序
この作品は舞台を江戸時代の吉原遊郭としていますが、実在の人物や出来事をモデルにしたものではありません。
時代考証などに多少の矛盾が生じている場合がありますがご了承ください。
相当に長い作品となりますので、気楽にお読みいただけますと幸いです。
序
長月も末だというのに、夜気の蒸す宵であった。通りに群れなす人々の着物は未だ単衣に羽織を引っ掛けたようなもの、ひどい人間になると腕まくりして団扇をばたつかせている始末。しかしそれ以上に暑苦しいのはこの人垣、もはやこの暑気が地の熱から来るものか、人の熱からくるものやら、さっぱりわからないという有様だった。
ここ不夜城・吉原は、いつでも人で賑わってはいたが、今日の賑わいようたるや尋常ではなかった。京町から江戸町まで隙間無く、まるで道端に生茂る雑草のごとくにひしめき合う人々、これ皆全て今日という日を見逃すまいと昼見世の時分から集まり出したのであり、吉原始まって以来の大賑わいではないかと遊女達は噂した。
通り沿いに蠢く人々の頭上に煌々と輝くは、ほうぼうの見世が贅を競って掲げた飾り燈篭、いずれ形は違えどそれぞれに小舟のような格好をしているのは、これが音に聞く「浮舟燈篭」である証である。「浮舟燈篭」とはかつて吉原一と謳われた名妓・浮舟花魁の早世を偲んで、旦那衆がめいめい提灯に舟の絵を描いて、浮舟を抱えていた湊屋に贈った事が始めと言われている。今ではそれが吉原中に広まり、浮舟の命日がちょうど彼岸に重なることからも、盆の提灯のように見世ごとに趣向を凝らした飾り燈篭を店先に掲げるのが、一種の慣わしになっていた。「浮舟」とはすなわち人々にとっては、お歯黒溝に囲まれ江戸から取り残された離れ小島のような吉原の、姿そのものを表す言葉にも思えたのだろう。
だが今年、今宵の浮舟燈篭は、名妓を偲ぶのとは異なる意味合いが籠められていた。それゆえにこの夜の浮舟燈篭は、例年にも増してより一層艶やかに、誇らかに輝いているように感じられる。その光にテラテラと頬を照らされながら、汗ばむ男どもの顔もどこか紅潮していた。人々の喧騒は今や最高潮に達している。
――と、次の瞬間、人声が一瞬にして止んだかと思うと、今度は吉原中が奇妙な静けさに包まれた。三味や太鼓の音曲が立ち消え、あれほど燦然と輝いていた燈篭の数々すら、その光を凝らせた様に見えた。ただ聞こえたのは、群衆の息を呑む音だった。
その女の名、浮舟。元の名は小紫。京町の大見世、湊屋源兵衛抱えの花魁。
さながら貴人に指しかけられたかのような、朱色の大傘の下、右に二人、左に三人の禿と、その後ろに続く無数の供を従えながら進み出てきた女は、今宵、名妓・浮舟の名跡を継いだ松の位の遊女である。
横兵庫に結われた黒髪を、後光のように飾り立てる笄、左右には珊瑚と銀のびらびら飾りの簪が、こめかみの辺りにチラチラと揺れ、女が動くたびに瓔珞を打ち鳴らしたような音が玲々と響き渡る。縹色の流水文様に宝尽くしの仕掛は、いささか遊女の装束としては異様で、まるで七珍万宝を水に投げ打てとでも言わんばかりの趣向である。だがそれら豪奢な出で立ちとて、女その人が放つ輝きを覆い隠すことは出来なかった。秀でた額に調った鼻筋、形佳く引き結ばれた匂いやかな紅唇。しかしまず人々はその眼に引き付けられたに違いない。切れ長の黒い瞳は決して何も見てはおらず、ただ思いつめたように中空を睨みつけていた。潤みながら媚びず、妖美にして冷厳。その眼を見た瞬間に、人々は溜息し、見惚れ、賛美の言葉を投げ掛けるよりもまず真っ先に、その場に平伏したくなる衝動を抑えることが出来なかった。女の瞳は、もはや太夫・花魁というより、丈高き姫君のそれであったのだ。
「お姫さまだ」
「なんと、新しい浮舟とは女郎じゃのうてお姫さまじゃ」
そんな声が、ほうぼうで囁くように漏れ、その場で跪くようにへたり込む人間も少なくはなかった。
(…そう、彼も、彼女も、それが望みだったのだろう。そして自分も、また。)
竜吉は、浮舟に肩を貸しながら、彼女に平伏する大衆を眺めてそう述懐した。
彼は道中のちょうど先導で、人垣の有様を見ていた。右肩には、その体を支えるために置かれた花魁の左手。静脈を浮かせた白い指は、か細くとも針金のようにがっしりと肩に食い込んでおり、彼は身の自由が利かない。だが、それがかえって心地よい。
振り向くことは許されないが、振り向かずとも竜吉には浮舟の顔がありありと浮かぶ。右肘を張る格好で人々を威嚇するように徐に進んでいく女の瞳には、ここにいる者達の誰一人として目に入ってはいないだろう。目も彩なる浮舟燈篭――彼女にはおよそ縁浅からぬその燈篭すら、夜空の星ほどにも彼女の目を留めはしないだろう。彼女の見つめるのはただ一人。今や宙宇に漂い、影すら残っては居ない彼の人だけであった。
(それでいい。それでこそ、おまえだ。しをん。)
肩の痛みを全身で感じながら、竜吉は自らの足元を見つめた。目の端に、外八文字を歩む浮舟の足取りが見える。吉原遊女の意地と張りを表した勇ましいこの歩みですら、彼女が行うと不思議な気品が漂っていた。足を外側に開く度に裾からこぼれる、緋縮緬の二布や白い太股すら、婉然と言うより神聖であった。その緋色に、ふと目が吸い寄せられる。
〝――赤、紅、朱…あかいろは好きじゃ。血の色に似ているから――〟
あれは彼女がいくつの時であったろうか。記憶は既におぼろげだった。
肩が疼き始める。
竜吉は自分の意識が朦朧とし始めたことに気付き、正気に戻るためにも、頭の中を整理しようとした。
……そう、あれは、自分がまだ二十四になるかならないかの頃。
生家の商売が潰え、二親が相次いで死に、大店の若旦那から一転して身寄りの無い風来坊になってしまった彼を、ただ一人拾ってくれたのがかつての馴染みであった湊屋の女将であった。惣花を振り撒いていた上客が、今度は客に叱られる役とはあまりな転落であったが、それでも臥煙か博打打にでもなるより他はなかった彼にとっては、まさに地獄に仏であった。元々成金であった商家の子、格式も品性もありはしなかった彼には、この里の水が思いの外合ったのだろう、最初の方こそ朋輩にも遊女にも「ぼんぼん妓夫」などと陰口叩かれ苛められもしたが、その働き振りと気取らぬ人柄からやがて皆から慕われるようになった。それはちょうどそんなふうに、新しい世界で徐々に自分の居場所が出来始め、そしてそれを守るために日々を必死に生きていた頃。
――そんな時、〝しをん〟は、唐突に自分の目の前に現れたのである。
目の前でチラチラと揺れる緋色を見つめながら、竜吉は回想の海へと沈んでいった。