無能と呼ばれた調整役、王都を出たら国が止まりました
卒業式典の大広間は、香水と蝋燭の匂いでむせ返っていた。
金箔を貼った柱が眩しく、笑い声が高く跳ね、音楽がそれを追い立てる。
私は――伯爵令嬢エレナ・グレイシャルは、壁際の花瓶みたいに立っていた。
誰の邪魔にもならず、誰の視界も遮らず、けれど確かにそこにある。そういう立ち位置は得意だった。得意になってしまった。
「皆に告げる」
会場中央、壇上から響いた声で、空気が一段引き締まる。
王家ではない。ここは王国ではない。
大国アルバスの東端――自治権を持つ“王都”ならぬ“首都圏”、その中心にある《議会都市ネーヴェル》。
ここでは、冠ではなく印章が権威だった。
声の主は、次期執政官候補第一席、レオンハルト・ヴァイス。
銀髪に青い目。制服はよく似合い、笑顔は人を安心させる形をしている。
その安心の裏で、彼はいつも「自分が中心だ」と信じて疑わない男だった。
そして、彼の隣に立つのは、真新しい白いドレスの令嬢。
彼女が笑うたび、光が増えるみたいに見える――見えるだけだ。
「エレナ・グレイシャル。君との婚約は、本日をもって解消する」
音楽が止まったわけではない。
なのに、私の耳には一音も入らなくなった。
――やっぱり、ね。
驚きはない。
ここ数ヶ月、彼の視線は私の肩を通り過ぎて、もっと“映える”ものを探していた。
私を見るときの目は、道具を見る目だ。便利か、便利ではないか。それだけ。
「理由は明白だ」
レオンハルトは軽く手を広げる。
その所作は、演説家というより舞台役者だ。客席の拍手を知っている。
「君は地味で、成果が見えない。言い換えれば……無能だ」
無能。
その言葉が落ちた瞬間、会場の端のほうで誰かが小さく笑った。
笑いはすぐに伝染する。貴族も文官も同じだ。いじめの構造は、制服が変わっても変わらない。
私は扇の骨を握りしめた。
骨が軋むほど握ったのに、顔は笑っている。笑ってしまう。
幼い頃から叩き込まれた「社交の筋肉」が、勝手に動く。
「……承知いたしました」
声が震えなかったことが、逆に怖い。
このまま私は、何も感じなくなってしまうのではないか、と。
レオンハルトの隣の白い令嬢が、ふわりと一歩進んだ。
リュミエール子爵令嬢――ミレイユ。
最近、彼の机に座り、彼の隣で笑い、彼の“成果”の説明をする係。
「エレナ様。あなた、いつも夜遅くまで書類室にいらしたでしょう?」
甘い声。
甘いのに、舌の上に砂が残る。
「それ、実はね……レオンハルト様の“方針”だったの。あなたはただ手を動かしていただけ」
――方針。
便利な言葉だ。
誰かが血を流して作った制度も、誰かが徹夜して整えた条文も、「方針」と言えば自分のものにできる。
私は息を吸った。
花の香りが喉に引っかかる。吐き出したいのに、吐き出せない。
「確認してよろしいでしょうか」
私は一礼した。深く。
屈服ではない。時間を稼ぐための深さだ。
「私が無能なら、今まで提出された交易税改定案、徴税基準統一案、騎士団補給規定、難民受け入れ指針――それらの整合性は、誰が担保したのでしょう」
ざわり、と空気が揺れる。
文官たちの目が一斉に動く。
彼らは知っている。書類が“勝手に整う”ことはない。
だが、社交界では知っていても口を閉じるのが礼儀だ。
レオンハルトの口角が引きつった。
「……くだらない。今さら詭弁を」
彼が一歩近づく。
近い。近すぎる。
その距離は、婚約者の距離ではなく、脅しの距離だった。
「君は自分の立場を――」
パン、と乾いた音がした。
私の頬が横に弾かれ、視界が白く滲む。
痛みは遅れて来た。
痛みより先に、静寂が来た。
会場全体が「見なかったことにする準備」を始める、あの静寂。
「立場を弁えろ」
凍った声。
その声で、私は理解した。
この婚約は、愛でも信頼でもない。
ただの“所有”だった。
私は頬に触れない。触れれば泣く。泣けば負ける。
だから私は、笑った。
