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短編シリーズ

無能と呼ばれた調整役、王都を出たら国が止まりました

作者: 虹村玲
掲載日:2026/02/06

 卒業式典の大広間は、香水と蝋燭の匂いでむせ返っていた。

 金箔を貼った柱が眩しく、笑い声が高く跳ね、音楽がそれを追い立てる。


 私は――伯爵令嬢エレナ・グレイシャルは、壁際の花瓶みたいに立っていた。

 誰の邪魔にもならず、誰の視界も遮らず、けれど確かにそこにある。そういう立ち位置は得意だった。得意になってしまった。


「皆に告げる」


 会場中央、壇上から響いた声で、空気が一段引き締まる。

 王家ではない。ここは王国ではない。

 大国アルバスの東端――自治権を持つ“王都”ならぬ“首都圏”、その中心にある《議会都市ネーヴェル》。

 ここでは、冠ではなく印章が権威だった。


 声の主は、次期執政官候補第一席、レオンハルト・ヴァイス。

 銀髪に青い目。制服はよく似合い、笑顔は人を安心させる形をしている。

 その安心の裏で、彼はいつも「自分が中心だ」と信じて疑わない男だった。


 そして、彼の隣に立つのは、真新しい白いドレスの令嬢。

 彼女が笑うたび、光が増えるみたいに見える――見えるだけだ。


「エレナ・グレイシャル。君との婚約は、本日をもって解消する」


 音楽が止まったわけではない。

 なのに、私の耳には一音も入らなくなった。


 ――やっぱり、ね。


 驚きはない。

 ここ数ヶ月、彼の視線は私の肩を通り過ぎて、もっと“映える”ものを探していた。

 私を見るときの目は、道具を見る目だ。便利か、便利ではないか。それだけ。


「理由は明白だ」


 レオンハルトは軽く手を広げる。

 その所作は、演説家というより舞台役者だ。客席の拍手を知っている。


「君は地味で、成果が見えない。言い換えれば……無能だ」


 無能。

 その言葉が落ちた瞬間、会場の端のほうで誰かが小さく笑った。

 笑いはすぐに伝染する。貴族も文官も同じだ。いじめの構造は、制服が変わっても変わらない。


 私は扇の骨を握りしめた。

 骨が軋むほど握ったのに、顔は笑っている。笑ってしまう。

 幼い頃から叩き込まれた「社交の筋肉」が、勝手に動く。


「……承知いたしました」


 声が震えなかったことが、逆に怖い。

 このまま私は、何も感じなくなってしまうのではないか、と。


 レオンハルトの隣の白い令嬢が、ふわりと一歩進んだ。

 リュミエール子爵令嬢――ミレイユ。

 最近、彼の机に座り、彼の隣で笑い、彼の“成果”の説明をする係。


「エレナ様。あなた、いつも夜遅くまで書類室にいらしたでしょう?」


 甘い声。

 甘いのに、舌の上に砂が残る。


「それ、実はね……レオンハルト様の“方針”だったの。あなたはただ手を動かしていただけ」


 ――方針。

 便利な言葉だ。

 誰かが血を流して作った制度も、誰かが徹夜して整えた条文も、「方針」と言えば自分のものにできる。


 私は息を吸った。

 花の香りが喉に引っかかる。吐き出したいのに、吐き出せない。


「確認してよろしいでしょうか」


 私は一礼した。深く。

 屈服ではない。時間を稼ぐための深さだ。


「私が無能なら、今まで提出された交易税改定案、徴税基準統一案、騎士団補給規定、難民受け入れ指針――それらの整合性は、誰が担保したのでしょう」


 ざわり、と空気が揺れる。

 文官たちの目が一斉に動く。

 彼らは知っている。書類が“勝手に整う”ことはない。

 だが、社交界では知っていても口を閉じるのが礼儀だ。


 レオンハルトの口角が引きつった。


「……くだらない。今さら詭弁を」


 彼が一歩近づく。

 近い。近すぎる。

 その距離は、婚約者の距離ではなく、脅しの距離だった。


「君は自分の立場を――」


 パン、と乾いた音がした。


 私の頬が横に弾かれ、視界が白く滲む。

 痛みは遅れて来た。

 痛みより先に、静寂が来た。

 会場全体が「見なかったことにする準備」を始める、あの静寂。


「立場を弁えろ」


 凍った声。

 その声で、私は理解した。


 この婚約は、愛でも信頼でもない。

