第三章 銀①
第三章 銀
1
「なぁ、女ってのは血が怖くはないのかい」
仰向けになったまま吹かす煙管の先に、鏡の前で化粧を直す見慣れた女の後姿。女は振り向きもせずに応える。
「血ぃ? 一体何の話だい藪から棒に」
相手の唐突な問いをいなすように、女は紅筆を使いながら鏡の中で笑って見せた。
「いや、深い意味はないんだが…ちと気になってな」
「それは誰か気になる人の話かい、竜さん」
紅筆を置くと、女はくるりと振り向いて煙管を奪い取り、竜吉の隣に寝転んで吸い始めた。ここは品川、それも中の下ほどの見世。馴れ合いゆえのぞんざいな仕草、粗野な言葉遣い、その気取りの無さが癖になる。竜吉が相手にするのはえてしてこんな女ばかりだ。それは自分の身を置く湊屋の女達のあまりな煌びやかさ、ことに花魁と呼ばれる高級遊女達の、美々しさと物々しさにかえって倦み疲れている証であろう。元より大見世に上がれるほどの稼ぎも無いが、自分の私的な遊びまで、あのような格式ばったことに関わりたくはなかった。
「吉原の並みいる花魁を嫌というほど見ている竜さんの目を惹くのは、一体全体どれほどの女なんだい。小憎らしいね」
煙管を持っていない方の手で、女は竜吉の太股を優しく抓る。
「そんなんじゃねぇさ」竜吉は女のするままに放っておく。「ただ、女ってのは血を見るときゃーきゃー騒ぐもんだと思っていたんだが、実際そうでもないようだから。男の俺が見てもぞっとするような血の海を、案外平気で見てやがる」
「こないだの心中の話かい? まぁ、色里じゃ日常茶飯事だからねぇ」
女は煙草盆に火種を落とすと、更に竜吉に身体を摺り寄せてきた。二の腕に、女の乳房の感触が広がる。
「それにねぇ、女は血なんか怖くないんだよ」女の手が、竜吉の襟元に滑り込む。「毎月一度は血を流す身、血が怖くてやっていけるものかい」
「…そういうものか」
女は竜吉に顔を近付けると、せっかく引き直した紅を、竜吉の唇に移していた。されるがままになりながら、竜吉は半月ほど前、湊屋で起きた心中事件を思い出す。
死んだのは部屋持の遊女だった。口さがない彼女の朋輩達によれば、部屋は大見世の体面を守るためお情けで与えられているようなもの、元々お茶を挽くことが多く、情夫には貢ぐ、そのくせ金には汚く、朋輩の間でも鼻つまみ者であった。その挙句に借金がかさみ、夏には切見世に住み替えとなるはずであった。若い時分はそれなりに売れていた遊女、年季間近の身の上、また切見世で一からやり直しなどとは堪えがたかったのだろう。結果、情夫との心中という安易な逃げ道に辿り着いた。とはいえ男は傍らにはおらず、何時何刻と刻限を合わせての相対死、果たして男が本当に死んだのか証明する手立てなぞなく、ただ一人の惨めな自害とも言える死に様であった。剃刀で喉笛を切り裂いたのか、畳はおろか襖や壁、天井にまで血が飛び散り、遣り手などはこの部屋はしばらく使えないと、模様替えの算段の方に頭を巡らし、どうせ死ぬなら大人しく入水でもすりゃいいものを、最後まで迷惑掛け通しの娘だよと悪態吐いた。朋輩達も部屋の凄惨な有様を見て一通り狼狽したり手を合わせたりなどしていたが、心から涙を流す者はない様子。最後まで、憐れな女であったと竜吉は虚ろな思いでその部屋を見つめていたのだが、それでも血の匂いに胸を悪くして、中に入って行く気になれなかった。
そんな竜吉の脇をついと通り過ぎていく影、部屋の入口に詰め掛けた野次馬達も難なくすり抜けて、一人部屋に堂々と入っていったのは、しをん――今はお艶と名乗る少女。身体は未だ女としての豊満さはないものの、既に子供ではない、若木のようにすらりと伸びた立ち姿で、まるで湯にでも行くかのように颯爽と部屋に入り、血に臆することも無く畳にしゃがみ込み、死んだ女を抱き起こす。その手から剃刀を外し、もう固まっている傷口に触れると、それを隠すようにはだけた襟元を調えてやっている。まるで人形遊びでもするかのようにその仕草はあまりに自然で、入口から部屋を覗き込む連中も数瞬間ただそれに見惚れていたが、
