第9話 硝子の靴、向けられた熱
一週間ぶりの再会は、王宮の大広間だった。
煌めくシャンデリア。
生演奏のワルツ。
色とりどりのドレスを纏った貴族たちが、蝶のように舞っている。
私はユリウス様の腕に手を添え、会場を進んでいた。
胃が痛い。
豪華な食事も、美しい音楽も、今の私には処刑台へのBGMにしか聞こえない。
「顔色が優れないな」
ユリウス様が小声で囁く。
その声は、あの日――庭園で私を問い詰めた時とは違い、甘く優しい響きを含んでいた。
「……少し、人が多くて」
「無理はしなくていい。挨拶回りが済んだら、すぐに下がろう」
彼の手が、私の手をそっと包み込む。
温かい。
この温もりに触れるたび、胸の奥で罪悪感が疼く。
あの日、彼は「魂の形が違う」と言った。
疑っているのだ。
それなのに、どうしてこんなに優しくするのだろう。
正体を暴こうとしているのか。
それとも、私の演技を泳がせているだけなのか。
思考が悪い方へと転がっていく。
***
ユリウス様が知人に呼ばれ、少しの間だけ離れることになった。
私は壁際の柱の陰に身を隠し、小さく息を吐く。
一人になると、途端に心細さが押し寄せてくる。
ドレスの裾を握りしめていると、近くから甲高い笑い声が聞こえてきた。
「見て、あの方。リリアーナ様よ」
「まあ。病気で伏せっていたと聞いたけれど」
「中身までは治っていないでしょうね。あの方の癇癪持ちは有名ですもの」
扇子で口元を隠した令嬢たちが、こちらを見ながら囁き合っている。
その目は嘲笑に満ちていた。
「使用人に物を投げつけるわ、気に入らないドレスは引き裂くわ……ユリウス様もお気の毒ね」
「本当よ。あんな美しい方が、あんなあばずれと婚約だなんて」
「今も猫を被っているだけに違いないわ」
言葉のナイフが突き刺さる。
反論はできない。
私が演じているのは、そういう過去を持つ女性なのだ。
彼女たちの軽蔑は、正当な評価と言える。
私は唇を噛み、視線を床に落とした。
逃げ出したい。
でも、動けば注目を集めてしまう。
その時だった。
「――失礼」
凛としたバリトンが、嘲笑の空気を切り裂いた。
顔を上げる。
ユリウス様が立っていた。
令嬢たちの背後に、氷の精霊のような冷ややかさで。
「ゆ、ユリウス様!?」
「ごきげんよう。……ところで、今のお話ですが」
彼は優雅に微笑んでいる。
だが、その碧眼は全く笑っていない。
令嬢たちが引きつった顔で後ずさる。
「私の婚約者が、何か無礼を働きましたか?」
「い、いいえ! 滅相もございません!」
「そうですか。それはよかった」
彼は一歩、前に出る。
それだけで、令嬢たちは蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「一つ、訂正させていただきたい。現在のリリアーナは、誰よりも思慮深く、心優しい女性です」
え?
私は目を見開く。
「使用人を労い、私の言葉に耳を傾け、他者の痛みを理解しようとする。……私は、そんな彼女を誇りに思っています」
会場のざわめきが遠のく。
彼の言葉だけが、鮮明に響いた。
彼は私を見ていない。令嬢たちを見ている。
これは世間体を取り繕うための言葉だ。
わかっている。
わかっているけれど。
「二度と、彼女を侮辱するような発言は控えていただきたい。……よろしいですね?」
低い声での通告。
令嬢たちは真っ青になって頷き、逃げるように去っていった。
静寂が戻る。
ユリウス様が振り返り、私に手を差し出した。
「行こう。風に当たりたい」
私は震える手で、その手を取った。
***
夜風が吹き抜けるバルコニーには、誰もいなかった。
王都の夜景が、眼下で宝石箱のように輝いている。
私は手すりに寄りかかり、火照った頬を冷やしていた。
隣には彼がいる。
沈黙が心地よく、そして苦しい。
「……ありがとうございました」
絞り出すように言った。
「あの方々の言うことは、嘘ではありません。昔の私は、確かに酷い振る舞いをしていましたから」
これはリリアーナとしての謝罪だ。
過去の悪評は事実なのだから。
しかし、ユリウス様は首を横に振った。
「過去など関係ない」
彼は手すりに手をつき、夜景ではなく私を見た。
「僕が見ているのは、今ここにいる君だ」
ドキリとする。
その瞳は、逃げ場を与えてくれない。
「誰かの噂話でも、記憶の中の影でもない。……今、目の前で悩み、震えている君自身を、僕は信じている」
息が止まった。
それは、どういう意味?
君自身って、誰のこと?
リリアーナ?
それとも、正体不明の私?
「君が何を隠していても構わない。どんな事情があってもいい」
彼の手が伸びてきて、私の頬に触れた。
指先が熱い。
「ただ、僕のそばにいてほしい。……それだけが、今の僕の願いだ」
涙が出そうになった。
それは、ほとんど告白だった。
嬉しい。
心が震えるほど嬉しい。
でも、それ以上に怖い。
彼は私という「虚像」を愛そうとしている。
あるいは、中身が別人だと薄々気づきながら、それでも受け入れようとしてくれている。
だめだ。
頷いてはいけない。
私は契約で雇われた偽物。
あと一ヶ月もすれば、死んだことになって消える存在。
彼に愛される資格なんて、これっぽっちもない。
「ユリウス様、私は……」
拒絶の言葉を探す。
けれど、喉が張り付いて声が出ない。
彼の切実な瞳を見ていると、嘘をつくのが辛くてたまらない。
私の本心が叫んでいた。
このままずっと、この人の隣にいたいと。
嘘つきのままでもいいから、愛されたいと。
「……今は、何も言わなくていい」
私の葛藤を察したのか、彼は苦笑して手を引いた。
でも、その指先は名残惜しそうに私の髪を掠めた。
「ただ、伝えたかったんだ。僕の気持ちが、どこにあるのかを」
ズルい。
そんなふうに言われたら、もう突き放せないじゃないですか。
私は俯き、溢れそうになる涙を隠した。
夜風が冷たい。
けれど、彼が触れた頬だけが、火傷したように熱かった。




