肌や唇が荒れ、化粧が乗らないような日も次第に増えた。

「これはもう、箕輪に送るしかないね」

 女将が小紫にこう告げたのは、見世先に浮舟燈篭を吊るすようになった九月の初め。小紫に直接それを告げたということは、もうそれ以上四の五の言わせないという女将の強い決意の表れだった。

 小紫はご内所を辞すと、何も考えられないまま薫の部屋にそっと忍び込む。

 薫は体調が悪いのとあいまって、めっきり口数が減った。特にあの簪の一件以来、小紫にはほとんど声もかけてくれない。それは憎いとか妬ましいとかいうより、もう小紫など全く眼中に無いという風情で、庭を渡る松風のようにまるで気にも留められない我が身を知る度に、小紫は心が血を流すのを感じていた。

 薫は奥の部屋に引っ込んでいるため、ここにはいない。残暑の熱気が澱んでみえる部屋の中に、萎れかけた芙蓉が一輪、無造作に生けてある。よつばが花瓶の水換えを怠っているのだろう。小紫が徐に花に触れると、それを待っていたかのように花弁がばらばらと畳の上に散った。

「――さん」

 襖の向こうの声に、はっとなって振り返った。薫の容態が変わったのだろうか。花弁を拾おうとしたことも忘れて、声のする方に走り寄る。

「姐さん、おいらん姐さん、なんぞ呼ばれましたか」

 そう呟いても、返事は無い。ひょっとしてうわ言だろうか。小紫は音を立てぬようそっと襖を開けると、屏風の陰を覗き込んだ。薫はよく眠っている。だがその顔にはうっすらと汗の玉が光り、そこへ乱れた鬢の後れ毛がはりついていく。昼間なのに暗い部屋の中でも、薫の頬のやつれようははっきりと見て取ることが出来て、上掛けを直してやる手が思わず震えた。

「凛さん……」

 上掛けの下から、か細く漏れた声を確かに聞いた。小紫が目を上げると、薫は荒い息の下で、喘ぐようにもう一度同じ名を呼ぶ。誰の夢を見ているのか、その顔はちっとも安らかではない。だが、その夢を破ることは、もっと許されないことのように見えた。

 小紫はまた滑るように次の間へ出ると、文机のところにぺたりと座り込んだ。窓の向こうに、鱗雲が天高く揺れている。その雲を追うように飛ぶ鳥の数を、小紫は何気無しに数えた。

 鳥は互いを干渉することもなければ、助け合うことも無く、ただ悠々と天空を往き、やがて日の光に被さって見えなくなった。小紫はその姿を一通り見送ると、懐から縮緬の古布を集めて縫ったような、粗末な匂い袋を取り出す。その中身を文机の上に開けた。中からもうすっかり香気の抜けた蘭麝(らんじゃ)の木屑に混じって、茶色く破れかけた草紙の切れ端が転がりだす。指でその皺を伸ばすと、そこに走り書かれた細い文字が、辛うじて読み取れた。文字が赤みを帯びた茶色をしているのは、書き手が墨ではなくて血でそれを書いたからだ。忘れようとしても、その色を忘れることは出来ない。それは彼女の――しをんの血だった。

 もうとうに固まったと思ったかさぶたから、またぞろ血が流れ始める。小紫は思わず息が止まりそうになりながら、それでも懸命に姐の硯箱に手を伸ばすと、墨をすり始める。もう随分文など書いてはいないのだろう、水差しの中には一滴の水も残っていなかったので、萎れた芙蓉を指していた花瓶の中身を拝借した。

(澱んだ水で、充分だ。こんな文を書くのには)

 意思とは真逆に動くことを拒む指を必死で叱りつけながら、小紫は紙の上に筆を滑らせた。


「どう思う? 竜吉」

 指を舐めて玉帖(ぎょくちょう)をめくりながら、女将は竜吉の応えを静かに待っている。だが竜吉は、女将の言葉をまだ完全には理解できず、応えようにも何も言葉が浮かばなかった。