「もう身体が固まりかけてる。早う運んであげてくんなまし」
そう言い放った声に初めて一同我に返り、掃除だの死骸運びだの皆慌ててめいめいの仕事を始めた。女が部屋から運び去られ、掃除が終わり、もうこれ以上落ちようが無い血の染みが畳にこびりついているところへ、お艶は未だしゃがみ込んでいるので、竜吉は呆れ返って
「そんなもんいつまでも眺めて、薄気味悪い真似するんじゃねぇ。着物に血がついたらどうするんだ」
実際ついたところで、お艶の着ていた朱鷺色の表着ではほとんど目立ちはしないのだが、それよりもあれほどの血の海に眉根一つ動かさぬ彼女の言動が、正直気味悪いを通り越して恐ろしくすらあったのである。
「さあ、こんなとこ早く出ろ。湯にでも行って来い」
そうせっつく竜吉に応えもせず、お艶はぽつりと呟いた。
「綺麗じゃ…」畳の血の染みをこすりながら、「ほんにいい色をしてる」
そうにやりと笑ってみせた姿が、今もありありと脳裏に焼きついている。あれから何日も経っていても、血の染みが取れぬ部屋の中、鮮やかな赤色の着物に身を包まれ、愉快そうに笑んだ紅い唇が、事あるごとに浮かんでは消えていく。
女と身体を重ねながら竜吉は、何度も思い巡らす内にいつの間にか、その赤色が恐怖から快感に変わっていることを感じていた。
絃の上を、細い指が縦横無尽に走っている。その指は象牙の付け爪よりなお白く、十三の糸を川の流れと喩えるならば、それはさながらその上を跳ね回る白魚であった。白魚は時に荘重、時に軽快な水音を立てながら、一つの季節を追うように旋律を形作り、午後の空気の中に響いては消えていく。傍らでじっと耳を澄ましていた検校は、その音が激しい時は目を硬く瞑り、穏やかな時にはそれを緩めと、音に合わせて瞼を動かしていたが、やがて曲が止むと徐に見えぬ目を開いた。
「今日は一段と艶が増しましたな」
滅多に弟子を褒めぬ検校が、この弟子にばかりは絶賛を惜しまぬ。検校の傍らに控えていた若い内弟子は、おぼろげに見えるその人を見やった。輪郭は定かでなくとも、さぞ美しい女に違いない。それは琴を奏す姿、薄雲の中に揺らめく日輪のようにぼんやりと、だが輝いて見える姿だけでわかった。――名は、お艶。彼女はこの色里の中で将来を約束された、引込み禿の一人であった。
「この段をここまで弾きこなした者は、目明きの弟子ではあなたと、お蓮さん、」ここで内弟子は、検校の耳に何やら囁き、「ああ、今は薫さんとおっしゃるのか。その薫さんくらいのものです。ましてやこれほど短き間にものにしたのは、数ある弟子の中にもおりません。あなたが盲であったら、名跡を継がせたいくらいですじゃ」
「もったいないお言葉です、検校」
お艶が頭を下げたのだろう。銀か鼈甲か、知ることは出来ぬが、簪がきらりと輝く光が見える。
「しかし、何といいますかな」検校はここで皺の深い目を閉じ、「あなたの音には、ちょっとこう、異様な音が混ざっておる」
「何ぞ弾き損ねましたでしょうか」
「いや」ここで再びうっすら開く。「調和は取れておる。ただ、色が見えるのでな」
「色?」
「そう…なんというかな、金、いや、銀、稲光のような、ああいった強く、鋭い閃光が見えるんですじゃ」
弟子は、この師の言葉がほとんど理解できなかった。まだ若い彼には、お艶の琴は、玄人はだしの見事な調べにしか聴こえなかったのだ。
「銀、ですか」
「刃に似ているのかも知れん。お武家さんの持っておる刀とやらは、儂にはあのように見えますのじゃ」
