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雛いちもんめ  作者: 緋川 桐子
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第三章 銀②


 その日は幸いに雨も降らず、金銀砂子の星空の下、それを圧倒せんばかりの行灯提灯燈篭の輝きに、吉原中が燃え立つようであった。かねてより江戸の男どもの話題をさらっていた湊屋お艶の新造出し、その門出の姿を一目拝まんと詰め掛けたのは仲ノ町、ここに髷を島田に結い直し、例の紫縮緬の振袖に身を飾ったお艶、改め小紫、紋入りの(つら)明かりを持つ若い者に先導されて踏み出せば、皆々わっと歓声を上げる。後方を歩く姐の薫などは、霞んでしまうほどの人気ぶり。

「おい、湊屋のお艶ってのはあれかい」

「馬鹿野郎、今は小紫ってんだい」

「その紫何某が、あの新造かい。大したもんだね、おりゃあ名代目当てに通いてぇくらいだ」

「しゃらくせぇ、それ以前に花魁買える身分かおめぇは」

 話題をさらったのは小紫が纏う振袖もそうであった。紫の地をよく見れば銀糸の蜘蛛の巣が刺繍され、そこに絡まる極彩色の蝶に夏草の裾模様、これは客を絡め捕らえて離さぬという趣向なのだろう。それまで伊達男が襦袢に女郎蜘蛛をあしらうということはあったが、遊女が、それも新造がそんな模様の振袖を着たのは初めてだったので、七日間続く新造出しの間、小紫見たさに集まる客は増す一方であった。華やかさは衣装に限らず、湊屋の見世の前には白木の台に縮緬、緞子、錦の類がごっそり積まれ、出入りの者への祝儀に出される反物、煙草入れ、扇、手拭、全て「小紫」の名が入り、これを貰った者で扇一ついくらという値で外の男に売ったけしからん奴がいたとか、馴染みの茶屋や船宿にも存分の祝儀と贈り物、朋輩へは祝儀を切って赤飯が振舞われた。この費用、しめて五百両はいったというが、これ全て山﨑屋が負担した。

 この粋人の胸中にどんな意図があるのか、女将も小紫当人も図りかねていたのだが、とにかく有難いことだと新造出しして真っ先に御礼に参じた。この時山﨑屋は珍しく、薫の座敷に上がっていたのである。

「ご隠居、薫おいらん、この度はありがとうございんした」

 顔をそっと上げると茶鼠(ねず)の羽織の山﨑屋が、薫の酌を受けながらにこやかにこちらを見下ろしている。傍らの薫はといえば、若紫を基調とした衣装を詰め襟気味に着、紅も頬紅も明るい色という、珍しく若やいだ出で立ち。だがその明るい装いとは裏腹に、表情にはどこか薄暗い蔭が縁取っていた。

 銚子も台の物もひっきりなしに運ばれ、芸者衆の三味に合わせて幇間(たいこ)が二人陽気に踊る。ご馳走目当てに他の座敷から禿や新造が紛れ込み、そこに山﨑屋が惣花なぞ振り撒くものだから、座敷は底を抜かんばかりの大賑わい。薫に付き纏う蔭の存在なぞ、その華やぎに消し飛んでしまうかのようだった。小紫はちらと横目で薫を見、山﨑屋を見る。至極満足げな山﨑屋の隣で、笑みを咲かせる薫。その額にうっすらと、汗のようなものを見た気がして、思わず小紫は声を出そうとした。

「時に小紫」そこに、山﨑屋の声。「おぬしはなかなかの弾き手だと伝え聞いたが、どれ、ひとつ儂にも聴かせてはもらえんかの」

 弾くといえば、ここでは琴を表した。大見世の遊女に三味線の心得は無い。大いに賑わっていた座敷が途端に静まり返り、皆小紫の演奏を期待するような眼差しを向けた。ここにいる皆々、音には聞いても実際に彼女の琴を耳にしたことは無いのだ。