「…おまえがそんなに考え込むなんて珍しいじゃないか」

 いくら待っても返答が無いので、女将は玉帖をぱたりと閉じると目を上げた。

「俺には、応えられません」

「そうかい」女将は傍らにある湯呑みに手を伸ばす。「あたしはねぇ、ひょっとしたらもうだめなんじゃないかと思うんだよ」

 女将が茶をすする音を聞きながら、竜吉の腕には鳥肌が立った。

「あの()はそれがわかってて、あんなことを言ってきたんじゃないかねぇ」

「…だめって」かすれた声で、やっとこれだけ言えた。「それじゃ、箕輪にやっても無駄ってことですかい」

「そう、遅かれ早かれね…だったらばあたしゃ、もういっそここに置いておいてやればいいんじゃないかとも思うんだよ。もう箕輪(あそこ)でお職を死なせたくはないからね」

 竜吉の傍らで、火鉢の上の土瓶がちんちんと沸き立っている音がする。熱い湯気が彼の頬を蒸らしていたが、額を流れる汗はなぜか冷たかった。

「だけどあの男を、呼べ、などと、本気で小紫がそんなことを言ったんですか…」

「ああ」女将は湯呑みを手の中で回すと、「あの妓のことだから、もう呼んだのかもしれないね」

 残りの茶をぐーっと飲み干して机に湯呑みを置いた。

「ちょいと湯をかけっぱなしでどこ行ったんだい、あたしに熱湯を飲めって言うのかい」

 女将が部屋の外に怒鳴りつけると、下女が慌てて飛んできて、土瓶を回収していった。部屋にはまた、物音一つなくなった。

「あの男、来るでしょうか」

「さあね。来ないなら来ないで、別に構わないさ。来た時が問題だ」

「…この見世に入れるんですか」

「そう、そこさ。入れたら入れたで角が立つ。だが小紫は、それさえ呑んでくれればきっちり薫を箕輪に送り出すとこう言うのさ」

 竜吉は布越しに自分の膝に爪を立てた。

「甘やかしすぎです、女将。いくら姐思いの小紫だからって、そこまで譲っていいものですか。もう一刻の猶予も無いのですから、有無言わせずに箕輪に送ってしまえばいいじゃありませんか」

「竜吉」煙管を取り出して女将はちらとこちらを見る。「おまえらしくもない台詞じゃないか。情け深いのがあたしの取り柄だと、昔言ったことを忘れたのかい」

 違う。自分は女将には決して言えないことを知っている。あの男――凛三郎にもう一度この見世へ呼び出すなど、ましてそれを小紫自身が申し出たなどと、到底信じがたいことであった。

「勿論、あたしだってあの侍にこの見世の敷居をまたがせるなんて反吐(へど)が出るさ。だがね、そうしておけばもうすんなり薫を切る覚悟があたしも決められるのさ。あの妓は…小紫はそこまで考えてあたしにこんな条件を持ち出してきたのかもしれないねぇ」

 煙管を取り出しながら、女将はそれにいつまでも火を点けなかった。竜吉はもう一刻も早く、この場を去ってしまいたかった。なぜこの世界は、すっきりと色が分かれた浮世絵のように、一目見てわかるようには出来ていないのだろう。小紫の心は、もう自分のとても及びもつかぬところを走っているのだろうか。

「それから竜吉、おまえにはもう一つ大事な話があるんだよ」ここで初めて、女将は煙草盆を引き寄せた。「心して聞いておくれ」

 竜吉は、その不可解な渦から引き上げてくれるなら、もうどんな話でもいいと目を上げた。


医師(せんせい)、ちょいと」

 薫の部屋を出て(やく)(ろう)を片付けているところへ、小紫はそっと呼びかけた。坊主頭に生える産毛ももはや白いというのに、小紫が呼びかけた途端、何やら厭らしい薄笑いを浮かべる医師に一瞬ためらいつつも、ここで引き返すわけにはいかなかった。