その後、一瞬沈黙が訪れた後は、もう検校はこれ以上その話はしなかった。検校はお艶の琴をあれこれ指導し、お艶はそれに頷き、時に質問をするという、いつもの稽古の風景に戻った。弟子はそれきり、その話のことを忘れ、彼の心はお艶その人に移っていった。検校に集中が足りぬとそのせいでいつも小言を食うのだが、それでも彼はつい、はっきりと聴こえるお艶の琴より、ぼんやりとしか見えぬお艶の姿に心を澄ます。膝の上で、自然と拳が握られた。
「お艶さん、あの」
礼と挨拶を済ませて稽古場を出ようとしたお艶は、先程検校の傍で控えていた若い弟子に呼び止められる。盲人とは思えぬ素早い足運びと、絡みつくようにじっと見つめてくるその目線は、もう随分見慣れたものであった。彼が何を言わんとしているのか、聴かずとも知れる。それでも、お艶は敢えて問う。
「何か?」
弟子は口ごもる。色は黒いが割合整った顔立ちが、みるみる内に紅潮していく。彼は通いの新造や引込み達にそれなり人気があるようだったが、お艶は眉すら動かさなかった。
「あの、これ…」
すっと突き出した手には、紫苑色に染められた花模様の手拭と、その上にそっと置かれた結び文。お艶はこの時、ちょっと顔を曇らせたのだが、彼の目にはそれは映っていない。しかしここで突き返してはこの先通いづらくなる。お艶はすぐに愛想笑いを浮かべ、
「ありがとうございんす」
男の手に自分の手を触れぬようそれを受け取ると、するりと懐に仕舞い込んだ。彼は何か言いたげだったが、お艶は構わずくるりと踵を返すと、さっさと稽古場を飛び出した。
「お艶さん、何かありやしたか」
出た所にも面倒の種は居た。お艶はふっと溜息を吐き、男に構わずさっさと歩き出す。男は伍平と言って、年は十七か十八くらいか、お艶の稽古にはいつも供としてつけられる、湊屋の若い者であった。元々重い琴を担ぐために、琴の稽古がある時だけ供をする役割だったが、稽古の行き帰りにお艶があまりに男達からちょっかいを出されるため、女将の計らいでいつの間にか見世を出る時はいつも、この男が用心棒よろしく供をするのが決まりとなってしまった。いつも熱っぽい眼差しでお艶をじっと目で追っては、犬のように嬉々として後をついて来るのが、少々鬱陶しくもあるものの、どうせ見つめ、ついて来る以上のことは何もしない男。害も無いので好きにさせておいた。
「伍平どん」お艶は駒下駄を鳴らして、振り向きもせずに「今日はこの後、お花だったかね、お茶だったかね」
そう小声で問いかけると、伍平は躍り上がるようにして
「へいっ、お茶のお稽古で」
裏返った声で応えるのでお艶は可笑しくて仕方が無かった。重い琴を担いで躍り上がるとは、一体どんな有様か、覗いてみたい気がするのだがいつもやめている。
「そうかい、じゃあ菓子屋に寄るから、元来た道をちょいと戻りんすよ」
ここでまた唐突に踵を返すと、伍平の足取り全く構わず、勝手に元来た方に引き返す。伍平はお艶の勝手な振る舞いに、文句一つ言わない。むしろそれだけ長く供をしていられるのでかえって喜んでいた。かたかたという駒下駄の足音の後を、ずるずるどたどたと不恰好な草履の音が追いかける。柳を抜ける風が、道を抜けて砂埃を巻き上げていく。
「おおいっ、もうすぐ通るぞっ!」
屋根の修繕をしていた職人がだみ声で呼ばわると、それまで庭を見つめて煙管を吹かしていた植木屋も、店先に水を撒いていた手代も、軒先へ腰を降ろしていた大工達も、皆一斉に仕事を放り出し、通りへと飛び出した。ここらは遊郭ではなく、菓子屋や豆腐屋など、堅気の店が軒を並べる通り。その合間合間に裏茶屋が秘かに商いし、忍び合う男女が時折裏通りへと消えていく。それ以外は男どもが外の世界と変わらず立ち働き、一見色里とも思えぬ光景が広がっていた――はずであった。しかしこのところこの辺りは、四つ半頃には男達がそわそわし出し、ある呼び声を切欠になぜだかわっと通りに飛び出すのだった。
彼らが鼻息荒く見守る視線の先は、駒下駄の音に、砂埃。後にはひょこひょこ歩く琴、ではなく琴を担いだ小柄な男。
「来た来たっ」
