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雛いちもんめ  作者: 緋川 桐子
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第二章 紅 ③


 女将が薫に何と言ったか、薫がそれに対し何と答えたか、知る術はない。だが竜吉は、その様子が容易に想像ついた。女将のことなのだから、きっと怒鳴り散らしはしない。その代わりあの凄みの効く目でぐっと睨み、静かに、だがきっぱりと、最後の警告をしたに違いない。薫は、やはり是とも否とも答えず、目を伏せたまま黙って飲み込んだのだろう。あの時、しをんを任された時の表情と、寸分違わぬあの静謐さで。

 凛三郎はそれから暫く、湊屋に現れなかった。薫も、別にそれを気に病むでも無く日々を繰っていた。そうこうする内に、秋が深まった。何かと物入りな紋日に備え、薫はほうぼうに文を書く頻度が高くなった。黙々と文机に向かう薫の姿はどこか影が薄く、その姿を見る度にしをんは一抹の不安が胸の内をよぎっては、きっとすぐに元に戻る、とそれを打ち消した。

 その日はからりと晴れ上がった晩秋の青空の下、廓では火防ぎのための蜜柑が庭に撒かれた。秋の日をそのまま写し取った様な鮮やかな橙が、霜降りの黒々とした土に散らばる様は何とも壮観で、禿も新造も皆我先にその蜜柑を集めて回った。しをんもこの日ばかりは、凛三郎の出現以来張り詰め通しだった気を、久々に緩めて我を忘れて蜜柑を集めた。そうして駕篭いっぱいに集めた蜜柑を、喜び勇んで薫に届けにやる。甘酸っぱい香気が、薫の気鬱を癒してくれるような気がして、大階段を登る足取りも次第に速まった。

「おいらん、見てくんなましこの橙、わっちとわかばどんとでどっさり拾いんした――」

 だが薫が畳の上にだらしなく広げて夢中で読んでいた文を見るなり、しをんの笑顔はたちまち消えた。その癇の強そうな尖った筆跡()には、はっきり見覚えがあった。それを眺める時の、薫の何とも言えず嬉しげな顔にも見覚えがあった。そして草紙の端に捺された花押にも……

「おいらん、何を見ていなんすか」駕篭を持ったまま、蒼ざめて突っ立つしをん。「それはあの侍の文ではありんせんか」

 薫のこめかみがぴくりと動いたのを、しをんは見逃さなかった。

「おいらん、その文をどうしなんすか。それに返事を書きなんすか」

 その時顔を上げた時の薫の表情は、これまでしをんが見たことの無いものだった。顔は本当に蒼ざめ、血の気が全く引いていた。穏やかな目元が驚くほど鋭い光を湛えている。それは怒りを宿した顔なのだが、しをんはそのような姐の表情を知らないでいたので、更にまくし立てた。

「そんな文、わっちは届けんせん。わかばもよつばも同じでおす。そんなもんが女将さんに見つかったら――」

 そこから先の言葉は宙に飛んだ。駕篭が吹っ飛び、蜜柑が座敷にごろごろと転がる。しをんは咄嗟には、何が起きたのか理解できなかった。そして頬の痛みに初めて人心地がつき、口の中の血の味で、自分が張り倒されたことを知った。薫を見上げる。さっきの弾みで脱げたのだろう、上着が片袖滑り落ち、髷からは幾筋もの後れ毛。しをんを見るその目は凍るように冷たく、ゆらりと佇むその様は、なぜだか幽霊にも似ていた。しをんは何も感じなかった。むしろ感じることが出来なかった。こんな姐の姿を見るのは初めてだし、姐がこんなことを自分にしたのも初めてであった。その状況が受け入れられず、ただ一言も発せずぽかんと薫を見上げる。

「その猫のように強情な目」その目を見据え、「浮舟姐さんにそっくりじゃ」

 低い声でこう言い捨て滑り落ちた上着を羽織り直すと、薫はそのまま次の間に引っ込み、ぴしゃりと襖を閉めた。その衝撃で、畳の上の蜜柑が一つ、またごろりと転がった。


 薫が秘かに凛三郎に文を書いていることを、しをんは誰にも話さなかった。話すどころか思い出すだけで、あの時の薫の様子が甦って、自然と背筋に震えが来たのだ。文だけ交わしていても何もなりはしまいと、子供の甘さで思い込んだこともあった。

 事実、その後も特に変わったことはなかった。薫はいつものように務めに励んでいたし、馴染みから文句が来ることもめっきり減った。酉の市が過ぎ、師走に入る頃には、凛三郎の噂など誰もしなくなった。