「わっちもここのところの疲れか、最近よう眠れないんですが、良い薬はありんせんかの」

「なんじゃ、深刻な顔で何かと思ったらそんなことか」

 こう言い終わるが早いか、医師は片付けていた薬籠をまた元のように広げると、薄い薬包紙に包まれた粉薬を二三取り出し、

「これを寝る前にそうじゃな、半匙ほど、白湯に混ぜて飲みなさい。ぐっすりと眠れよう」

 そう小紫の手にそっと握らせた。わざと小紫の手に触れようとするかのような、妙な手つきであった。

「半匙とはまた少なくはありんせんか」

「いやいや、この薬は大層強いんじゃ。あまり使いすぎると、今度はこれ無しでは眠れんようになるからの。心して使うようにな。ああそれと、」

 また薬籠をぱたぱたと仕舞うと、医師は立ち上がり、

「服用する時は白湯、または水を飲むんじゃ。茶や酒で飲んではいかん。特に酒、これは禁物じゃ」

「おや、それはなぜ」

「この薬は酒との性が悪うてな。酒と一緒に飲むと、ひょっとしたら眠りすぎてしまうかもれん…二度と目覚めんほどにな」

 ここで小紫が怖がれば満足なのだろうか、医師は凄みを利かせたつもりだったが、顔自体がにやついているのでちっとも怖くない。だが小紫は薬の礼のつもりで、

「まぁそれは怖い。そしたら医師(せんせい)、わっちを治してくんなますか」

 こう笑いかけたら立ちどころに上機嫌で大階段を降りて行った。医師がこっちを見なくなった途端、その方へ舌を出してやったら後ろから

「小紫どん、何しておすか」

 よつばの素っ頓狂な声が飛んできたので危うく舌を噛みそうになり、そして握っていた薬を慌てて帯の中へと締まった。

「何じゃよつばか、相変わらず高い声だこと」

「小紫どん、文でおすよ」

「わっちに? おいらんではのうてか」

「小紫どんに渡すよう、竜吉っつぁんから預かっておす」

 そう言われた瞬間、自分の問いの間抜けさに気付いて、慌てて文を受け取り、礼に飴玉の入った袋をやると、よつばは兎のようにぴょんぴょん跳ねながら一階に降りて行った。ここでは人目があるとそっと入った部屋は、何の因果かあの行灯部屋。だが密書を読むにはおあつらえ向きだった。表書きには何も無い。きっと竜吉が白い紙でくるみ直したのだろう。封を切る手が震えた。見覚えのある尖った字が、目に飛び込んでくる。――思わず、笑いがこみ上げてきた。

 あの忌まわしい座布団の積み重ねが、まだ乱雑に放置してある。その上に、小紫はあの夜のように倒れこんで、狂ったように笑う。あの日と同じ酒の臭気が、部屋の中に今も漂っているような気がしたが、それも構わず小紫はしばらく笑い転げ続けていた。


 大門の前に、真新しい駕篭がすっと乗りつける。その紋を見て、竜吉は間違いないと目星をつけると、提灯を掲げてそっと走り寄った。

「桐生様でいらっしゃいますね」

 こう呼びかけると、返事の代わりに垂れが上がり、中から身なりの良い若侍が黒頭巾したまま一人降り立つ。傍から見れば誰しも、どこかの羽振りの良いお武家が、お忍びで遊興に参じたようにしか見えなかっただろう。竜吉の先導で見世先へ行くと、何も知らぬ若い者達が一斉に威勢の良い声をかけて客を迎える。もしその正体を明かしでもしたら、声は石つぶてに代わるだろうに。

 入口で大小を預けると、侍は他の遊客に混ざってもうほとんど目立たなくなる。黒頭巾のお忍びの客など他にいくらもいたし、彼より派手な出で立ちの者など幇間持ちにもいたくらいだ。竜吉は黙々と侍を二階へと案内する。立ち止まったところは、引き付け座敷の一つ。名も告げず、ただ入ることだけを断って襖を開けると、中で迎えていたのは小紫だった。

「ようお越し下さいました」

 小紫は眉一つ動かさず、すっと頭を下げる。竜吉も常の客を送り出すように

「どうぞごゆっくり」

 こう言い置いて音立てぬよう襖を閉めた。ここまでして、また襖を開けて飛び込んで行きたい衝動に駆られ、竜吉は必死で自分を抑えた。

(ようお越し…だと? なぜそんなことが言えるんだ…)