 ただの“所有”だった。


 私は頬に触れない。触れれば泣く。泣けば負ける。

 だから私は、笑った。

 氷の上で踊るような、危険な笑い。


「……なるほど」


 私の笑いに、レオンハルトが眉をひそめる。

 怖いのだ。

 彼は“自分より下の者”が、笑うのを怖がる。


「婚約破棄、承知いたしました」


 私は扇を閉じ、ゆっくりと言った。


「ですが――最後に一つだけ、お願いがございます」


「何だ」


「私の机を、返してください」


 間の抜けた願いに聞こえただろう。

 実際、誰かがクスッと笑った。

 ミレイユが勝ち誇った顔をした。


 私は、その顔を見て、さらに丁寧に微笑んだ。


「私の机には、私の手癖が染みています。あなた方の指には合わないでしょうから」


 意味が分からない者もいる。

 分かった者は、顔色を変えた。

 文官の中には、唾を飲み込んだ者がいた。


 机は、ただの机ではない。

 そこには、未決裁の山と、優先順位の線引きと、誰に何をいつ渡すかという“血管”が通っている。


 私は一礼し、踵を返した。

 背中に視線が刺さる。

 でも歩く。歩き続ける。


 扉を抜けた瞬間、夜気が頬に触れた。

 頬が痛いのに、冷たさが気持ちいい。


 私はそこで初めて、声を出さずに泣いた。

 涙は落ちる。けれど、立ち止まらない。


 ――終わらせない。

 これは、終わりじゃない。



 翌朝。


 私は荷造りを終え、伯爵邸の裏口から出た。

 華やかな玄関は使わない。見送りの言葉もいらない。

 父は、私を止めなかった。ただ、最後に短く言った。


「エレナ。戻る場所は残す。ただし――戻りたいと願ううちは戻るな」


「……分かっています」


 父は私の頬を見なかった。

 見れば、怒りが出るのだろう。父の怒りは、私よりずっと大きい。

 私はその怒りを、今は借りない。自分で立つ。


 私は《辺境監査局》へ向かった。

 監査局。響きは地味だ。

 けれどこの都市にとって、監査は“血液検査”みたいなものだ。

 病気を暴く場所に、社交界の花は咲かない。


 そして私は、監査局の古い部屋で、初めて「椅子に座ったまま眠った」。


 誰にも呼ばれない。

 誰にも叩き起こされない。

 世界が、妙に静かだった。


 ――静かすぎて、怖い。


 怖いから、私は仕事をした。

 仕事は裏切らない。裏切らないふりが上手いだけ、と言われればそうだが、それでも人間よりは分かりやすい。



 三日後。


 首都圏の《議会庁舎》で、小さな崩れが起きた。


「おい、補給規定の改定はどうなった?」


「え? 提出は……ええと、誰が整合性を?」


「誰が? ……それは、リュミエール子爵令嬢が」


「彼女は“説明役”だろう。条文を読めるのか?」


「読めますわよ!」


 ミレイユが笑顔で答える。

 笑顔は完璧。

 だが、紙をめくる指が迷っていた。


「ええと……第三条の……“ただし”の位置が……」


「それ、位置が違うと徴税基準が二重になる」


 文官が言った。

 別の文官が唸る。


「二重になると、港湾都市が暴れる。暴れたら交易が止まる。止まったら補給が止まる。止まったら騎士団が――」


 誰かが笑いを漏らしかけ、笑えなくなった。

 空気が冷える。

 紙一枚の位置が、戦争に繋がるのが政治だ。


 ミレイユは少し頬を赤らめ、愛想よく言った。


「細かいことは……後で整えますわ」


「“細かいこと”で国が死ぬんだよ!」


 怒鳴り声が飛び、議会室がざわつく。

 ざわつきは、いつも通りのようで、いつもより深い。

 “いつも通りの不具合”を支えていた手が消えたから。



 一週間後。


 崩れは“事件”になった。


 港湾都市で、関税の二重徴収が発生。

 商人たちが抗議し、船が止まり、食糧の流れが遅れた。

 遅れは波紋のように広がり、騎士団の補給が滞り、治安が悪化する。


 議会庁舎の廊下で、レオンハルトが怒鳴っていた。


「どうしてこんなことになる! 誰が確認した!」


 文官が言う。


「確認役は……エレナ様でした」


「……だった、だろ!」


 言い直して、レオンハルトは唇を噛んだ。

 彼は「名前」を出したくない。