「お休みをいただきとうございんす」

 薫がこうご内所に申し出たのは十三日の煤払いが迫り、楼内も慌しくなっていた頃だった。

「こう冷えると月のさわりがどうにも重くて、辛うてかないんせん。お座敷をしくじるやも知れんせんので、どうぞ今日一日床に就かせてくんなまし」

 遣り手は決していい顔はしなかったが、女将は先だって情夫と割かれたばかりで、またこのごろは年の瀬に備えて無心の文の書き通し、ここで無理させると今度は紫鉢巻頭に垂らすなんてことになり兼ねないので、そこは情けと身揚がりを許した。女将の方とて、いくら見世のためとは言え、生木を裂くような真似をしたことへの負い目もあったのだろう。

 そんなわけで今朝から薫は奥の間へ引っ込んだきり、禿達ですら寄せ付けずにひたすら臥していた。折しもその日はこの年一番の冷え込みで、庭一面雪かと思えば霜柱、禿達ははしゃぎながらわざと草履で庭に出て、さくさくと霜を踏むのを楽しんだが、大方の女達は火鉢にかじり付いたまま、出がらしのお茶を沸かし直して回し飲んでいる。しをんは火鉢から少し離れたところで、さぞ寒そうに縁側で縮こまっていた三毛猫をと捕まえて抱きかかえていた。この寒さのせいか昼見世も閑散としたもので、この分じゃ夜見世もたかがしれている、いっそ誰かが惣仕舞いにしてくれりゃ、わっちらも掻い巻きにくるまって寝てられるのにのうと、笑い合って暖を取っていた。

「こりゃ今夜あたりちらつきだすやもしれねぇな」

 蝶足膳を肩に担いで、竜吉が鈍色の曇り空を見上げる。三毛猫を抱えたままのしをんも、つられて隣で空を見上げる。その背は去年よりもずっと伸び、顔立ちも徐々に大人び始めている。初めて出会った時は竜吉の腰の辺りまでしか無かったのに、今は肩の辺りまで届いている。これがもう少し伸び、髪を島田に結いなおせば、さぞかし姿のいい新造になるだろう。年が明ければ引込みになって、今までも齧っていた様々な芸事稽古事を、今度は本格的に仕込まれる。そうなれば今までのように薫につききりというわけにはいかなくなるのだ。しをんはさぞかし寂しかろうと、竜吉はその横顔を眺めて考えた。幼い頃から見てきたせいか、しをんが考えていることはあらかたわかったが、それでも時折読めぬ表情をしていることがあった。自分が客だったらば、そこにきっと惹かれたに違いないと我知らず思った。

 その日の夜見世は道中も無く、張見世も何だか冴えないものだった。まず通る人皆、寒さに負けてほとんど足早に行き過ぎる。()そや行灯の明かりも、この日はどこかうすぼけて見えた。

 それにしてもおいらんは大丈夫だろうか、と、しをんはついに禁を破って薫が臥せる奥の間に声をかけた。だが、返事が無い。よほど深く寝入っているのかと思ったが、どこか違う。そもそも、物音ひとつしないのはおかしくないか。考えたら、薫は朝餉も夕餉も口にしてはいない。

「おいらん、鍋焼きでも誂えましょか」

 そう声をかけても、襖の奥に虚しく跳ね返ってくるだけ。人の気配がしない。しをんは不安になって、思わずすっと襖を開けた。ところが、薫が眠っているはずの蒲団はもぬけの殻だった。はばかりでもいったのだろうか。そう思ってしばらく待ってみたが、一向に帰って来ない。不審に思い、蒲団を探ってみると、上掛けの下は冷え切っていた。これは相当の時間床にいなかった証拠である。まさかどこかで倒れていやしないか。それとも――

 最悪の事態すら、頭を掠めたがすぐにしをんは部屋に飛び出し、わかばを呼びつけて、

「おいらんがいない。わっちは一階を探すから、わかばどんは二階を頼む」

 そう言い渡すなり、梯子段を転げるように降りていった。(かわや)、湯殿、台所、広間、思い当たるところは皆探し、裏庭すら覗いてみたが、どこにも薫の影は無い。周りが心配するので、あまり大きな声で呼ばわれない。それでもうろうろとするしをんに、何人かの客が冷やかす声を掛けた。

「しをんどん」

 わかばの甲高い声が、上から降ってきて、しをんは首をぐいと上に向けた。吹き抜けの欄干から落ちそうになりながら、わかばがただならぬ表情で自分を呼んでいる。何か薫の身にあったのか。全身の血が引いた。そのまま大階段をめちゃくちゃに駆け上がった。蝶足膳を重ねて運んでいた若い者とぶつかりそうになり、悪態を吐かれても一向に気付かなかった。