「今日は白麻地に竹の模様だ、涼しげだねぇ」
「後ろにまた腰巾着がくっついてやがるなぁ」
お艶がこの先の菓子屋に寄るのは、三日に一度の茶の稽古の前と決まっている。時はだいたい四つ時過ぎ、遅くて五つ、菓子屋へ行くにはこの一本道だから、必ずここを通りがかる。そうなると、この通りはまるで俄道中の有様で、若い男達は恥じらいも無く通りに鈴なり、年かさの番頭などはさすがに通りには飛び出せなくて、店の奥から眼鏡をずらして、必死に目を凝らす。お艶は構わず、足早に通りを過ぎていく。彼らはどうせ、自分にちょっかい出すほどの度胸は無い。言うなれば、道端の草木のような存在だった。お艶が歩く度に、その身を包む布地に描かれた、細い竹の絵が揺れる。それにつられて、男達の目も揺れる。風に吹かれて裾からおみ足でもこぼれれば、たちまち風を押し返すほどのどよめき。
「たまんねぇなー、あれでまだ十四だろう?」
「ありゃ姐の薫よかいい花魁になるぜ」
「こりゃあ、夏の新造出しが楽しみだな」
「へぇっ、そんなものがあるのかい」
「おめぇそんなことも知らねえのか、あんまり仕込がいいもんで、来年のはずだった新造出しが繰り上がったんだ」
男達は口々に好き勝手なことを言う。かしましいのは女の特権と、さぞしたり顔で言い置いて、実際男も随分うるさいもんだと、お艶は脂下がる彼らの顔をちらと見て、そのまま菓子屋の暖簾をくぐる。
「ちょいと邪魔しおす」
と、奥に呼びかけるや否や、ばらばらと三人の手代が店先に飛び出してきて、
「こりゃお艶さん、いらっしゃいまし」
「何差し上げますか」
「今日は羊羹がよく出来ております」
そんなことをほぼ同時に言い出すものだから、ほとんど聞き取れない。お艶は愛想笑いと本当に可笑しいのと半分混ざって微笑むと、
「練り切りと、葛饅頭を、二っつ包んでくんなまし」
こう見渡せば、我先に菓子を包み出す。お艶の周りは、だいたいいつもこんなふうだ。これでは笑えと言われずとも笑ってしまう。その度に、
「まず笑え」
そう薫が自分に言った言葉を思い出し、笑顔は易々と出すものではないと思い直して唇を引き締める。
「へい、おまちどお」
「どうぞお茶でも」
「そこへおかけなさいまし」
菓子折りを十も二十も買う客でもないのだからと断っても、だいたいいつも無理矢理店先に腰掛けさせられる。そうなると滅多なことでは帰さないと言わんばかりに、あれやこれやと話しかけてきた。
「お艶さんももうすぐ新造出しだねぇ」
「引込みになったのがつい一昨年なのに、もう新造とは大したものだ」
「祝儀の菓子には、ぜひうちの店を使ってやって下さいまし」
雨霰と降る言葉を受け流し、お艶は傍らの湯呑みをついと取り上げ、そのまま静かに一口。白い喉がこくりと動き、茶を飲み込む。そうしてまた湯呑みを置くまで、まるで一つの舞いを見るように実に滑らかで、寸分の無駄も無い。その一挙手一投足が、男の目を惹かずにはいなかった。
「お艶さん、そろそろ五つですが」
店を取り囲んでいる男達に押され、軒先で小さくなっていた伍平が、この時ばかりは背筋をうんと伸ばして得意げに呼びかける。
「そうだね、ならもうそろそろお暇しんすか」
こうお艶が立ち上がると、伍平のところに店の内からも外からも、責める視線が矢のように襲い掛かる。
「あ、お艶さん」
「どうぞこの羊羹」
「持って行って下さいな」
まるで芝居の割り台詞のように、店の三人が綺麗に言い分けたものだから、お艶はすまし顔も忘れて頬を緩めた。目の前に突き出されるのは、お艶が買った菓子の代の三倍はあろうかという目方の包み。さすがに素直に受け取れず、
「こんなに頂くわけにはまいりんせん」
「そうおっしゃらず。ぜひ見世の皆さんで食べて下せぇ」
「今日はとりわけ甘味の具合がよく出来ておりますんで」
返そうとしても決して受け取る気はないのだろう。やり取りが長引けば、それだけ稽古に行くのが遅くなる。お艶はそこで目を上げて、
