黄昏時
気がつくと、あたりは紅に染まっていた。
起き上がって周りを見回してみるけど、誰もいなかった。
夕飯に行ったんだろうか。
ちょうどいい頃合いだし。
とりあえず、部屋を出る。
廊下を歩いていって、階段を降りて。
…ん?
玄関のところまで出ても、誰もいない。
それどころか、前の通りにすら誰もいない。
おかしいな…。
「黄昏時は不思議な時間。あなたは、この夕暮れに迷い込んだんだね」
「はぁ?」
「こんばんは。いや、まだこんにちは、かな?」
「響…?」
「わたしは響だけど、あなたが知ってる響じゃない。言ってみれば、もう一人の響。わたしは、あなたのこと、知ってるよ?」
「わけの分からないことを行ってないで、早く元の世界に戻せよ」
「この世界のことは信じるんだね」
「今ここにいるんだ。夢の世界でないなら、実際にある世界だろ」
「わたしのことも、信じてくれる?」
「お前が蜃気楼か、そういう類の何かじゃないなら信じる」
「ふぅん。意外と現実を見れるんだね」
「どうも。…意外ってなんだよ」
「面白い人だね」
「いいから、早く帰してくれ。腹が減った」
「もう…。せっかくの女の子との逢瀬なのに」
「初対面なのに、何が逢瀬だよ。こういうのは逢瀬とは言わない」
「んー。じゃあ、ひとつだけ、聞いていい?」
「早く言え」
響は少し考えるように周りを見回す。
そして、こっちを向いて。
「光のこと、どう思ってる?」
「みんな、それを聞くんだな」
「気になるからね」
「…まだ分からないよ。でも、確実に言えることは、光は俺にとって大切な人の一人だということだ。それが、好きだとかそういう感情になるかどうかは分からないけど」
「そっか」
「ああ」
「光には、そのことは伝えたの?」
「直接には言ってない」
「そう」
「急かしたりしないんだな」
「あなたのことは、あなたで決めたらいいと思うから」
「まあ、そりゃそうか」
「じゃあ、約束だから。目を瞑って。もとの世界に送ってあげる」
「いや、待て。この世界には、他に誰もいないのか?」
「ここは狭間の世界。いわば、橋なんだ。橋の上に住む人なんて、なかなかいないでしょ?」
「お前は、橋の住人なのか?」
「ふふふ。どうかな」
「…寂しくないのか?」
「優しいんだね」
「どうかな」
「…ずっとそうだったから。でも、今は響もいるしね」
「………」
「ね、お腹空いたんでしょ?帰ろ?」
「…そうだな」
さっき言われた通りに、目を瞑って。
…この世界で、独りぼっち。
なんで、もう一人の響だけが、そんな罰を受けないといけないんだろうか。
なんで…。
「あんまり他の女の子に優しくすると、光に嫌われるよ?」
「女の子一人守れないようなやつが、大切な人を守れるわけがない」
「えっ?」
意識が遠退きかけたその瞬間、もう一人の響の手を引いて抱き寄せる。
しっかりと、離さないように。
そして、そこで意識は途絶えた。
目が覚めると、相変わらず夕方だった。
ただ、さっきと違うのは、隣で光が寝ていること。
そして、もう一人。
「おい、起きろ」
「ん…?」
もう一人の響。
いや、今は響じゃない。
「えっ…?わたし、なんで…?」
「俺が連れて帰ってきたんだろ」
「なんで…。なんで、そんなこと…」
「お前、寂しそうな顔をしてたじゃないか」
「でも…そんなの…」
「迷惑だったなら謝る。俺は向こう見ずだから、どうなるかなんて考えずに行動してしまったけど。でも、自分がやったことは間違ってないと思ってる」
「………」
もう一人の響は俯いてしまった。
…あの世界に一人でいるならと思って連れてきたけど、響自身はどう思ってるんだろうか。
自分自身では間違ってないと思ってるとはいえ…少し不安だ。
「んぅ…。響…」
「お目覚めか、光?」
「あ、あれ?宿?な、なんで?」
「ミコトに散々引き回されて、帰ってきたときにはクタクタで眠ってたんだよ」
「えっ。じゃあ、ミコトは?」
「そこで寝てる」
「そう…。ところで、あなたは?」
「えっ?わ、わたし?わたしは…」
「……?」
「えっと…」
あてもなく、宙に視線を漂わせる。
もう一人の響…なんて言っても信じてもらえないだろうし。
いや、俺は信じたけど…。
でも、なんて説明したらいいのかな…。
「翔の、知り合い?」
「まあ、そんなところだけど…」
「ふぅん。わたしは、光っていうんだ。あなたのお名前、聞かせてもらっても、いいかな」
「わ、わたしの名前?えっと…それは…」
「あ、もしかして、聖獣さん?まだ、名前を、貰ってないの?」
「うーん…。どうなんだろ…」
「……?」
しかしだ。
初対面で、しかも無理矢理連れて帰ってきた俺が、まともに説明出来るわけもなく…。
響本人が来てくれたら一番話は早いんだけど…。
「まあ、いっか。翔、黒龍って、たしかクルクスだよね」
「えっ?…ミコトもそうだし、そうだと思うけど」
「じゃあ、クルちゃんだね」
「ク、クルちゃん…?」
「だって、名前がないと、呼びにくいじゃない」
「そ、そうかもしれないけど…」
「クルちゃん、よろしくね」
「よ、よろしく…」
光のマイペースに引き込まれ、ついにもう一人の響の名前はクルちゃんになってしまった。
響が知ったらなんて言うだろうか。
…いや、響はもう一人の響のことを知ってるんだろうか。
夕焼けの世界に行かないと会えないわけだし…。
そもそも、もう一人の響って何なんだ…?