「わかばどん」すっかり息が上がり、思うように言葉が出ない。「おいらんは」

「おりんした」

「どこに」思わずわかばの肩を両手で掴む。「どこにおりんすか。おいらんは、おいらん姐さんは」

「痛い」わかばは悲鳴を上げて、しをんの手を振りほどこうとした。「しをんどん痛いよう」

 しをんはその声に少し我を取り戻し、もう一度はっきりと問うた。するとわかばは途端に口ごもり、

「その…おいらんは」それでもしをんの形相に気圧され、「蒲団部屋におりんした」

 そう聞き終わるのが遅いか、しをんはもう蒲団部屋の方へ足を向けていた。部屋で臥せっていたはずの薫がそこにいることの奇妙さに気付かず。

「あ…しをんどん」背中に、わかばの声が聞こえた。「おいらんは、一人ではありんせん」

 途端に足が固まったが、それでもその足を完全に止めることが出来なかった。蒲団部屋は二階の奥、華やかな座敷の辺とは打って変わって、見るからに陰気な廊下の端にある。そんなところに、お職の花魁が潜んでいようなどとは誰も考えない。だが茶色かかった襖に耳をつけると、確かに薫の声のような音と、もう一人誰かの声が幽かに聞こえた。こんなものを見つけるなぞ、わかばはよほど隠れ鬼の名人に違いない。しをんは自分の目の前の部屋の中で行われていることに思い巡らせたくないあまり、そんなつまらぬ考えで紛らわせた。

「しをんどん、何をしていなんすか」

 素っ頓狂なまでに甲高い声が後ろでして、思わずしをんは自分の悪事が露見したかのように肝を冷やした。振り向くとそこにいたのはよつば、つい最近薫付きの禿として引き取られた少女で、年は五つかそこらだろう。愛嬌もあって器量もそこそこの子供だったが、地声が異様に高いことと、寝小便が未だに治らないのが玉に瑕だった。

「そこは蒲団部屋ではありんせんか。寒いから蒲団を取りにきなんしたか」

 全く棒読みの廓言葉が、廊下に響き渡る。しをんはその声を必死で止めようと、いつになくきつい口調で

「何でもない、そんなことより、早う向こうにお行き。さもなくば、遣り手からお仕置きだよ」

 こう口走ると、よつばは途端に顔を歪めて、大きな声で泣き出した。蒲団に粗相をする度に遣り手から尻を叩かれ朝餉を抜かれるお仕置きの恐怖が、よほど骨身に沁みていたのだろう。慌てて宥めようとしたが遅かった。よつばの泣き声は廊下中に響き渡り、それは他の遊女の部屋や、遣り手の部屋まで届いてしまった。

「一体なんだってんだい、耳がおかしくなっちまうよ」

 ふた昔前はいい女であったという風体の遣り手が、大きな足音を鳴らして近づいてきた。しをんは青くなった。ここでこの蒲団部屋を調べられでもしたら、薫がどういう目に遭うか、容易に想像がついた。そこでとにかく皆をここから追っ払ってしまおうと、しをんは必死に言い訳した。

「こりゃしをん、この忙しいのに妹いじめかい。もうすぐ十二にもなろうってのに」

「そんなんじゃありんせん、よつばがあんまり聞かん坊なんで、小言していただけでおす」

「んなこたぁ、あたしに任せておけばいいんだよ。全くこんなに泣かして、お客様の耳に届くだろう」

 よつばはまだ泣き止まない。しゃくりあげながら、

「だってしをんどんがあっちぃ行けってわっちをおどすんだよう」

 そうして涙でぐしゃぐしゃになった顔を遣り手に向けて、

「わっちはただおいらんが部屋にいないから、探してただけなのに」

「薫さんがいない?」遣り手の剃った眉の跡がぴくりと動く。「そりゃどういうことだいよつば」

 しをんはそれから先を必死で取り繕おうとしたが、遣り手は取り合わなかった。

「ずっといないんだよう。おいらん、きっと蒲団が足りないから取りにいったんだ、さっきここに入っていったもの」

 その途端、大身を揺らして、遣り手は恐ろしい勢いで蒲団部屋の襖を開けた。ああもうお仕舞いだ、しをんは目の前が真っ暗になった。わかばはこの様を見て、蒼ざめてがたがた震えている。よつばばかりが、自分が仕置きに遭わずに済んだと嬉しげだった。蒲団部屋の中に、薫はいた。その傍らには、黒頭巾を被った男――そこから覗く()()だけですぐにそれと知れる凛三郎。遣り手はその前に仁王立ちになり、いきなり煙管で薫を殴りつけた。そうして(もとどり)を掴んでずるずると部屋から引き摺り出す。引き出した所を、いつ駆けつけたか若い者が二三人、細帯でぐるぐるとふん(じば)り、裏梯子の方に引っ立てていく。その後で何が行われるかはわかりきっていた。見慣れた光景でも、それでも廓の人間なら誰しも血を凍らす場面だろう。