 それは誰に向けられるともない怒りとなって、彼の中に燻った。それを消すために、彼はご内所に守備を伝えるために小走りに去った。

 小紫は畳についた自分の指を見つめていた。この指は震えていないだろうか。この声は、震えていないだろうか。目の先に、男の足袋の先が見える。卸したてのように、真っ白な足袋。頭を上げると、黒頭巾を取った凛三郎がいた。その顔は、最後に見た時と全く変わっていない。ただ異なることは、以前の浪人風の頭ではなく綺麗に月代を剃っていること、そして以前のような赤茶けた黒羽二重などではなく、鳥羽色の結城紬に羽織まで着ていることだった。勘当解けたのか、それとも別の良い金づるでも見つけたのか、知りたくも無い身上が自ずと知れた。

「ご健勝そうで、何より」

 元のように身体を起こすと、小紫はあるだけの皮肉を込めてぶつけてみた。だがやはり、それは数年前と同じように空しく跳ね返る。

「そなたもな、しをん」

 相も変らぬ、不敵な笑み。

「薫はどこに」

 問われて、小紫は応える代わりに立ち上がり、

「こちらへ」

 そう背を向けた瞬間、男の気配を背後に感じて全身総毛だった。逃れようとして、肩を固定される。

「久しく見ない間に、美しゅうなったな」男の息吹が、首筋にかかる。「見違えたぞ。だがその猫のような目は相変わらずだな」

 そう言うと凛三郎は途端に小紫を解放した。不覚にも、脈拍が上がるのを感じた。冷や汗が胸元をじっとりと濡らす。それを振り払うように次の間を開けると、そこは灯りの無い大座敷。そこを抜け、またそこを抜け、いくつもの座敷を渡る内に、壁沿いの細い廊下に出る。その突き当たりに、また別の戸があった。

「まるでカラクリ屋敷だな」

「わっちら見世の内の者が使う、けもの道でありんすよ」

 戸を開けると、そこは薫の部屋のすぐ横だった。辺りに人の気配は無い。小紫は素早く襖を開け、凛三郎を中に送ってから自分も滑り込んだ。てっきり床に就いていると思ったのに、中に入った時はすっかり化粧を整えた薫が、それでもいくらかだるそうに文机に凭れていたところに、凛三郎の姿を見出すと途端にすっと立ち上がり、

「凛さん…っ」

 小紫がいるのも構わず男の胸へと飛び込んだ。小紫はその様を冷ややかに見つめていたが、ここに長居をしても仕方が無いと立ち上がり、

「いま、御酒をお持ちいたしいす」

 そう立ち去ろうとするところへ、

「小紫や」久しく聞かぬ、薫の呼び声に振り返った。「ありがとう」

 男の胸から身を起こし、そのけぶるような笑顔を見つけた途端、何やら色んな感情が体内を駆け巡り、小紫はそのまま逃げるように部屋を飛び出した。台所からそっと持ち出した盆に銚子をしつらえながらも、その笑みはずっと小紫の中に棘の様に突き刺さり、酒を部屋に届けた後も胸を鈍く痛め続けていた。

(だがもう、もう、後戻りは出来ぬ)

 いつもは聞き慣れた宴会の音声(おんじょう)が、今日はいやに耳について小紫は耳を塞ぎたくなった。


 竜吉はわざと分厚い帳簿に目を通しては、一向に頭に入って来ない数字の羅列に苛立って投げ出し、また目を通すを繰り返していた。老番頭はそれを熱心に読みふけっていると勘違いしているのか、にこやかに後ろで見守っている。さっき凛三郎を部屋に送り出した後、帳場に戻って来て仕事をしようとはしてみるのだが、どうにも全くはかどらなかった。しかし持ち場を離れるわけにはいかない。彼は今日からここが仕事場なのだ。

 女将に、老いた番頭を助けるよう指示されたのはもう随分と前からだった。しかしそれは、番頭がもう手に負えない仕事――たとえば帳簿を運ぶ力仕事のようなものを、少し手伝うだけのことと思っていた。しかしそうではなく、本当の「補佐役」として、つまり実質二番番頭のような役職を与えられることだと知ったのは、ついこのあいだのことだった。凛三郎と薫の密会の手引きのことで頭がいっぱいで、すっかり忘れていたところに今朝番頭当人から、見世の男達全員にそのように伝えられてしまった。もうこうなっては、正式な辞令と同じこと、後戻りは出来なかった。