夕飯の席。
なかなか料理が出てこないからと、ミコトがグゥグゥと行儀悪く喉を鳴らしている。
「お前、そういうことはやめろっていつも言ってるだろ?」
(だって、お腹空いたんだもん)
「行儀が悪いだろ」
(知らないもん、そんなの)
「とにかくやめろ」
(むぅ…)
今度は不満そうに、尻尾をパタパタと床に打ち付けて。
まったく、こいつは…。
「翔って、ミコトの、お兄ちゃんみたいだね」
「ん?まあ、そうだな」
(口煩いお兄ちゃんが二人もいて、嫌んなっちゃうよ)
「二人?まだいるの?」
「ああ。こいつの本当の兄貴で、薫っていうんだ」
「ふぅん」
「生真面目なやつなんだよ。ミコトとは正反対だ」
「会ったこと、あるの?」
「何回かな」
「どんな人?」
「そうだな…。今言ったように、生真面目で…生真面目なやつだ」
「へぇ…」
(薫お兄ちゃんなんて、五月蝿いだけだよ…)
「それは、ミコトのことを、想ってのことじゃ、ないかな」
(………)
「ね?」
(…そんなこと)
「ん?」
(そんなこと…分かってるもん…)
「うん」
光はニッコリと笑う。
ミコトはまた尻尾をパタパタさせてるけど。
…それにしても、響、遅いな。
どこをほっつき歩いてるんだろうか。
「クルちゃんは、兄弟とか、いるの?」
「え、えぇ?」
「兄弟なんていない方がいいよ」
「弥生。今の光とミコトの話を聞いてなかったのか」
「じゃあ、兄ちゃんは私のことを考えてくれてるの?」
「ああ。考えてるさ」
「ホントかなぁ…」
「弥生が何かヘマをやらかさないかとか、何か食べて腹を下さないかとか」
「ほら!そんなことばっかり!」
「そ、そんなこと、ないと思うけどな…。そんなこと、ないよね、翔?」
「さあな」
「もう…」
まあ、どちらにせよ、本人を前にしては言いにくいことではある。
それに、あまり口に出すものでもないと思うし…。
「お待たせ~」
「響?どこに、行ってたのよ」
「もちろん、厨房だよ。女将さんに言ってさ、一緒に夕飯を作ってたんだよ」
「あっ、そんなの、ずるいよ!わたしも、やりたかった!」
「文句はまたあとでね~」
「もう!」
響は手際よく配膳していって。
そして、"クルちゃん"の前で止まる。
「あれ?なんでここにいるのさ」
「えっと…。翔が…」
「ふぅん。そっか。よかったじゃない」
「う、うん…」
「よし、じゃあ、みんな。夕飯にしよっか」
(お腹空いた!)
「叫ぶな」
ミコトの頭を小突くと、その報復として尻尾で椅子を払おうとしてきたが、しっかり足で止めて睨み付けておく。
まったく、こいつは…。
…それにしても、響はやっぱりもう一人の響のことをちゃんと知ってたんだな。
大して驚いた様子がなかったのが驚きだけど。
またあとで、詳しい話を聞かせてもらおうかな。