 小紫は困惑した。今まで湊屋で琴の名手といえば薫であり、客を取ったことも無い新参の新造が、姐を差し置いて琴の披露など出過ぎた真似であった。かといって、新造出しを負担してくれた上客の頼みを断れようはずも無い。珍しく小紫はいつもの愛想笑いも睨みも忘れ、潤みがちな瞳を薫の方へと泳がせた。

「ご隠居のたっての頼みじゃ、ようお弾きなんし」

 辞退しようと思っていた小紫をぴしりと窘めるように、薫の言葉には有無言わせぬ響きがあった。こう言われては弾くより他はなかった。これほど大勢の前で弾いたことなぞ無い小紫は正直気鬱であったが、下手を打てば姐の顔を潰すことにもなりかねん。見世番が持ってきた琴に向き合った瞬間、小紫はぐっと息を吸った。

「常の曲ではつまらぬ。おぬしが心のままに弾いてみい」

 何を弾こうか思案しつつ爪を嵌めていたところに、山﨑屋が更に追い討ちをかける。思わずじろっと山﨑屋を見上げると、案の定の愉快顔。この老爺、優しげな顔でこちらを試す気か。負けるものかと爪を付け終えると、小紫はすっと目を閉じた。曲を作ったことなどありはしない。しかし、心を曲に乗せることは出来るはずだ。あの盲目の検校のように、辺りの喧騒を遮断し、心の眼で音をなぞれば、自ずとどこから紡いでいくかはわかるはず。だがその心はどこに?――誰のために?

 眼裏に、まず浮かんだのは若藤の姿。夫となる人から贈られた煙管を吹かしながら、古びた将棋盤を哀しげに見つめたその姿。次に浮かんだのは、この間首を斬った遊女。鮮やかな赤の死化粧に、握られた剃刀の銀。そして最後には、薫。初めて会ったその日から、常に自分の心にあり続けた人。自分にこれが一番大事としてみせた口づけや、手取り足取り教えてくれた花や琴、手習い、そして、様々な痛みを――

 小紫の指が、そろりと、絃の上を走り始めた。妙なる音色が座敷に満ち、やがて襖を通して外へと伝わっていく。

 そのあまりに冴え冴えとした音に、通りかかった竜吉は思わず足を止めた。今まで聴いたどの音とも違う、冷たく、凍るように澄んだ音。音に惹かれて子供のように、襖を薄く開けて覗いた。弾いていたのは小紫だった。琴に詳しいわけではなかったが、その曲が彼女の心から来るものだということがすぐにわかった。なぜならその音色に乗せられた冷たさや、色や、艶のようなもの、それら全て、竜吉が小紫を、しをんを、お艶を、見る度に感じていた彼女の感情そのものと同じ波長を持っていたからだ。小紫が弾くその先に、山﨑屋と薫が鎮座して聴いている。座敷一同、物音一つ発せず彼女の琴の音に耳傾けている。だがあの音が、あの声が、誰に向けられたものか知る者は、あの座敷にどれほどいるだろうか。竜吉には、痛いほどわかる。あの曲は声にならぬ小紫の、長い長い恋文だった。それは決して誰にも気付かれず、また気付かれてもならぬ恋文だった。この男を悦ばす女の里で、同じ女を愛した者の実らぬ思い。薫は、その只中でそれに気付いているのだろうか。

 弾き終わった後も、しばらく誰も声を上げなかった。あまりに指を動かしたので、手首に鈍い痛みを感じる。小紫はふっと息を吐いて、山﨑屋を見、そして薫を見た。薫の表情は、聴く前と寸分違わなかった。涙が、こぼれそうになる。だからお辞儀をして、気付かれぬように下座に下がった。