氷の上で踊るような、危険な笑い。
「……なるほど」
私の笑いに、レオンハルトが眉をひそめる。
怖いのだ。
彼は“自分より下の者”が、笑うのを怖がる。
「婚約破棄、承知いたしました」
私は扇を閉じ、ゆっくりと言った。
「ですが――最後に一つだけ、お願いがございます」
「何だ」
「私の机を、返してください」
間の抜けた願いに聞こえただろう。
実際、誰かがクスッと笑った。
ミレイユが勝ち誇った顔をした。
私は、その顔を見て、さらに丁寧に微笑んだ。
「私の机には、私の手癖が染みています。あなた方の指には合わないでしょうから」
意味が分からない者もいる。
分かった者は、顔色を変えた。
文官の中には、唾を飲み込んだ者がいた。
机は、ただの机ではない。
そこには、未決裁の山と、優先順位の線引きと、誰に何をいつ渡すかという“血管”が通っている。
私は一礼し、踵を返した。
背中に視線が刺さる。
でも歩く。歩き続ける。
扉を抜けた瞬間、夜気が頬に触れた。
頬が痛いのに、冷たさが気持ちいい。
私はそこで初めて、声を出さずに泣いた。
涙は落ちる。けれど、立ち止まらない。
――終わらせない。
これは、終わりじゃない。
⸻
翌朝。
私は荷造りを終え、伯爵邸の裏口から出た。
華やかな玄関は使わない。見送りの言葉もいらない。
父は、私を止めなかった。ただ、最後に短く言った。
「エレナ。戻る場所は残す。ただし――戻りたいと願ううちは戻るな」
「……分かっています」
父は私の頬を見なかった。
見れば、怒りが出るのだろう。父の怒りは、私よりずっと大きい。
私はその怒りを、今は借りない。自分で立つ。
私は《辺境監査局》へ向かった。
監査局。響きは地味だ。
けれどこの都市にとって、監査は“血液検査”みたいなものだ。
病気を暴く場所に、社交界の花は咲かない。
そして私は、監査局の古い部屋で、初めて「椅子に座ったまま眠った」。
誰にも呼ばれない。
誰にも叩き起こされない。
世界が、妙に静かだった。
――静かすぎて、怖い。
怖いから、私は仕事をした。
仕事は裏切らない。裏切らないふりが上手いだけ、と言われればそうだが、それでも人間よりは分かりやすい。
⸻
三日後。
首都圏の《議会庁舎》で、小さな崩れが起きた。
「おい、補給規定の改定はどうなった?」
「え? 提出は……ええと、誰が整合性を?」
「誰が? ……それは、リュミエール子爵令嬢が」
「彼女は“説明役”だろう。条文を読めるのか?」
「読めますわよ!」
ミレイユが笑顔で答える。
笑顔は完璧。
だが、紙をめくる指が迷っていた。
「ええと……第三条の……“ただし”の位置が……」
「それ、位置が違うと徴税基準が二重になる」
文官が言った。
別の文官が唸る。
「二重になると、港湾都市が暴れる。暴れたら交易が止まる。止まったら補給が止まる。止まったら騎士団が――」
誰かが笑いを漏らしかけ、笑えなくなった。
空気が冷える。
紙一枚の位置が、戦争に繋がるのが政治だ。
ミレイユは少し頬を赤らめ、愛想よく言った。
「細かいことは……後で整えますわ」
「“細かいこと”で国が死ぬんだよ!」
怒鳴り声が飛び、議会室がざわつく。
ざわつきは、いつも通りのようで、いつもより深い。
“いつも通りの不具合”を支えていた手が消えたから。
⸻
一週間後。
崩れは“事件”になった。
港湾都市で、関税の二重徴収が発生。
商人たちが抗議し、船が止まり、食糧の流れが遅れた。
遅れは波紋のように広がり、騎士団の補給が滞り、治安が悪化する。
議会庁舎の廊下で、レオンハルトが怒鳴っていた。
「どうしてこんなことになる! 誰が確認した!」
文官が言う。
「確認役は……エレナ様でした」
「……だった、だろ!」
言い直して、レオンハルトは唇を噛んだ。
彼は「名前」を出したくない。
出した瞬間、自分の宣言が、平手打ちが、婚約破棄が、全部“愚かだった”と証明される。
ミレイユが近づき、彼の腕に触れる。