「おいらん、おいらんっ!」

 しをんはそれへ我も忘れて駆け寄ろうとする。その襟首をぐいと掴んで止める者。きっと振り返ると竜吉である。

「いやだ離せっ」

「やめろしをん、ああなっては誰も止められねぇ」

 それでもなお暴れて仕様が無いので、竜吉は仕方ないという表情でしをんのみぞおちの辺りに拳をめり込ませた。しをんは薫の名を途切れ途切れに呼びながら失神した。


 はっと目が覚めると元の部屋。あの喧騒から救わんと竜吉が運んだのだろうが、そんなことはどうでも、薫は一体どうなったのか、そればかりが気になって部屋を飛び出した。竜吉がいた。

「やっぱり出てきたか」

「おいらんはどこ」

「そんなこと聞いてどうする」

「おいらんは」竜吉の声など聞こえない。「おいらんはどこだっ」

「…裏庭だ。だがおめぇは行かない方がいい」

「なぜ」

「なぜ?」竜吉も簡単には退けない。「おめぇここに何年居る。つきだしの情夫なんか引っ張り込んだら、ただじゃすまねぇ。それはお職だっておんなじだ」

 だがそれを素直に受け入れるしをんではない。竜吉は溜息吐いて

「…それでもいいってんなら、行け。だが覚悟はしとけ」

 後ろの言葉は、もう聞こえなかった。

 裏梯子を降りると、何やら不吉な水音が聞こえてくる。ばしゃり、ばしゃりと、間断なく水の跳ねる音。あれは何だ。しをんはその音の激しさに、思わず足を緩めた。なにやら人の怒鳴り声がする。男の声も女の声も混ざってる。なぜだかいきなりは出ていけなくて、裏庭に出る勝手口をそっと開け、その隙間から覗き込んだ。

 それはおよそ覗きカラクリの中の出来事のように、目の前で起こった現実とは到底思えなかった。木にくくりつけられ、髷も何もかもざんばらに散った女に、男が二人がかりで桶の水を浴びせる。女は悲鳴を上げる間もなく、水の勢いに襟もすっかりはだけ、はやもうぐったりし始めている。こちらに太い背を向けているのは、あれは遣り手だろう。その女をただ黙って見下ろしている。

「この女狐が、え、よくも月のさわりなどと大法螺が吹けたものだよ。さすがは女郎だ」

 遣り手の野太い怒鳴り声は、庭木を震わすほどに響く。

「だが今日という今日は容赦しない。お職だ花魁だとちやほやされて、腑抜けた根性叩きなおしてやるよ」

 その声が夜気に消えるか消えないか、女は水の応酬で気を失った。とたんに若い者が髪を掴んで女の顔を二つ三つ叩き、正気づいたところにまた水を浴びせる。その顔を見て、初めてそれが薫であることを、しをんは知った。今にも飛び出して姐をかばい立てたくとも、足元が固まって動かない。それは寒さのせいだけでは決して無い。初めて目の当たりにした廓の折檻、しかも受けているのが自分の姐、しをんはその事実だけでその場に昏倒しそうだった。

(それもこれも、あの男が)

 見世を仮病で休んで蒲団部屋で忍び会うなど、そんな愚かな、危うい真似をしてまであの男に逢いたかったのか。そうして露見してこの寒空で水攻めに遭い、それでも薫はあの男を憎まないのか。

(それにしても、あいつはどこに)

 情婦がこんな目に遭っているというのに、とうの凛三郎はどこに消えたのか。まさかおめおめ逃がしはしないだろう。どこかの行灯部屋にでも押し込められているか、小突き回された挙句に戸口からおっぽり出されたか、もしこの楼内に残っているならこのままただで帰すものか、わっちが(かたき)をとってやると、しをんはそう考えると急に足が動いて、また梯子段を上がっていった。


「本来ならああたは桶伏にしての晒し者か、よくて戸口からおっぽり出されるもの。ご生家にははっきりと、『あの者は勘当の身ですので外で何をしようともこちらとは一切関わり無く、またどのような仕置きを受けても縁を切った者ゆえ全く差し障り無い』と、そういうご書状を頂いております。あなたをここでどうしようと、手前どもの勝手。しかしあなたの元のご身分に免じて、今日はここに一晩過ごしてもらいましょう。そして二度とこの里に足を踏み入れぬよう」