「これは、またえらく熱っぽい奏し方じゃったな」

 数瞬間ののち、山﨑屋がそうやっと口火を切って、一同は口々に賛辞をもらした。芸者で一人、涙を零している者がいた。

「だが若いわりには見事なもんじゃ、そうは思わんか花魁?」

 山﨑屋が振り返ると、薫は静かに目を伏せて頷いた。竜吉はここまで見て、思わず堪らなくなり、すっと座敷に入っていった。薫はなぜ何も言ってやらぬのか。やり場のない感情が、彼の口から思わぬ言葉となって飛び出した。

「花魁も、返礼してはいかがか」

 座敷一同の視線が、この突然の闖入者に一斉に集まる。山﨑屋だけが驚きもせず、欠けた前歯を見せてかっかと笑い、

「それは名案じゃ。妹の働きに応えてやらんとのう」

 こう意地悪く付け加えた。小紫は何を言い出すかと竜吉を睨みつける。その火のような視線が、かえって竜吉には小気味良い。

(今更、俺に隠せるとでも思うのか)

 薫はこのやり取りをしばらく見守っていたが、ふいに

「ようおす」

 と立ち上がると、小紫の琴を引き寄せ、爪をはめ始めた。

「こりゃ、花魁の琴が聴けるなんてあっしらも運がいい」

 幇間が扇子で頭を打ちながら陽気に声を上げてみたが、他の連中はなぜだか黙って薫の様子を見守っていた。えもいわれぬ緊張感が、しばし、漂う。

 小紫のそれとは打って変わって、暗く、静かな音色が座敷を満たす。同じ琴でも、薫の音はその人となりを表すように、大人しく、それでいて重厚で、決して耳ざわりではないのに、己の存在感をはっきりと持つ音であった。だが次第に調子が上がってきた時、音の中に違和感が混ざった。それを最初に察したのは小紫だったのだろう。次に山﨑屋、三味の芸者衆、そして竜吉、幇間、という順に、音に聡い者が順々に気付いていく。その音は調子外れと言うより、琴とは思えぬ異様な、どこか人の悲鳴のような音だった。小紫は思わず腰を浮かし、薫を止めようとする。竜吉が袖を引いてそれを留める。音は益々高くなる。

――その瞬間、薫の爪に当たった絃が、青い火花を散らしたかと思うとぷつりと切れた。ぶん、という鈍い音が座敷に響き、皆があっと息を飲み込んだ途端、今度は木偶(でく)がごとりと倒れるように、薫が琴の上に倒れ臥した。芸者衆の悲鳴が上がる。小紫は振袖を引っ掛けるのも構わぬという勢いで、薫に走り寄る。竜吉は山﨑屋に怪我をさせるわけにはいかないと、早々に他の座敷へと誘導する。

 おいらん、薫さんと、雨霰のように人々が呼ぶ声が降り注ぐ中、小紫は薫を琴の上から助け起こした。その時感じた人の身とも思えぬ軽さに、背筋がぞっとした。


 薫が倒れたのは、はっきりとした名のある病ではなかった。女将が呼ばせた医師は、数日養生すればよくなるだろうと気休め程度の薬を置いて去った。事実、薫は二三日もすれば起き上がれるほどに回復し、四日目には見世に出るとも言い出した。女将は無理をするなと言ったが、薫自身が出ると言っているものを強いて止めることも出来なかった。だが、そこですぐに元には戻らなかった。三日も見世に出れば、また糸が切れたようにどっと寝つき、数日休めばまた回復し、見世に出ればまた悪くなる、そんな状態が繰り返された。呼び出しの花魁が見世を一日休むことの穴は大きい。とはいえ、このようなことを繰り返せば、もっと悪い病にかかりかねん。それは薫本人というより、湊屋の不都合に通じた。