 出した瞬間、自分の宣言が、平手打ちが、婚約破棄が、全部“愚かだった”と証明される。


 ミレイユが近づき、彼の腕に触れる。


「落ち着いてください、レオンハルト様。きっと、誰かが整えてくれますわ」


「誰かって誰だ!」


 叫んだ瞬間、彼は気づいた。

 “誰か”などいない。

 いつもいたのは、一人だ。


 レオンハルトは、机の引き出しを乱暴に開けた。

 そこにあるはずのものがない。

 赤ペン。差し替え用の条文。優先度のメモ。会議順の付箋。

 彼が「地味」と呼んだ作業の、すべて。


 彼は歯を食いしばり、低く言った。


「……呼べ」


「え?」


「エレナを――呼べ!」



 辺境監査局の扉が叩かれたのは、私が湯気の立つ麦茶を飲んでいる時だった。

 監査局に麦茶は似合わない。けれど、ここには洒落た茶器より、仕事が似合う。


「グレイシャル令嬢。議会より使者です」


 使者は、汗をかいていた。

 彼の汗は、走った汗ではない。

 立場が汗をかかせる類の汗だった。


「議会都市ネーヴェル、執政官候補第一席レオンハルト・ヴァイス様より――“至急、戻れ”との」


 私はカップを置き、首を傾げた。


「“戻れ”ですか」


「……はい。ええ、至急と」


 私は笑った。

 自分でも驚くくらい、綺麗に笑えた。


「丁寧にお伝えください」


 私は立ち上がり、髪を整える。


「“至急”と言うなら、依頼書の形式に従ってください、と」


 使者の顔が強張る。


「形式など――」


「形式は、国を守ります」


 私は淡々と言った。


「形式を捨てて平手打ちする人間に、国政は務まりません」


 使者の喉が鳴った。

 彼は反論できない。反論すると“誓い”に触れる。

 この都市は印章で動く。印章が触れないと、何も動かない。


「それと」


 私は笑みを消した。


「私は“戻る”つもりはありません。呼ぶなら――来てください。自分の足で」


 使者は唖然として、しかし頭を下げ、去った。


 私は窓の外を見る。

 監査局の庭には、土と草の匂いがある。

 議会庁舎にはない匂い。


 ここで私は、初めて息ができている。



 二日後。


 レオンハルト本人が来た。


 いつもの完璧な制服ではなかった。

 髪は少し乱れ、目の下に影がある。

 彼は“壊れかけた男”の顔をしていた。


 監査局の薄暗い応接室で、彼は椅子に座るなり言った。


「……助けてくれ」


 それは命令ではなかった。

 懇願でもない。

 ただの現実だった。


 私はお茶を注いだ。

 彼の前にも、私の前にも同じ量。

 対等の量は、対等を意味しない。

 対等に見せるための距離だ。


「助ける理由がありません」


 私は言った。

 声は静かだ。静かにしないと、怒りが混じる。


 レオンハルトが顔を上げる。


「……あの日のことは」


「どの日ですか」


「卒業式典で――」


「婚約破棄のことですか。それとも平手打ちのことですか」


 言葉が冷たくなる。

 冷たくしているのは、私の中の熱がまだ消えていないからだ。


 彼は唇を噛んだ。


「……全部だ。全部、間違っていた」


 そこで彼が、初めて頭を下げた。

 深く。床に額がつきそうなほど。


 私は、少し驚いた。

 人は追い詰められると、変わる。

 変わるふりをする。


 私はその区別を、昔から得意としている。


「謝罪を受け取ります」


 私は淡々と言った。


「ただし、助けるかどうかは別です」


 レオンハルトが顔を上げた。

 その目は濡れている。

 見せるための涙ではない、と思いたいが、私はまだ信じない。


「……何が望みだ」


 彼は言った。

 “望み”という言葉で、私は笑いそうになった。

 望みを聞く前に、殴った人が、望みを語る資格を欲しがっている。


「望みは二つ」


 私は指を二本立てた。


「一つ。私の名前を、議会の議事録に残してください。提出した案の署名も、作成者も、すべて」


 レオンハルトの顔が歪む。

 それは彼の威厳が崩れることを意味する。


「二つ。リュミエール子爵令嬢の“功績”を、正式に訂正してください。彼女がやったのは説明で、作成ではない。説明で偉くなっていい。でも、盗んで偉くなるのは許しません」