 蒲団部屋から更に狭い行灯部屋に連れてこられ、女将にこう釘を刺された凛三郎は、そのまま有無言わさず軟禁となった。これがただの男であれば、もっと酷い辱めを受けたであろうが、薫が折檻で対する男はこれなどと、女将の処分は甘すぎると楼内は不平不満だらけだった。しかしこの部屋に入れた訳はちゃんとあり、というのもここは裏庭に面した奥の部屋、薄い壁を通して、折檻される薫の悲鳴と水攻めの音が絶えず聞こえるという造りであった。いかに気丈な男でも、情婦の悲鳴を聞かされたままの軟禁はさすがに堪えるに違いない。

 しかし当の凛三郎はと言えば、どこに隠し持っていたか小さな瓢箪(ふくべ)から、これもどこからくすねてきたのか小汚い湯呑みに移して手酌酒、こんな状況下でも直接瓢箪から呑まない辺りはさすが洒落者という風情だが、その平然とも自棄ともつかぬ態度は、襖の隙間から覗いていたしをんの足を怒りで震わすに充分であった。

(女将さんが言っても、姐さんは耳を貸さなかった。わっちの言葉も、姐さんには届かなかった)

 地べたと変わらぬほどの床の冷たさに、足の裏がじんじんと痛む。

(もうこうなったら、あいつを直接どうこうするしかない)

 十そこそこの子供が意見してどうにかなる相手なら、ご内所も苦労はしないのだろうが、そうでもしなければ腹が治まらぬ。しをんはぐっと息を呑むと、一気に襖をがらりと開けた。

 襖の物音にも、凛三郎はちらと一瞥しただけで相変わらずちびりちびりを止めない。構わずしをんはずいと部屋へ一歩入ると、後ろ手に襖をしっかり閉めた。

「おいらんの大事に、よう御酒など平気で召し上がりんすな」

 初手からびしりと喰らわせたつもりなのに、凛三郎はやはりいつもの不敵な笑みを浮かべて、

「平気なわけが無いだろう」酒を呑む手は止めない。「惚れた女が折檻されるのを肴に、自棄酒でも呑まずにいられるか」

 思わず昂ぶる感情を、しをんは必死に抑えた。ここで声を荒げては、負けだ。

「惚れてなどおりんせん」ありったけの憎しみと厭味を籠めて、「ぬし様はおいらんに惚れてなどおりんせん」

 相手にぶつけてみても、声は狭い四方の壁に虚しく当たるだけ。

「惚れてるさ。でなくばこんな危ない橋をのこのこ渡って来るものか」

「いんえ。ぬし様はおいらんのお金に惚れてるだけでおす」

 ここで初めて、凛三郎は湯呑みを畳の上に置いた。

「がきに男と女のことがわかるものか。おまえは何を知っている」

「おいらんのことは、わっちがいっちよく知っておす」ここで初めて、しをんは凛三郎の対座に座った。「姐さんと別れてくんなまし」

 ここで響くは凛三郎の哄笑。壁や天井の四方八方にぶつかって、妙に憎らしく響き渡る。

「驚いたな。この()()は禿が客に意見するのか」

「ぬし様は客ではありんせん」膝に置いた手が次第に震えた。「かといって情夫(まぶ)でもありんせん。ただの、ただの、疫病神」

 ここで激昂でもしてくれればいいのに、凛三郎は一向にその笑みを崩さぬ。この何にも物怖じせぬところに、薫は惚れたのか。並み居る上客、その身請け話、望み通りお大名のご内儀になれるやもしれぬ可能性を振り切ってまで、この男に惚れ抜いたのか。しかしどうしようもなく切ないのは、その薫をこの男は少しも愛してなどいないこと。それはもう、他の人間から見れば一目瞭然、たとい子供のしをんですら解ることを、なぜあの賢い薫は見抜けぬか。色恋とはそうしたものか。なんと酷い。なんと無体。しをんはそういう感情が胸から溢れてきて、どうしてもそれを当の凛三郎にぶつけずにはいられなかった。たとえそれが蛙の面に小便だとしても、薫のためにどうしてもせずにはいられなかった。

「なるほどなしをん、お前の忠義は大したものだ」凛三郎の黒い瞳が、鋭い光を宿す。「お前に免じて、身を退いてやっても構わぬと、そういう気にならなくもない。だがそれは、お前の姐女郎を苦しめることにもなるんだぞ。それでもか」