箕輪(みのわ)にやったらどうですか」

 薫付の番頭新造は、とうとう見兼ねて女将に進言した。それは薫の傍に在る者としては当然の意見で、女将もいつ周りから箕輪の名が出てもおかしくないとは思っていた。そうはいっても、簡単にやれるものではなかった。例えば肺病とか不慮の懐妊とかなら、有無言わせず蟄居(ちっきょ)させるところではあるが、当の本人は休みながらも見世には出ている。もしまとまって箕輪に行くとなれば、お供に新造と下男の数人もつけねばなるまいし、その間の彼らの賃金や自身の揚げ代、生活費、それらの費用は全て薫の肩にかかってくる。押しも圧されもせぬ全盛の花魁ならまだしも、薫は言うなれば落ち目の花魁である。養生が長引きでもすれば、借金は日を負うごとにかさんでいき、年季は伸びる一方である。それならば、休み休みでも見世に出ている方が、まだ薫にとってはましであるような気もするのである。

 薫を箕輪にやりたくない理由は、もう一つあった。それは小紫のことである。新造出しを終えたばかりの彼女に、早くも多くの男達の注目が集まっている。薫が休みの時の名代(みょうだい)として小紫が出るのを、かえって楽しみに通ってくる客もいたくらいだ。薫の馴染みだけではない。他の遊女の客であっても、あの新造は誰だ、あれはまだ客を取らないのかとうるさく聞いてくる者がいて、遣り手も随分閉口しているという話だ。その中でもまれながら、小紫は今多くの駆け引きや、手練手管の数々を身に着けているさなかである。そんな時、姐の薫が箕輪に行くなどということになれば、小紫もついて行くと言い出さぬわけがない。今薫に行かれ、小紫にまで行かれてしまえば、正直他の女達だけで湊屋を立ち行かすことは難しくなる。かといって小紫をここに引きとめ、薫だけを箕輪にやるのは到底出来そうもない。小紫の頑固さ、ことに薫に対する思慕たるや並み尋常のものではなく、女将も始めは微笑ましく思っていたが、最近はそれも頭痛の種でしかなかったのだ。

「小紫、名代だよ」

 遣り手にそう呼ばれ、座敷に出ることはもう慣れている。今夜の薫は一人の客で手一杯という様子だったので、小紫は声を聞いた途端に予知していたかのようにすっと立ち上がった。

「あい」

 裾を引いて、小紫は遣り手に向き合う。幼い日はあれほど大女に見えた遣り手も、今となっては背丈も大して変わらない。身体の幅は倍ほど違ったが、肢体の細さを補って余りある気迫を、既に彼女は身につけていた。何か二言三言意見しようと思っていたのだろうか、遣り手の厚い唇が物言いたげに蠢いていたが、漆黒の瞳にじっと捉えられ、それ以上開くことが出来ないようだった。小紫は紅淡い唇を吊り上げて笑って見せると、そのまま指定された座敷へと去った。

 座敷にいたのは若い男だった。薫と共に出た座敷で何度か見たことのある顔だ。初会で連れてきたのは山﨑屋、懇意にしている絹問屋の若旦那だとかで、名は光太郎とかいったか。見るからに苦労知らずの優男だが、顔立ちが良いうえ品があって礼儀正しく、また金遣いも綺麗な客だったので、楼内の評判は良く、名の光太郎をもじって「光る君」とかあだ名されている。薫の最近の馴染みの中では、一等まともな上客であった。

 〝光る君〟こと光太郎は、小紫が座敷に入ってきた途端、一瞬驚いて眼を見開いたが、次の瞬間には元の上品な笑顔に戻って、小紫を対座に迎えた。膳の上には既に銚子と刺身が載っていたが、荒らした様子は無く、この暑さにも汗一つかかぬ涼しげな居住い。なるほどこれは躾の良さそうな男だと、小紫は腰を降ろしながらぼんやり考えた。

「おまえさんの顔には見覚えがある。若紫とか言ったかな」

 〝光る君〟の敵娼(あいかた)が〝若紫〟では、上手く出来すぎている。こちらを笑わそうとしたのか、それとも本気で言っているのか、人の良さそうな(ふた)(かわ)()からはしかとは図りかねた。小紫は一瞬本気で戸惑ったが、わざと真顔で

