表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
身代わり令嬢は初恋を終わらせられない  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/12

第9話 硝子の靴、向けられた熱

 一週間ぶりの再会は、王宮の大広間だった。


 煌めくシャンデリア。

 生演奏のワルツ。

 色とりどりのドレスを纏った貴族たちが、蝶のように舞っている。


 私はユリウス様の腕に手を添え、会場を進んでいた。

 胃が痛い。

 豪華な食事も、美しい音楽も、今の私には処刑台へのBGMにしか聞こえない。


「顔色が優れないな」


 ユリウス様が小声で囁く。

 その声は、あの日――庭園で私を問い詰めた時とは違い、甘く優しい響きを含んでいた。


「……少し、人が多くて」

「無理はしなくていい。挨拶回りが済んだら、すぐに下がろう」


 彼の手が、私の手をそっと包み込む。

 温かい。

 この温もりに触れるたび、胸の奥で罪悪感が疼く。


 あの日、彼は「魂の形が違う」と言った。

 疑っているのだ。

 それなのに、どうしてこんなに優しくするのだろう。

 正体を暴こうとしているのか。

 それとも、私の演技を泳がせているだけなのか。


 思考が悪い方へと転がっていく。


 ***


 ユリウス様が知人に呼ばれ、少しの間だけ離れることになった。

 私は壁際の柱の陰に身を隠し、小さく息を吐く。


 一人になると、途端に心細さが押し寄せてくる。

 ドレスの裾を握りしめていると、近くから甲高い笑い声が聞こえてきた。


「見て、あの方。リリアーナ様よ」

「まあ。病気で伏せっていたと聞いたけれど」

「中身までは治っていないでしょうね。あの方の癇癪持ちは有名ですもの」


 扇子で口元を隠した令嬢たちが、こちらを見ながら囁き合っている。

 その目は嘲笑に満ちていた。


「使用人に物を投げつけるわ、気に入らないドレスは引き裂くわ……ユリウス様もお気の毒ね」

「本当よ。あんな美しい方が、あんなあばずれと婚約だなんて」

「今も猫を被っているだけに違いないわ」


 言葉のナイフが突き刺さる。

 反論はできない。

 私が演じているのは、そういう過去を持つ女性なのだ。

 彼女たちの軽蔑は、正当な評価と言える。


 私は唇を噛み、視線を床に落とした。

 逃げ出したい。

 でも、動けば注目を集めてしまう。

 

 その時だった。


「――失礼」


 凛としたバリトンが、嘲笑の空気を切り裂いた。

 

 顔を上げる。

 ユリウス様が立っていた。

 令嬢たちの背後に、氷の精霊のような冷ややかさで。


「ゆ、ユリウス様!?」

「ごきげんよう。……ところで、今のお話ですが」


 彼は優雅に微笑んでいる。

 だが、その碧眼は全く笑っていない。

 令嬢たちが引きつった顔で後ずさる。


「私の婚約者が、何か無礼を働きましたか?」

「い、いいえ! 滅相もございません!」

「そうですか。それはよかった」


 彼は一歩、前に出る。

 それだけで、令嬢たちは蛇に睨まれた蛙のように硬直した。


「一つ、訂正させていただきたい。現在のリリアーナは、誰よりも思慮深く、心優しい女性です」


 え?

 私は目を見開く。


「使用人を労い、私の言葉に耳を傾け、他者の痛みを理解しようとする。……私は、そんな彼女を誇りに思っています」


 会場のざわめきが遠のく。

 彼の言葉だけが、鮮明に響いた。


 彼は私を見ていない。令嬢たちを見ている。

 これは世間体を取り繕うための言葉だ。

 わかっている。

 わかっているけれど。


「二度と、彼女を侮辱するような発言は控えていただきたい。……よろしいですね?」


 低い声での通告。

 令嬢たちは真っ青になって頷き、逃げるように去っていった。


 静寂が戻る。

 ユリウス様が振り返り、私に手を差し出した。


「行こう。風に当たりたい」


 私は震える手で、その手を取った。


 ***


 夜風が吹き抜けるバルコニーには、誰もいなかった。

 王都の夜景が、眼下で宝石箱のように輝いている。


 私は手すりに寄りかかり、火照った頬を冷やしていた。

 隣には彼がいる。

 沈黙が心地よく、そして苦しい。


「……ありがとうございました」


 絞り出すように言った。


「あの方々の言うことは、嘘ではありません。昔の私は、確かに酷い振る舞いをしていましたから」


 これはリリアーナとしての謝罪だ。

 過去の悪評は事実なのだから。


 しかし、ユリウス様は首を横に振った。


「過去など関係ない」


 彼は手すりに手をつき、夜景ではなく私を見た。


「僕が見ているのは、今ここにいる君だ」


 ドキリとする。

 その瞳は、逃げ場を与えてくれない。


「誰かの噂話でも、記憶の中の影でもない。……今、目の前で悩み、震えている君自身を、僕は信じている」


 息が止まった。

 

 それは、どういう意味?

 君自身って、誰のこと?

 リリアーナ?

 それとも、正体不明の私?


「君が何を隠していても構わない。どんな事情があってもいい」


 彼の手が伸びてきて、私の頬に触れた。

 指先が熱い。


「ただ、僕のそばにいてほしい。……それだけが、今の僕の願いだ」


 涙が出そうになった。

 それは、ほとんど告白だった。


 嬉しい。

 心が震えるほど嬉しい。

 でも、それ以上に怖い。


 彼は私という「虚像」を愛そうとしている。

 あるいは、中身が別人だと薄々気づきながら、それでも受け入れようとしてくれている。


 だめだ。

 頷いてはいけない。

 私は契約で雇われた偽物。

 あと一ヶ月もすれば、死んだことになって消える存在。


 彼に愛される資格なんて、これっぽっちもない。


「ユリウス様、私は……」


 拒絶の言葉を探す。

 けれど、喉が張り付いて声が出ない。

 彼の切実な瞳を見ていると、嘘をつくのが辛くてたまらない。


 私の本心が叫んでいた。

 このままずっと、この人の隣にいたいと。

 嘘つきのままでもいいから、愛されたいと。


「……今は、何も言わなくていい」


 私の葛藤を察したのか、彼は苦笑して手を引いた。

 でも、その指先は名残惜しそうに私の髪を掠めた。


「ただ、伝えたかったんだ。僕の気持ちが、どこにあるのかを」


 ズルい。

 そんなふうに言われたら、もう突き放せないじゃないですか。


 私は俯き、溢れそうになる涙を隠した。

 夜風が冷たい。

 けれど、彼が触れた頬だけが、火傷したように熱かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