「疫病神と添い遂げれば、後の道は地獄のみ」しをんの手が、益々震える。「ぬし様さえおらなんだら、姐さんは」

 涙が出そうになるのを、必死で(こら)え、しをんは目を伏せる。行灯の明かりの下、白い顔に長いまつ毛が蔭を落とし、一瞬まともな女に見える。

 凛三郎の手がふと、しをんに伸びた。途端にずいっと、しをんは正座のまま二三歩後ずさった。凛三郎がふっと笑う。

「禿なら、まちっとましな逃げ方を覚えな」手を退くと、例の瓢箪を持ち出し、「酌をせい」

 いきなり何を言うかと、しをんは睨むことも忘れ、その瓢箪を凝視したまま動かなかった。

「どうした? お前は酌の仕方も知らんのか。そんなんじゃ、姐女郎の面に泥を塗るぞ」

 薫の名を持ち出されると、途端にしをんはむきになった。凛三郎をきっと睨むと瓢箪をひったくるように受け取り、そしてさっき退いた間合いを縮め、湯呑みに酒を注そうとした。

 その手を、凛三郎がぐいと掴んだ。一瞬何が起こったかわからず、しをんは手を引かれるままに凛三郎の方へ倒れこんだ。瓢箪が転がり落ち、零れ出た酒が毛羽立った畳に染みこんで行く。肩を掴まれ、顎をぐいと持ち上げられると、凛三郎とまともに目が合った。小暗い部屋の中で、刃のようにきらりと妖しく光る瞳。思わず知らず、目が逸らせぬ。凛三郎の顔が迫ってきて、初めて動けるようになったが時遅く、冷たい唇の感触が、自分の口にまともに覆いかぶさる。あの日の薫の口付けが、そしてあの朝の吸いつけ煙草の様子が、途端脳裏に駆け巡り、しをんは必死でもがくが容易に離れない。口の中に煙管の(やに)か、何か知れぬ苦い味が広がり、嫌悪感で満たされしをんは夢中で相手の唇を噛んだ。途端、相手がぱっと離れる。薄い唇から、赤いものが一筋。

「そういう手管だけは一人前か」

 そう言うが早いか、凛三郎はひらりと身を起こすとしをんの襟首を捕まえ、そのまま床にどさりと放り出す。しをん、起き上がる間もなく、男の身がどっかと背中に馬乗り、胸が潰れる思いがして思わず咳き込む口に、ぐいと咥えられたのは、何やら黒い布。男が被っていた黒頭巾を細長くしたものだ。そして手首もそのまま後ろ手に固定され、帯でぐるぐると縛られる。これは男の帯か。

 それは本当にさっき見た、折檻のさなかの薫によく似ていて、自分はこれから酒でもかけられるのかそれとも殴られるのか、とにかく男から逃れることばかり頭を駆け巡り、何とか入口まで這って行きたくても、この有様ではどうにも身動きが取れぬ。馬乗りになっていた男がのき、息苦しさが取れたのもつかの間、今度は仰向けにされて部屋の奥に平積みになっていた座布団の上に投げられた。よく人を投げる男だと、なぜだかそんな呑気な感想がちらと頭を(かす)めた。

「安心しな、商売物(モン)の顔に傷はつけない」

 だがそう言い放つ凛三郎の姿はとても安心できる代物ではない。頭はもう以前の細い髷の月代ではなく、今はすっかり浪人風に前髪が生え、後れ毛が惜しげもなく顔にかかり、帯を解いた黒羽二重ももう大分赤茶けている。帯刀はしていなくとも見るだけで人を斬るようなその瞳は、何やらしをんの知らぬ不吉な光で炯々と輝いていた。

「おめぇの姐さんが惚れてる男かどんなものか、」相も変らぬ笑みを浮かべ、「この身でよっく味わうといい」

 凛三郎に組み敷かれた時に初めて、しをんは我が身をこれから襲う事の意味を知ったが、もう全てが遅すぎた。

 瓢箪から洩れた酒の、安っぽい臭気が黴臭い部屋一面に漂っている。折檻の物音は、もういつの間にか聞こえなかった。


 寄る年波か、このところ具合の悪い番頭に代わって、帳簿の整理をしている内に、既にもう大引け過ぎだった。そうでなくとも、この夜は胸糞が悪すぎてとても早寝は決め込めないだろう。