「あたしゃね、おまえは見世番にしとくのは勿体無いと見込んでるんだよ。番頭もそれは快く同意してくれてるんだ」

 だから断ることは許さない、女将の口調はいつもそんなふうだった。しかし昨日まで一介の見世番だった男が、それももっと古参の、それこそ廓生まれ廓育ちのような古株の妓夫達を差し置いて、自分が番頭の隣に座ることなぞ、朋輩たちが許すものだろうか。竜吉にはそんな不安ももちろんあった。

 だがそんな不安でさえ、今の胸騒ぎを抑えるには好都合にさえ思える程度のものだった。

(小紫…おめぇ一体何を考えているんだ)

 あの凛三郎を迎えた時の、あまりに淡々とした風情、感情を抑えているにしてはあまりに落ち着き払った姿が、妙に心に引っかかった。何かとてつもない嫌なことが起きそうな、そんな不安にかられて、今すぐでも小紫の元に飛んで行きたいのに、自分が居られるのはこの狭苦しい帳場の、この台の上であることが堪らなく苛立たしかった。

(俺はいつも、何もしてやれない。いつも気付いた頃にはもう遅い…)

 それでも何も出来ない、することすら許されていないのが、また自分であると竜吉は知っていた。だから余計、唇を噛み締めた。


 言葉が有り余りすぎて、かえって何も交わすことが出来ない。そんな風情で酒を酌み交わす二人が居る。引け四つを過ぎたせいか、宴の喧騒も今は遠く、辺りには虫の音がかすかに響いているだけ。壁際に生けられた桔梗から、花びらがひとつ、はらりと落ちた。

 薫は何かの思惟を込めて、目の前の男を見た。男はちらとそれを見、また盃に視線を落とす。この男はいつもそうであった。だがそれでもやはり、幾月を経ても忘れられなかった瞳であった。

 凛三郎は酒を一口すする。薫も酒を一口。盃に紅が、形を写す。それがもう、二人の合図であった。凛三郎は薫の頬を引き寄せると、その唇に唇を重ねた。薫は待ちかねたようにそれを受け入れ、酒が零れるのも構わずそれへ倒れこんだ。しばし、熱情の中に絡み合う二人。薫は自分の身が、男の胸へ溶けていきそうな感覚を覚えた。――否、それは錯覚ではなかった。久しく呑んでいなかった酒に酔ったか、頭の芯が痺れている。それでも男の胸が温かく、そのまま身体を預けてしまう。その恍惚が、次第に意識を薄れさせた。

「凛さん…ずっと…こうして――」

 そう言ったきり、薫の声が止み、凛三郎は不審に思って腕の中の女を見た。見ると病のためとも思えぬ、尋常ではない蒼白の(おもて)を晒した薫が自分にもたれるように眠っている。その表情にただならぬものを感じ、

「薫、おい、どうした?」

 そう揺すぶってはみても、まるでその瞼は動かない。何か、冷たいものが背筋を走った気がして、凛三郎が身を起こして立ち上がろうとした途端、天井がぐらりと揺れた。頭の中で誰かが、何かとんでもない力で、自分の意識をどこかへ引きずり込もうとしている。そこから逃れようとしてはみるが、手足が麻痺して這うのがやっとだ。

 その時、目の前で音も無く――ひょっとしたら耳まで麻痺していたのかもしれないが、とにかく静かに襖が開いた。赤い襦袢から伸びる白い足が、揺れる視界に映る。

「しをん…」身体を辛うじて支え、その足首を掴もうとする。「おめぇ…酒に何を入れやがった」

 その手をすっとかわし、襖を後ろ手に閉めると、小紫は凛三郎の頭を思い切り踏みつけて、

「しをんではありんせん」

 頭を固定したところへ、その首筋を何か冷たく光るものですっとなでた。

「小紫と呼びなんし」

凛三郎の目には、その銀色の光だけが映って、あとはもう何も見えなかった。

 血しぶきが勢いよくそこらじゅうへ飛び散る。人の身体からはこれほど血が流れるかというくらいの大洪水。畳、襖、壁、天井に至るまで、その血は飛び散り、凛三郎はその中で声も立てずに息絶えた。小紫はすぐに飛びすさったので返り血をまともに浴びずに済んだが、それでもわずかに着物を汚し、緋色の布に紅の染みをいくつも広げていく。