「わっちは乞食ではありんせん。ひと様に、ただ物をもらうわけにはまいりんせんのさ」
こうじっと手代の一人を見れば、途端に三人一斉に黙り込む。ここでもう一つ押せば、きっと彼らは黙って引き下がるのだろうが、それでは彼らも面が立たないだろう。お艶は懐から、先程検校の若弟子からもらった手拭を取り出し、
「それじゃ、この手拭を差し上げんしょう。したらば、わっちもただ貰ったことにはなりんせん」
ここで決めるとばかりににっと笑って見せれば、途端に三人喜色満面で手拭を受け取り、
「へぇ、そうしてもらえると手前どもも有難い」
途端に手拭を引っ張り合うので、それを後ろに、お艶は菓子包みと風呂敷を抱えて店を後にした。この紫苑色の手拭、この後店の連中だけでなく、周りを取り巻いていた男達に寄ってたかってばらされて、端切れになったものをそれでも皆喉から手が出るほど欲しがったとか。
「お艶さん、いいんですかい」茶の師匠の元へ行く道すがら、ぽつりと伍平が問うた。「ありゃあそこの若師範がくだすったもんでしょう」
お艶は応えず、黙々と風の中を歩いていく。どこかで、心太を売る声が眠たげに聴こえる。
「伍平どん」しばらく歩いてから、唐突に立ち止まってお艶は「琴が重かろう。わっちは茶へは一人で行くから、先ぃ見世へお帰り」
こう言い出したものだから伍平は慌てて琴を軽々と背負いなおすと、
「へ、いや」少しも上がらぬ息の下で応える。「こんなん見た目はごついですが、へぇ、軽いモンです。それより、お艶さんを一人にしたら、女将さんになんて言われるか」
「わっちが帰したと言えばいいだけのことさ。今は随分日も長いから、心配ない。いいからお帰り」
「いやぁしかし」
「いいから、お帰り」
そう、じっと伍平を見つめたその目は、かつて男達をじろりとねめつけた、「しをん」の頃の瞳であった。愛想笑いという皮を被ってはいても、牙は少しも鈍ってはおらず、むしろそれは更に鋭く研ぎ澄まされている。伍平はもうそれ以上何も言えなくて、俯いて見世の方へと歩き出した。
「ああ、ちょいと」お艶はここでまた笑みを浮かべて、「これ、女将さんに分けたら、後はおまえさんがみんなお食べ」
こう懐に、先程の菓子包みを差し込んでやると、途端に伍平は萎れた青菜が甦るが如くにぱぁっと顔を明らめて、何度もぺこぺこお辞儀をするものだから琴がずり落ちそうになった。そうして伍平の姿が四つ角を曲がって見えなくなった頃、お艶はふと懐を探ると先程の結び文を、道端の溝にぽいと放って、かちゃかちゃと足音高く歩き始めた。
〝稲光のような、ああいった強く、鋭い閃光が見えるんですじゃ――〟
検校の言った言葉が、胸の中でこだまする。
(やはり、わかる者にはわかってしまうものなのだな…)
向かい風を受けるその瞳はもう、少しも笑ってはいなかった。
「お艶、遅かったじゃないか」
勝手口からこっそりと帰ってきても、すぐに遣り手に見つけられる。
「伍平を先に帰したりして、何かあったらどうするんだい」
「そこまで、お光さんと一緒に帰ってきんした」
「お光? あの竹乃屋の引込みかい。あの師匠んとこは商売敵が多いんだよねぇ…」
遣り手は、湊屋が馴染みにしていた宗匠を嫌って、お艶が別の師匠に通ったのが気に入らないらしい。その尽きぬ愚痴を聞いて、台所で茶漬けをかっ込んでいた遊女が二人、訳知り顔で面見合わせる。お艶がその二人をじろりと睨むと、二人は慌てて茶碗に顔を突っ込んだ。
「それでも、お稽古は前の師匠よりかよほど筋が通っておす。わっちゃ何の不満もありんせん」
こうぴしりと言い置くと、お艶はさっさと梯子段を上がっていった。遣り手は一言も返せず、お艶の去った方に向かって舌打ちした。
「あのばばあを黙らせるなんて、さすがお艶じゃの」