「わっちは小紫と申しいす」

 と言ってみると、光太郎は決まり悪そうに眼をそらした。目を伏せたところが、誰かに似ている気がした。しかし、すぐには思い出せず、小紫は銚子を取り上げて酒を勧めた。

「小紫が呼びづろうおしたら、若紫で構いんせん」

 盃に酒が零れるのと同時に、小紫は相手の顔を覗きこんで笑って見せた。恥じ入ったままこの男が二度と現れなかったら、自分ではなく薫の損失だ。

「いや、そんなことは」その目がまともに見られぬというふうに、「小紫、おまえさんによく似合った、いい名だ。間違ってすまなかったね」

 そう言って盃をぐっと乾すと、酒が回ったにしては随分早く、顔を赤らめている。

「若旦那」小紫は容赦なく目をそらさぬ。「なぜ花魁のことを聞きなんすか」

「ええ?」

「わっちは花魁の名代でありんす。ぬし様は花魁に逢いに来たのではありんせんか」

 小紫にとってそれは、重要な問題だった。若く、金回りのいい客は、花魁にとってはこの苦界から抜けるための命綱に近いもの。薫は、今年二十五。再来年には年季が明ける。だがその前に身代が返しきれなければ、遣り手にでもなるか、あるいはどこかもっと程度の低い見世に住み替えになって、あとは坂を転がるがごとくになる。光太郎のような客を本気で取り込むことは、小紫が姐に出来る唯一の恩返しだった。たとえそれが、小紫自身を苦しめることであったとしても。

「そうだね、あたしは薫花魁に会いに来た」

 光太郎がふと、真剣な表情になった。

「だが花魁は来ず、代わりにおまえさんが来た。ならば、今日はゆっくりおまえさんと話をしようと思ったんだよ。いけないかい」

 小紫はここではっと我に返り、途端に背筋を伸ばして顎を引いた。

「ようおす。わっちがとことんお相手しんしょう」

 その真剣な表情と口ぶりに、今度は光太郎が相好(そうごう)を崩した。

「おまえ、面白い()だね」光太郎はふいに立ち上がった。「今日はおまえさんのその言葉だけで充分だ。帰っていい夢が見られるよ」

 立ち上がってすれ違いざま、手妻(てづま)のようにさりげない仕草で、小紫の懐に何かを挟み込んだ。始め手拭か何かと思った小紫は、その重みに気付いて慌てて立ち上がった。

「若旦那っ…」

「それで花魁に、滋養のあるもの食べさせておやり。また来るよ」

 光太郎は返事も聞かず、さっさと大階段を降りて行った。小紫は見送りに出ることも出来ず、ぽかんとその場に立ち尽くした。光太郎を送り出す妓夫(ぎゅう)の声が聞こえ、それが止んでから、座敷に引っ込んでこっそり中身を見た。金が三枚。床花に匹敵するほどの額に、小紫は思わず唇を噛んで窓から投げ付けてやろうと思ったが、病んだ体で座敷を務める薫を思い出してまた懐にしまった。今度の紋日に着物を作る時は、これを元手に自分で作ろう、そう思い直すと何とか気が鎮まった。


 それからも〝光る君〟はよく通ってきた。それも見計らって来るのではないかというほど、薫の塩梅が悪い時や、先客がいる時に限ってよく現れる。来たからとて、名代の小紫は話し相手以上のことは出来ないのに、何が楽しいのかそんな時も光太郎は満足げに帰って行った。自分のお客は薫の客でもあるのだから、決して悪いことではないはずだが、小紫は頭の隅にささくれのような違和感を覚えていた。その度に、光太郎の相手をする時に薫が見せる、いつにない明るい顔を思い出しては、それらの違和感を打ち消していた。事態は決して、悪い方に進んではないはずだ、と。