(ああそうだ、あの夜もこんなふうに)

 足の間から流れる血を、この目の前の男は冷ややかに見下ろしていたのだっけ。

(だが流した量では、わっちの勝ちじゃ)

 そう考えると、また笑いがこみ上げてきたが、まだ一つのことを忘れていた。それは凛三郎の傍らに横たわる薫。あれほどの血しぶきの傍にいながら、その白い顔には不思議と一滴の血もかかっていなかった。

「姐さん…薫姐さん…」

 呼びかけても、もう目覚めることはないと知っていても、小紫は何度も呼びかける。これが最後の呼び納めであるかのように。呼びかけながら、そのひいなのような白皙の顔を見る。長いまつ毛をたたえた瞳は静かに閉じられ、唇には穏やかな笑みすら浮かんでいた。

「わっちには、もう、これしか出来んせん」

 その顔を血で汚さぬように注意しながら、そっとその唇に自らの唇を重ねる。あの日、あの時と同じ、柔らかな唇には、未だいくらかの温みが残っていた。唇を離すと、自然と涙が流れた。それは今まで流したどの涙より、冷たく、痛みを伴う涙だった。だが、ためらっている暇はなかった。小紫は先程凛三郎を突いたものと同じ小刀を、今度は薫の乳の下に突き立てた。先程の血しぶきとは打って変わって、ゆっくりと、紅の染みが薫の胸元に広がり、それはまるで大輪の花のように、小紫にはこの上なく美しく見えた。

「姐さん、わっちの姐さん…」小刀を抜くと、その花は益々鮮やかに開く。「綺麗…とても綺麗じゃ……誰よりも」

 血が顔につくから拭うことが出来ず、涙はそのまま渇いていくだけだった。


 帳簿と睨み合いすぎて、竜吉は目の奥がひどく痛むのを感じた。台所で軽く茶漬けをもらっていると、ふと窓から零れる月光に心惹かれた。名月の光を拝めば、この痛みも少しは和らぐかもしれない。茶碗を勝手の洗い桶に突っ込むと、竜吉は裏庭に出た。

 残暑もようよう去り、夜気は清々しい香りをたたえてどこまでも澄み切っている。中天には満月をもう大分過ぎたという風情の月輪が、それでもまだ丸々と太って沈々と光を降らしていた。虫の音が耳に心地よく、竜吉は思わず天に向かって背伸びをしてみせた。

――その時、耳の中に妙な水音を聞いた。途端に、竜吉は三年前のあの夜を思い出し、清涼感も一気に吹っ飛んで井戸端に駆け出した。

(まさかあの侍、またあいつに――)

 残酷な想像は、頭の隅に追放して走る彼には、歩いても百歩と無い距離がそれでも千里にも遠く感じる。砂利を踏む音に混じって、水音は益々近くなる。そうして井戸端が視界に入った瞬間、竜吉は途端にまた、足が石のように動かなくなるのを感じた。

 蒼ざめた銀色の光の中、水がキラキラと星影のように閃いては消えていく。水音がざっと聞こえると、その輝きの中から、白い人影がその形を見せる。その人が誰であるかをはっきり知るのに、随分と長い時間がかかった。むしろ、誰だか気付かぬ内に、向こうがこちらに気付いたと言ってよかった。人影は青い影を長く引きながら、夜目にもはっきりそれとわかるほどにやりと笑ってみせた。それは心底愉快と言いたげな、どうかすると無邪気な子供のような笑顔にも見えた。

「竜吉っつぁん、こんな夜中に覗きでありんすか」

 そう言われて、初めてそれが小紫であると知れた。月下、一糸も纏わず水滴をたたえてぬらぬらと光るその身体は、生身の女というよりむしろ人形のそれという方がふさわしいような、硬質でどこか血の通わぬ冷たさを感じる裸体であった。小紫は竜吉の視線の下、恥部を隠すこともしないで、傍らに桶を置くと井戸端へ無造作に脱ぎ捨ててあった赤い襦袢を纏った。