「それにしても、お艶はなんで茶の師匠を変えたんじゃ。今の耄碌じじいより、若くて二枚目の宗匠の方がよほどいいのに」
「その二枚目が問題じゃ、茶の稽古にかこつけて、お艶をあの手この手で口説いたとか」
「そりゃ、何の稽古だかわかりゃしないわなぁ」
高い笑い声が響いた後に、遣り手の怒声が飛び、再び階下は茶碗に箸が当たる音だけになった。お艶はその音全てを聴きながら、いい気なもんだと廊下を歩く。前の師匠だった若宗匠、粋に若草なんぞを着こなし世間じゃ随分人気があったようだが、取り澄ましたその身を躍らせて、自分に強いて迫ってきた時の表情は忘れ得ない。咄嗟に転がっていた棗を投げ付け、ようようそこは逃げおおせたが、その後もしばらく日に何通も文を送ってよこしたので、そのことは見世中に知れ渡ってしまった。
(馬鹿らしい、男なぞ、よほど後の始末が悪い)
「お艶」
「何じゃ」
嫌なことを思い出していたせいか、つい無愛想に返事して、振り返った先は竜吉だった。その仏頂面に、かえって笑う竜吉。
「なんだ、しけた面ぁして。女将さんが呼んでる、早く行け」
「…あい、」この男は、どうも苦手であった。「姐さんに挨拶したら、参りんす」
そう目を伏せてすれ違おうとして、ふと、ある香りに気付いた。それは男には無い香りだった。
「竜吉っつぁん」
「なんだ」
振り返ってぎくっとした。久しく見ない、冷ややかな「しをん」の瞳がそこにあった。
「潮の香りが随分きついようだから、着物を換えた方がようおすよ」
そう言い捨てると返事も待たずに廊下の向こうに去っていった。竜吉は咄嗟に自分の袖を嗅いで、
「潮の香り…か」品川は、海辺の岡場所だった。「あいつ、随分鼻が利くじゃねぇか」
年を経ても未だ変わらぬお艶の潔癖さに、竜吉は思わず微苦笑した。
襖をすっと開けると、薫は菖蒲を生けているところだった。入日指す座敷の中で、濃紫の花を透かして見る薫は危うげで、お艶の胸は思わず知らず掻き乱れる。
「姐さん、只今帰りんした」
大声を上げれば崩れてしまいそうで、お艶はそっと呼びかけた。
「ああ、よくお帰りだね。どうだいお艶、今年はもうこれきりだそうだよ」
菖蒲の花を愛しげに見つめて、薫はそっと微笑んだ。紫を好む薫は、いつも何かしら紫の花を部屋に生けていたが、ことに菖蒲はお気に入りだった。だが遅咲きの菖蒲はどこかもう弱々しく、青々とした茎は野に生えるそれよりよほど頼りなげだった。それは薫の姿に似通っていて、それを手に持つ薫の笑顔も日に溶け入ってしまいそうだ。
「姐さん、今日はお琴とお茶でありんした」
何か話しかけていないと、不安でたまらなかった。
「そう、検校は随分おまえを褒めているそうじゃないか。わっちも鼻が高い」
ぱちりと、鋏で茎を断ち切る指は以前にも増して白く、紫紺の静脈がはっきりと浮いている。
「…とんでもございんせん、検校は姐さんの琴を殊の外褒めておられんした」
「そうかい」薫の目は動かない。「それよりおまえ、ご内所が呼んでいるのだろう。わっちのことはいいから、早うお行き。挨拶だって別にいらないんだよ、おまえはもうわっちの禿ではないのだから」
こう言われる度に、お艶の胸はきりきりと痛む。確かにお艶はもう「しをん」ではない。薫に始終くっついていればよかったあの頃とは違い、身はお内所に預けられている。それでもお艶は、何かと理由をつけては薫の元に顔を出した。わかばやよつばに、薫の様子を訪ねたりもした。薫は何も変わりは無いという。
「ただよく、文を書いておりんす」
わかばは年を経て益々間延びした声で、こう答えた。
「文? 文を書くのはおいらんの仕事じゃ、当たり前だろう」
お艶の新造出しの費用は、姐女郎の薫が一切負担する。それでなくとも物入りの花魁、客に無心の文を書く姿など珍しいことでもない。
「あい。ただの文ならそうでおす。ただおいらんは、文を書いても出さないことがようおす。わっちもよつばどんも、届けるように頼まれない文がありんす」