 ある夜、いつものように光太郎が登楼し、先客に山﨑屋が上がっていた時だった。小紫はもう慣れた仕草で光太郎の座敷に参上し、襖を開けて心の臓が止まりかけた。脇息に身を預けて窓外の夜景を眺めている光太郎は、商人(あきんど)の倅には珍しい憲法黒なぞを着ていたのであるが、その黒ずくめの寥々(りょうりょう)としたたたずまいに目の前がぐらぐらとした。――あの男だ。そうだ、光太郎はあの男によく似ていたのだ。光太郎が来た時に薫が見せる、明るんだ顔の意味がやっとわかった。薫はこの男を通して、別の男を見ていたのだ。そうしてその追懐のような虚しい思いが、唯一薫の身体を支えていたのだ。そのつっかえが無くなれば、薫はもう古木のごとく崩れ落ちるだろう。

「どうしたんだい、そんなところにぼんやりと突っ立って」

 こっちを振り向いた光太郎の顔は、もうさほどあの男には似ていなかった。顔立ちはあまり似ていない。だからこそ気付かなかった。だが洗練された雰囲気や、決して崩れぬ着こなしや、何をしても絵になる仕草が、どうしようもなくあの男に似ていて、小紫は言われるままにそこに座っても、首筋や背中に嫌な汗が滲み出るのを止められなかった。早鐘のように脈打つ鼓動が外まで聞こえそうな気がして、襟を合わせる振りして胸元を押さえる。

「顔色が悪いようだが、おまえまでどこか悪いのではないかい」

 光太郎が心底不安げな表情で、こちらを覗き込む。小紫はまともに目を上げることが出来ず、ゆっくりと首を振った。

「無理をしてはいけないよ」光太郎はふと自分の(たもと)を探った。「今日はおまえにこれを渡したくて来たんだ」

 こう言って取り出したのは、白い手拭の上に載った針――と見えたのは薄明かりの錯覚で、それは繊細な銀細工をあしらった、紫水晶の玉簪だった。

「この前、おまえの名前を間違えてしまったからね。これはお詫びだ。ぜひ受け取って欲しい」

 始めから、小紫が断ることを前提に話してきている。機先を制されて、小紫は二の句がつげないでいた。

――と、その時、後ろの襖がすっと開いて、夏というのに背筋を這うような冷たい風と、それに伴う一陣の香気がさっと部屋に流れ込んだ。光太郎は途端素早い仕草で簪を袂に仕舞い込み、そのまま腕を組んだ。

「遅うなりんした」

 小紫は後頭部をがんと殴られたような衝撃を、なぜだか覚えた。そして恐る恐る振り返る。目の前に立っていたのは、薫。いくらか顔色が悪いが、常よりは調子が良いように見える。だが小紫を見下ろすその表情には、明らかに何か穢れたものを見るような、冷たいものが宿っていた。

「小紫」

 その視線に撃たれ、もうまるで動けないでいた小紫に、どこから助け舟のような呼び声。外から竜吉が呼んでいる。小紫は薫が部屋に入るのも待たなければ、光太郎に挨拶もせずに部屋の外に飛び出した。

「おやおや落ち着きの無い」薫はその姿を冷ややかに見送り、「新造にもなってしょうがないこと」

 その表情をすぐに笑顔に変えると、光太郎の上座に腰を降ろした。

「なんでぇ、その飛び出し方は」竜吉は、その小紫のただならぬ様子にあきれ返って「山﨑屋のご隠居がおまえを呼んでる」

 そう耳打ちすると、背中をぽんと一つ叩いた。途端に、小紫は震えが止み、いつもの表情に戻った。竜吉に目で会釈すると、示された座敷へと向かう。

「早かったじゃないか」

 山﨑屋は同じような居住いで煙管を吹かしていたが、もう胸騒ぐことも無かった。この人を食った老遊客の周りには、どこか人を落ち着かせる空気が漂っているのかもしれなかった。