「落ち着いてください、レオンハルト様。きっと、誰かが整えてくれますわ」
「誰かって誰だ!」
叫んだ瞬間、彼は気づいた。
“誰か”などいない。
いつもいたのは、一人だ。
レオンハルトは、机の引き出しを乱暴に開けた。
そこにあるはずのものがない。
赤ペン。差し替え用の条文。優先度のメモ。会議順の付箋。
彼が「地味」と呼んだ作業の、すべて。
彼は歯を食いしばり、低く言った。
「……呼べ」
「え?」
「エレナを――呼べ!」
⸻
辺境監査局の扉が叩かれたのは、私が湯気の立つ麦茶を飲んでいる時だった。
監査局に麦茶は似合わない。けれど、ここには洒落た茶器より、仕事が似合う。
「グレイシャル令嬢。議会より使者です」
使者は、汗をかいていた。
彼の汗は、走った汗ではない。
立場が汗をかかせる類の汗だった。
「議会都市ネーヴェル、執政官候補第一席レオンハルト・ヴァイス様より――“至急、戻れ”との」
私はカップを置き、首を傾げた。
「“戻れ”ですか」
「……はい。ええ、至急と」
私は笑った。
自分でも驚くくらい、綺麗に笑えた。
「丁寧にお伝えください」
私は立ち上がり、髪を整える。
「“至急”と言うなら、依頼書の形式に従ってください、と」
使者の顔が強張る。
「形式など――」
「形式は、国を守ります」
私は淡々と言った。
「形式を捨てて平手打ちする人間に、国政は務まりません」
使者の喉が鳴った。
彼は反論できない。反論すると“誓い”に触れる。
この都市は印章で動く。印章が触れないと、何も動かない。
「それと」
私は笑みを消した。
「私は“戻る”つもりはありません。呼ぶなら――来てください。自分の足で」
使者は唖然として、しかし頭を下げ、去った。
私は窓の外を見る。
監査局の庭には、土と草の匂いがある。
議会庁舎にはない匂い。
ここで私は、初めて息ができている。
⸻
二日後。
レオンハルト本人が来た。
いつもの完璧な制服ではなかった。
髪は少し乱れ、目の下に影がある。
彼は“壊れかけた男”の顔をしていた。
監査局の薄暗い応接室で、彼は椅子に座るなり言った。
「……助けてくれ」
それは命令ではなかった。
懇願でもない。
ただの現実だった。
私はお茶を注いだ。
彼の前にも、私の前にも同じ量。
対等の量は、対等を意味しない。
対等に見せるための距離だ。
「助ける理由がありません」
私は言った。
声は静かだ。静かにしないと、怒りが混じる。
レオンハルトが顔を上げる。
「……あの日のことは」
「どの日ですか」
「卒業式典で――」
「婚約破棄のことですか。それとも平手打ちのことですか」
言葉が冷たくなる。
冷たくしているのは、私の中の熱がまだ消えていないからだ。
彼は唇を噛んだ。
「……全部だ。全部、間違っていた」
そこで彼が、初めて頭を下げた。
深く。床に額がつきそうなほど。
私は、少し驚いた。
人は追い詰められると、変わる。
変わるふりをする。
私はその区別を、昔から得意としている。
「謝罪を受け取ります」
私は淡々と言った。
「ただし、助けるかどうかは別です」
レオンハルトが顔を上げた。
その目は濡れている。
見せるための涙ではない、と思いたいが、私はまだ信じない。
「……何が望みだ」
彼は言った。
“望み”という言葉で、私は笑いそうになった。
望みを聞く前に、殴った人が、望みを語る資格を欲しがっている。
「望みは二つ」
私は指を二本立てた。
「一つ。私の名前を、議会の議事録に残してください。提出した案の署名も、作成者も、すべて」
レオンハルトの顔が歪む。
それは彼の威厳が崩れることを意味する。
「二つ。リュミエール子爵令嬢の“功績”を、正式に訂正してください。彼女がやったのは説明で、作成ではない。説明で偉くなっていい。でも、盗んで偉くなるのは許しません」
「……分かった」
彼は震える声で言った。
私は続ける。
「最後に――これは条件ではなく確認です」
私は彼を見た。