そう聞いた時から、お艶は益々頻繁に、少なくとも日に三度、朝と、昼と、夕には、必ず薫の様子を見に行くことにしていた。薫は確かに一見、変わったところは何もない。しかしそれは飽くまで「見た」だけの印象だった。見えぬところで、様々なものが薫を蝕んでいるのが、お艶には視える気がして仕方なかった。
ご内所で手習いをしながら、暮れゆく空を見つめてお艶はふっと溜息を吐く。暮れなずむ空はさっき部屋で見た菖蒲のように濃紫に染まり、象牙色の群雲が西に向かって棚引いていく。お艶は客の目を惹きすぎるという理由で、張見世が始まると見世の表には出してもらえず、奥で稽古のおさらいなぞして過ごすことが多かった。
――薫はもう、以前の薫ではなかった。あの空の向こうかいずれは知れぬ、どこかにその心が飛び去ってしまい、今の薫は全くの抜け殻なのだ。表面上は、確かに以前――凛三郎と出会う以前のように、客扱いが厚く、それでいて決して媚びぬあの薫に戻ったかのようだった。しかし、そこに魂は籠もっていない。その目は、ひいなの目のように熱が無く、顔は白磁のように生気が無い。粋人通人の馴染みにはそれが伝わるのだろう、山﨑屋はこのところご無沙汰だというし、薫の馴染みは最近お艶の知らぬ顔ばかりになった。
「遅くなったね、お艶」
襖を開ける音と同時に、女将の入ってくる音がした。お艶は筆を置くと、下座に退いて女将を迎えた。
「よく書けてるじゃないか、どっちが手本かわからないね」
女将は文机の上に散った、お艶の手習いを眺めて満足げに微笑んだ。似るのは道理で手本にしている草紙は、能書家であった浮舟花魁のものであるのだが、お艶自身はそれと知らず、ただ気に入った字だからと写しているのだった。
「呼んだのは他でもないのだよ」女将は煙草盆の前に座った。「おまえにいいものが届いているから見せようと思ってね」
女将がぽんぽんと手を叩くと、竜吉が桐の長持を持ってきてお艶の目の前に置いた。中には畳紙が入っている。
「開けてご覧」
畳紙の紐を解くと、目に飛び込んできたのは鮮やかな紫。よく見ると表面に銀糸の細かい刺繍が施されている。思わずお艶が顔を上げると、女将は鉄漿を見せてにやりと笑い、
「見事だろう、今朝がた山﨑屋のご隠居から届いたんだよ」
その着物の意味するところは、つまり新造出しの費用を山﨑屋が肩代わりするということだった。
「薫に愛想を尽かしたと思っていたのだけど、まったくあのご隠居も何を考えているのやらねぇ。でもお艶、おまえは運がいいよ。あのご隠居に気に入られたら、まず銭金の苦労は無くなるのだからね」
お艶は何も応えず、なめらかな紫の地に指を滑らせた。染めも見事な縮緬で、贅沢な代物であることは一目瞭然であった。
「そこで思いついたんだがね」女将は文机から草紙と筆を引き寄せる。「新造になってからのおまえの名前だ」
ここで女将はさらさらと草紙の上に走り書いた。決して達筆ではないが、流れるような筆遣いだった。そうして出来上がった草紙を、お艶の前にすっと出す。「小紫」の二文字があった。
「小紫。どうだ、いい名前だろう。その着物羽織って仲ノ町を歩き、茶屋や各楼に挨拶回れば、湊屋の名も上がるというものだよ」
小紫。それはかつて、若藤や、あるいは薫が、新造出しの時に名乗りたがり、女将が許さなかった名跡であった。竜吉は傍らでそのやりとりを聞きながら、それほどの名を与えるということは、女将がどれほどお艶に多くを期待しているかを察し、そしてそれを眉一つ動かさず、むしろ他人事のように飄々と聞いているお艶の姿に、複雑な思いを抱かざるを得なかったのである。
座敷の賑わいが、ご内所まで聴こえてくる。今日も夜見世は繁盛で、ことに薫なぞは座敷から座敷へ渡り歩いていることだろう。竜吉は頃合を見計らって見世の表へと去ったので、その後二人の間で何が話されたのかは知らない。