「今日はの、おまえに見せたいものがあって来たんじゃ」

 見せたいものだの渡したいものだの、今日は皆こっちの気持ちなどお構いなしに勝手ばかり言うものだと、小紫はなんだか腹立たしくなって何も応えずに腰を降ろした。

 山﨑屋も元より返事など期待していない。懐から四つ折りの紙を取り出して、小紫の前にぽいと置いて見せた。

「今江戸ではの、そんなものが流行ってるんじゃ」

 小紫が何気なく開いてみると、それは色鮮やかな浮世絵だった。縁側のようなところで、寄添い合う美しい男女。垣根には夕顔のような花が咲き乱れているところを見ると、おそらく夏の情景なのだろう。だがその絵の端を見てぞっとした。その男女の後ろから、髪もおどろに振り乱して恐ろしい形相で迫り来る女。その顔の横に、「かほる」という仮名文字が見えた。

「ご隠居っ…」

「その絵はの、源氏の物語にある『夕顔』っちゅう巻の挿絵をもじってあるんじゃが、」煙管の煙が、絵の向こうで揺れる。「誰のことを描いてるかはわかるじゃろう」

 夕顔を取り殺す六条御息所の生霊に「かほる」とあるならば、夕顔と源氏に見立てられた男女が誰と誰であるかなど、名が書いていなくともわかった。手が、また震えた。

「そんな、わっちは」絵から目を離せぬまま、小紫はうわ言のように呟いた。「わっちはそんな…」

「おぬしが薫を裏切るようなつもりはないこた、儂にもわかる。だが世間はそうは思わぬものでな。話をややこしい方に受け取っては面白がるもんなんじゃ。特に光太郎の方は、まんざらでもない様子じゃしの」

 小紫の中で、その時何かがふつりと切れて、浮世絵を中空に持ち上げると上からぴーっと裂いてみせた。人物の見分けがつかなくなるまで千々に裂いてしまうと、小紫はまた何も言わずに座敷を飛び出した。

「絵は裂いてしまえばいいんだがの。男と女はそうはいかん」

 煙管の合間に山﨑屋が呟いた言葉も、もう耳には入らなかった。すれ違う客も構わず、廊下を抜けて小紫はどこへ向かうともなく歩いていた。その時向こうから来た竜吉に呼び止められる。この男は、いつも一番会いたくない時に自分の前に現れる。

「待て小紫」目の前にすっと、突き出された白いもの。「あの若旦那からだ。さっき渡しそびれたそうだから」

 小紫は竜吉を睨み付けると、何も言わずに通り過ぎようとした。菫色の炎が踊るような視線に、いつもの竜吉ならそのままやり過ごしただろう。だがもう彼女は「しをん」ではない。このまま好きにさせておくことは出来なかった。

「おい待て」行こうとする袖をぐいと引く。「ちゃんと受け取るんだ」

 それでもなお行こうとするので、両肩を掴んで壁に押し付けた。小紫は途端、脅えたような表情で竜吉を見上げた。その顔に胸痛む傍ら、華奢なその肩をもっときつく握り締めたいような衝動に駆られ、竜吉はわざと唸るように低い声で囁いた。

「甘ったれるな。てめぇはもう新造なんだろう」その懐に簪入りの袱紗(ふくさ)をねじ込み、「くれるというものは、黙って貰え。それが(ここ)の礼儀だ」

 わざと突き飛ばすように解放した。手の中に、女の細い骨の感触が残った。

 小紫は竜吉から逃れるように立ち去りがてら、その袱紗をなるべく懐の奥へ奥へと突っ込む。裏梯子を二段、三段と駆け降りて、そうしてそのまま座り込んだ。思わず知らず、涙が零れた。

(なんで――なんで――わっちは……)

 あまりに乱暴に突っ込んだせいで、袱紗を破った簪の先が、乳房に突き刺さっている。だがその痛みもわからぬほど、小紫は涙に捉われていた。


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