 竜吉は自然背筋をすぼめながら、厠に行って帰るその道すがら、裏庭の方からかすかに響く水音を聞きつけた。薫の折檻が未だに続いているのか。いや、そんなはずはない。さっき朋輩たち数人に抱えられながら、濡れねずみの薫が蒲団部屋に戻っていく様を見かけたばかり。本来なら木にくくりつけたまま一晩明かすところを、さすがの遣り手もこの寒空にお職を朝まで放り出しておくわけにはいかず、部屋に帰すことは許さなかったが少なくとも屋根の下で眠る情けをかけてやったのだろう。それならば、こんな夜中に一体誰が。季節外れの幽霊かと、竜吉は薄気味悪さを覚えながらも、それでも見に行かぬわけにはいかず音のする裏庭へと向かった。

 そのさ中、首筋にふわりと当たる冷たいものを感じて、はからずもぞっと蒼ざめたが、すぐにそれは雪片だとわかった。

「なんでぇ、おどかすない初雪め」

 鳥肌立った腕をさすりながら、空に向かって悪態吐く。一瞬、水音のことを忘れたが、すぐにまた音を聞き、足を速めた。

 月も見えぬ暗闇、誰そや行灯の仄明かりと、部屋から洩れるほんの少しの明かりの中なのに、それでも自然に誰だか知れた。井戸端で水を使う人影は、しをんだった。行水という季節でもあるまいに、何かに憑かれたように必死で身体に水をかけている。

(あいつ、姐女郎の折檻を見て気でもふれたんじゃねぇか)

 本気でそんな考えが浮かび、竜吉は傍に駆け寄った。

「おい、しをん、一体何を(かんげ)ぇてんだこの寒さに――」

 そこまでで、言葉は止まった。しをんがこちらを見つけた時の、その瞳、黒目に宿る一切の光を失った、その目つきにまず目を奪われ、それから(まげ)が無残にほどけた乱れ髪を見、そしてしをんがしきりと水をかけるその辺り――腰の下から脚にかけてを見て、息が詰まった。肌襦袢からはだけた足についた臙脂色の擦り傷や、青痣、よく見ればそれは体中に、胸と言わず腹と言わず、顔を除くほぼ全ての部位に刻み付けられている。その身の上に何が起こったかは、一目でわかった。

「しをん…!」声を出すたび、息苦しくて仕様が無い。「おめぇそりゃ……」

 一体、誰にやられた。それ以上はかすれて声にならなかった。だがしをんはただひたすら、潔斎のように水をかけ続ける。竜吉の言葉が、風にさらわれ全く耳に届いていないかのように、まるで反応が無かった。

「しをん、やめろ」それでも全身の力を振り絞って、竜吉は駆け寄り桶を取り上げようとした。「やめろしをんっ…」

 しをんは桶を離そうとせず、無理に引っ張ったせいで竜吉は中の水をまともに浴びた。しかしここで止めなければ、しをんは本当に我が身が溶けるまでやり続けそうで、今度はしをんの手をぐいと掴んだ。

「あーっ――」

 その途端、しをんは獣のような悲鳴を上げて、竜吉の手を振りほどこうとした。竜吉も慌てて手を離す。桶は吹っ飛び、夜半に響く大仰な音で転がっていった。

 しをんはがくがくと震えて歯の根も合わず、足もまともに立たないのを、必死に支えているという風情である。それでもまたふらふらと、井戸に近づこうとする。

「やめろ、死にてぇのか」手を触れられないので、竜吉は必死で叫んだ。「そんなに洗いてぇなら湯を使え」

 しをんの動きが、ぴたりと止まった。ゆっくりと、竜吉に振り返る。その顔のあまりの蒼さに、しをんが生きた子供であることすら忘れそうになる。

「さっきみんなで、薫さんのために沸かしてやった湯が、まだ残ってる」

 しをんが身体をこっちに向けた。水の雫がぽたぽたと落ち、布地越しに裸体が透けて見えた。

「湯で洗ったら、落ちんすか」一瞬その声は、水の垂れる音に紛れて聞こえなかった。「これも、これも、落ちんすか」

 そう指で、首筋や、胸元の瘢痕(はんこん)を指し示すしをんを見て、竜吉は再び鉛を飲まされたように声が出なくなったが、

「ああ、少なくとも、水よりは」

 そうやっと言い置いて、しをんの肩に自分の半纏をかけてやると、先に歩かせて勝手口に向かった。台所には幸い飯炊き一人起きていない。竜吉は客用の大きな(たらい)に鍋に残っていたぬるま湯を満たし、手拭を数枚引っ掛けて、土間のところにぺたりと座り込んだしをんの傍に置いてやる。よく見ると、しをんは自分の足についた痣に、爪を立てて引っ掻いている。