「おめぇこそ、こんな時間に一体(いってぇ)何をしてるんだ」

 身体をろくに拭かずに羽織ったものだから、濡れた身体に張り付いた布地から、その身体の線が細部までありありと透けて見えた。

「ただの行水でおす」

「赤い襦袢なんぞ着て、そりゃ薫さんのものじゃないのかい」

 一歩一歩近づいてくる小紫のどこにも目を遣ることが出来なくて、竜吉は思わず月を見上げた。

「いんえ、これは自分で作りましたのさ」

「なぜ? 未だ客を取る身空じゃあるめぇに」

 小紫はその竜吉の袖を引き、こう耳元で囁いた。

「赤、紅、朱…あかいろは好きじゃ。血の色に似ているから」

 その声に思わず見た小紫の顔は、この世のものとは思えぬほど凄艶で、そしてまた恐ろしかった。竜吉はまた背筋をぞくぞくと伝うものを感じ、それでも全身は化け物に出会ったかのように総毛だって冷や汗が吹き出てきた。小紫はそのしどけない出で立ちのまま、勝手口の方へと去っていった。

 まるで魔が通ったようだ、と、竜吉は心底そう思った。


 その翌日の騒ぎは、湊屋始まって以来ではないかというほど派手なものであった。薫の部屋を最初に覗いたよつばが大声で泣き喚きながら遣り手の部屋に行き、そこで小便まで洩らしてしまったのを切欠に、覗き込んだ女達がまるで共鳴するかのごとく大声で騒ぎまわった。ようよう鎮まったのは女将が起き出し、薫の部屋の惨状を目の当たりにしてすぐさま大門の四郎兵衛詰所まで若い者を遣いにやり、役人達がその座敷に踏み込んできてからだった。ただの心中なら皆これほど騒ぎはすまいに、皆がここまで大騒ぎしたのは、まず薫の部屋にいるはずの無い凛三郎が横たわっており、その男が血刀を持ったまま血の海の中で息絶えていたからだろう。役人達も、これは心中情死の類ではなく、この侍による花魁殺しだと判断して、心中ならば弔いも出せず死骸は見せしめに晒されるところを、これは殺しなのだから、憐れな花魁の方は手厚く葬ってやるようお達しが出た。凛三郎の死骸の方は、下手人であり、また元の身は武士であるゆえ色々と調べることもあるのだろう、江戸の奉行所の方に引き取られていき、それきり行方は知れなかった。

薫の元に二度と現れるはずのない凛三郎がなぜいたのか、誰も疑問の声を上げることはなかった。それ以上に、お職の花魁のあまりに無残な最期に皆々ただ悲しみに暮れていた。よつばなどは未だに部屋の隅でがたがた震えており、わかばがその肩を抱きながら自らもしゃくりあげが止まらない。竜吉は見世中が薫の死を悼むその様を見て、薫は色々と問題はあったにせよ、やはり皆から愛される花魁であったということを改めて実感した。だがその一方で、竜吉は縁側でぽつりと膝を抱える小紫を見た。涙も流さずただ石のようにそこから動かない彼女を見て、可哀想にもう涙も出ないんだねと朋輩たちは悲嘆したが、竜吉だけは素直にそう思えなかった。あの夜遅く、行水をしていた小紫の、自分の方を見て笑ったあの顔を思い出す。あれは、およそ覗いた自分をからかうというような、そんな笑みではなかった。もっと底知れぬ狂気が、あの中に潜んでいたのではなかったか。

 だがもし、竜吉の予想が全て当たっていたとしても、小紫の中に到底計り知れぬ苦痛が疼いていることに代わりはない。それは三年前のあの夜の痛みを補ってまだ余りある、無間に等しい苦痛。そのあまりにも深い闇を垣間見た気がして、竜吉はただ静かに小紫を放っておくより手は無かった。今度もまた、自分は何も出来なかったと、唇を噛み締めたところから血の味がした。

――しをん、改め小紫、それが十四の秋であった。お職の花魁が殺され、その後釜を誰にするか、女将の頭痛が更に増えた年であった。薫や若藤に匹敵するような花魁が出ないまま、湊屋はその後いくらか人気を落とすのであるが、それでも惣籬を保つことが出来たのは、ひとえに未だ新造に過ぎない小紫が、絶大な人気を誇り続けたためとも言えた。

……竜吉はあの夜以来、小紫の心からの笑顔を見てはいない。


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