「……分かった」


 彼は震える声で言った。


 私は続ける。


「最後に――これは条件ではなく確認です」


 私は彼を見た。


「あなたは私を“必要だから”呼んだのですか。それとも、“失った所有物”を取り戻したいのですか」


 レオンハルトの目が揺れる。

 答え方で、彼は自分の本音を晒す。

 政治家にとって、本音は致命傷だ。


 長い沈黙のあと、彼は言った。


「……必要だからだ。国が、止まる」


 私は頷いた。


「そう。なら私も、必要な分だけ働きます」


 レオンハルトの目が、少しだけ救われたように見えた。

 救われたのは、彼ではない。国だ。


「ただし」


 私はお茶を飲み、カップを置いた。


「私はあなたの隣には戻りません。議会庁舎の机にも戻りません。――私はここにいます」


「ここに?」


「監査局。制度の外側。あなたたちが私を“地味”と呼ぶ場所」


 私は微笑んだ。


「ここから、あなたたちの制度が壊れないように、外から支えます。あなたが私を殴れない距離で」


 レオンハルトは息を呑んだ。

 彼は理解したのだ。

 私は復縁を望まない。

 戻らない。戻らせない。


「……そんな形で、国は回るのか」


「回ります。むしろ、回したいならそうするべきです」


 私は少しだけ声を柔らげた。


「あなたが“中心”でいられるのは、中心を支える構造があるからです。構造を作った人間を殴るなら、中心は崩れます」


 レオンハルトは、肩を落とした。


「……君は、冷たいな」


 私は笑った。


「冷たいのではなく、温度管理が得意なだけです。国も、人間も。熱しすぎると壊れる」


 皮肉を言ったはずなのに、彼は苦笑した。

 その苦笑には、少しだけ、昔の余裕が戻っていた。


 私は立ち上がり、机から一枚の紙を取った。

 依頼書。印章欄つき。


「署名してください。これが“助ける”という契約です」


 レオンハルトは迷いなく署名し、印章を押した。

 印章が紙に沈む音は、妙に重い。


 私はその紙を受け取り、丁寧に折りたたんだ。


「これで、国は止まりません」


「君が戻ってくれるなら――」


「戻りません」


 即答した。


「私が戻れば、あなたたちはまた“当然”だと思う。私は当然ではありません。私は人間です」


 レオンハルトが何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。

 飲み込んだのは、謝罪でも懇願でもない。

 たぶん――理解だ。



 その日から、議会都市ネーヴェルは少しずつ回り直した。


 壊れた規定は、外側から正された。

 二重徴収は止まり、港湾は動き、補給は戻り、治安も落ち着いた。


 そして、議事録には、私の名前が残った。

 あまりに地味な文字で。

 だが、そこに確かに。


 ミレイユは泣き叫んだ。

「私は殿下のために!」

 けれど法務局は冷たく言った。

「殿下のために盗む者は、国のためにも盗む」


 彼女は社交界から消えた。

 消える前に、私に向けて言った。


「あなた、そんなに勝ちたかったの?」


 私は首を傾げた。


「勝ち負けではありません。返してもらっただけです」


 その言葉が、彼女には理解できなかっただろう。

 理解できない人間が、功績を盗む。



 数ヶ月後。

 監査局の窓辺で、私は書類に赤ペンを入れていた。


 そこへ、手紙が届く。

 差出人はレオンハルト。


 封を切り、中身を読む。


『あなたがいないと、私は王になれない。――そう思っていた。

 違う。あなたがいないと、私は“自分の弱さ”をごまかすしかない。

 私はまだ、王には向かない。

 だからせめて、あなたを殴らない男になる。

 それが、私の最初の改革だ』


 私は手紙を置き、窓の外を見た。

 庭の草が揺れている。

 土の匂いがする。


 私は笑った。小さく。


「遅いのよ」


 遅い。

 でも、遅いからこそ――今、言える。


 私は“選ばれる側”ではない。

 選ぶ側だ。


 誰かの隣に置かれて価値が出る人間ではない。

 価値があるから、隣に置きたくなる人間だ。


 私はペンを握り直す。

 今日も制度を整える。

 ただし、誰にも殴られない距離で。


 ――無能と呼ばれた調整役は、王都を出た。

 王都は止まった。

 そして王都は、ようやく学び始めた。


 “地味”を切り捨てた国は、派手に崩れるのだと。

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― 新着の感想 ―
最後の一文が最高ですね。 面白く読ませて貰いました。
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