「そんなことしたら、治るものも治らなくなる」手拭に湯を浸して絞ったものを、しをんに渡し、「まず血を拭いな」

 しをんは言われるままに、自分の足を、まるで廊下を拭き掃除するみたいに必死でこすった。何も手を出すことが出来ず、竜吉は傍にしゃがんだまま、膝下を冷気が通るがままに任せていた。

 どれくらい時が経ったのか。竜吉が汚れた手拭を洗いつつ新しいのを渡してやり、またそれが汚れたら新しいのを渡してやりしていて、いつの間にか湯もただの水に変わった。しをんは急に呼ばれたようにすっと立ち上がると、

「竜吉っつぁん」しゃがんだままの竜吉を見下ろし、「おいらんには何も言わないでくんなまし」

 それだけ告げると、足が痛むのだろう、危なっかしい足取りでよろよろと裏梯子を上がっていった。それだけでもう、全ての事情は知れた。

「本当に、それでいいのかしをん」しをんの姿が見えなくなって、竜吉はぽつりと呟いた。「それでいいわけがあるか…」

 しをんの座っていた所に、花のように広がった血の跡が、冷気の中に乾いていく。そこから目をそらして竜吉は、窓格子越しにちらつく初雪を眺めていたが、なぜだかふいに、その目の前の雪模様が曇っていくのを感じた。


 師走の十三日は煤払い。この日は見世を休みにして、遊女も新造も一緒くた、(あね)さん被りに浴衣掛けの装いで、はたきに箒に雑巾を、めいめい持っての大掃除。この年の全ての穢れを、一気に叩き出してしまえと言わんばかりに、禿もいつになく精出して掃除に励むのは、その後の祝いのご馳走と無礼講の楽しみゆえである。

 しをんはあの日からも、傍目には少しも変わった風を見せず、菓子袋の使い古しを頭巾代わりに被って薫の部屋の畳を一心不乱に拭いていた。皆が嫌がる拭き掃除を率先してやるとは、さすがしをんどんじゃのうと、朋輩の禿達は感心していたがその実、あの日以来足腰が痛んで立ち仕事は辛かったからだ。

〝お前は薫よりいい女郎になるぜ、しをん――〟

 畳の目に沿って雑巾をかけていると、頭の上からあの男の声が降ってくる。

〝この僥倖(ぎょうこう)に免じて、もうここには来ないでやろう〟

 そう恩着せがましく言い捨てて、それでもどうしても自分を呼びたくなる時が来る、その時はこの所番地に文を出せと、帰り際にしをんの手に無理矢理握らせた紙切れ、すぐに焼き捨ててしまおうとしたが、なぜだかそうするとあれに屈した気がして、しをんはわざとそれを懐にしまっていた。決して男への憎悪を鈍らせぬよう、怨嗟を決して薄れさせぬよう、その紙が当たる部分の胸が痛むなら、それは愛ゆえではなく恨みゆえの心中立てだった。

 そうやって阿修羅の如くしをんが拭き掃除に励む間に、日はすっかり高くなり、ご内所の計らいで昼餉に蒸篭(せいろ)の蕎麦が誂えられて一同は大はしゃぎ。匂いにつられて転がるように階段を駆け下りる禿達の中で一人、大儀そうに階段を一段一段踏みしめるしをん。これと反対に階下から登ってくる竜吉は、唯一その訳を知っている。

「これ」すれ違いざま、しをんの手に何かを握らせた。「朝晩傷口によく塗るといい。痕に残らず綺麗に治る」

 そのまましをんの目を見もせず、とんとんと登っていった。しをんが手の中を見ると、形のいい(はまぐり)。中身は蝦蟇の油の膏薬。それが竜吉にしてやれる、唯一のことだった。

 礼を言いそびれ、しをんは目だけで竜吉の去った階段を見上げていたが、男への憎悪が勝って唇を噛むと、しをんは痛む足も気にせず荒っぽく階段を駆け下りた。

――しをん、十一の暮れ。明くる翌年、引込みとなったしをんはその名を「お(えん)」と改め、ご内所の世話するところとなった。芸事と稽古事に対する並々ならぬ才気や、それを驕らず努力を重ねる姿はすぐにお師匠方の褒めるところとなったが、同時に子供離れした奇妙な色香も巷の評判となって、しばしば旦那衆なぞが稽古帰りのお艶にちょっかいを出しては、手痛いしっぺ返しに遭うという事件も相次いだ。それは彼女の、生まれ持っての業なのかもしれなかったが、同時にそれに決して屈しない(さが)を持ち合わせていたのもまた確かだった。そうして年々強く頑なになるその性は皮肉にも、彼女自身のそうした魅力に、益々磨きをかけていったのである。

……桐生凛三郎は言葉通り、その夜以来、湊屋には現れなかった。


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