「あなたは私を“必要だから”呼んだのですか。それとも、“失った所有物”を取り戻したいのですか」
レオンハルトの目が揺れる。
答え方で、彼は自分の本音を晒す。
政治家にとって、本音は致命傷だ。
長い沈黙のあと、彼は言った。
「……必要だからだ。国が、止まる」
私は頷いた。
「そう。なら私も、必要な分だけ働きます」
レオンハルトの目が、少しだけ救われたように見えた。
救われたのは、彼ではない。国だ。
「ただし」
私はお茶を飲み、カップを置いた。
「私はあなたの隣には戻りません。議会庁舎の机にも戻りません。――私はここにいます」
「ここに?」
「監査局。制度の外側。あなたたちが私を“地味”と呼ぶ場所」
私は微笑んだ。
「ここから、あなたたちの制度が壊れないように、外から支えます。あなたが私を殴れない距離で」
レオンハルトは息を呑んだ。
彼は理解したのだ。
私は復縁を望まない。
戻らない。戻らせない。
「……そんな形で、国は回るのか」
「回ります。むしろ、回したいならそうするべきです」
私は少しだけ声を柔らげた。
「あなたが“中心”でいられるのは、中心を支える構造があるからです。構造を作った人間を殴るなら、中心は崩れます」
レオンハルトは、肩を落とした。
「……君は、冷たいな」
私は笑った。
「冷たいのではなく、温度管理が得意なだけです。国も、人間も。熱しすぎると壊れる」
皮肉を言ったはずなのに、彼は苦笑した。
その苦笑には、少しだけ、昔の余裕が戻っていた。
私は立ち上がり、机から一枚の紙を取った。
依頼書。印章欄つき。
「署名してください。これが“助ける”という契約です」
レオンハルトは迷いなく署名し、印章を押した。
印章が紙に沈む音は、妙に重い。
私はその紙を受け取り、丁寧に折りたたんだ。
「これで、国は止まりません」
「君が戻ってくれるなら――」
「戻りません」
即答した。
「私が戻れば、あなたたちはまた“当然”だと思う。私は当然ではありません。私は人間です」
レオンハルトが何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。
飲み込んだのは、謝罪でも懇願でもない。
たぶん――理解だ。
⸻
その日から、議会都市ネーヴェルは少しずつ回り直した。
壊れた規定は、外側から正された。
二重徴収は止まり、港湾は動き、補給は戻り、治安も落ち着いた。
そして、議事録には、私の名前が残った。
あまりに地味な文字で。
だが、そこに確かに。
ミレイユは泣き叫んだ。
「私は殿下のために!」
けれど法務局は冷たく言った。
「殿下のために盗む者は、国のためにも盗む」
彼女は社交界から消えた。
消える前に、私に向けて言った。
「あなた、そんなに勝ちたかったの?」
私は首を傾げた。
「勝ち負けではありません。返してもらっただけです」
その言葉が、彼女には理解できなかっただろう。
理解できない人間が、功績を盗む。
⸻
数ヶ月後。
監査局の窓辺で、私は書類に赤ペンを入れていた。
そこへ、手紙が届く。
差出人はレオンハルト。
封を切り、中身を読む。
『あなたがいないと、私は王になれない。――そう思っていた。
違う。あなたがいないと、私は“自分の弱さ”をごまかすしかない。
私はまだ、王には向かない。
だからせめて、あなたを殴らない男になる。
それが、私の最初の改革だ』
私は手紙を置き、窓の外を見た。
庭の草が揺れている。
土の匂いがする。
私は笑った。小さく。
「遅いのよ」
遅い。
でも、遅いからこそ――今、言える。
私は“選ばれる側”ではない。
選ぶ側だ。
誰かの隣に置かれて価値が出る人間ではない。
価値があるから、隣に置きたくなる人間だ。
私はペンを握り直す。
今日も制度を整える。
ただし、誰にも殴られない距離で。
――無能と呼ばれた調整役は、王都を出た。
王都は止まった。
そして王都は、ようやく学び始めた。
“地味”を切り捨てた国は、派手に崩れるのだと。




