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身代わり令嬢は初恋を終わらせられない  作者: 九葉(くずは)


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第8話 綻びる仮面、疑惑の刃

 三日間、ユリウス様からの連絡は途絶えていた。


 あの拒絶が効いたのだろうか。

 それとも、諦めてくれたのか。

 屋敷の中は静まり返り、私は処刑を待つ囚人のような気分で時間を浪費していた。


 午後、庭師が手入れをしている薔薇を眺めていた時のことだ。


「美しいな」


 背後から、聞き慣れた声が降ってきた。

 心臓が跳ね上がる。

 振り返ると、そこにはユリウス様が立っていた。

 使用人の案内もなく、いつの間に。


「ユリウス様……どうして」

「執事に通してもらった。君が庭にいると聞いたのでね」


 彼は穏やかに微笑んでいる。

 先日、私が冷たく突き放したことなど忘れてしまったかのような、自然な態度だ。


 けれど、その瞳の奥には、決して笑わない冷静な光が宿っていた。


「少し、歩かないか」


 拒否権のない誘いだった。

 私は小さく頷き、彼と並んで歩き出す。


 砂利を踏む音だけが響く。

 沈黙が重い。

 彼は何も話さない。

 ただ、時折横目で私を確認し、逃がさないように距離を詰めてくる。


 庭園の奥、人目につかないベンチの前で、彼は足を止めた。


「座ろう」


 促され、私は腰を下ろす。

 彼は隣には座らず、私の前に立ったまま、見下ろす位置に陣取った。

 逃げ場はない。


「リリアーナ」

「……はい」

「最近、君を見ていて気づいたことがある」


 ドキリとした。

 まただ。

 彼の観察眼が、私のどこかを見抜いたのだ。


 彼はポケットから、私が先ほどベンチに置き忘れたハンカチを取り出した。


「君は、考え事をする時、ハンカチの四隅をきっちりと折り畳む癖があるな」


 私は息を呑んだ。

 無意識だった。

 実家にいた頃、裁縫の内職をしながら身についた手慰みの癖だ。


「……それが、何か?」

「昔の君は、ハンカチなど丸めて投げ捨てるような性格だった。一度たりとも、自分で丁寧に畳む姿など見たことがない」


 背筋に冷や汗が流れる。

 些細なことだ。

 そんな小さな変化なんて、「成長したから」で済むはずだ。


 私は震える唇で笑みを作った。


「大人になれば、所作も変わりますわ。お義母様に厳しくしつけられましたし」

「そうだな。所作は変わる。……だが」


 彼は一歩、私に近づいた。

 威圧感に、喉がひくりと鳴る。


「使用人への態度もだ。君は庭師に『ありがとう』と言った。紅茶を運ぶメイドに、労いの言葉をかける。……以前の君なら、彼らを風景の一部としか見ていなかったはずなのに」


 反論できない。

 それは演技ではなく、平民として育った私の素が出てしまった部分だ。

 染み付いた価値観は、数ヶ月の特訓では消せなかった。


「そして何より、僕への接し方だ」


 彼はしゃがみ込み、私の目線に合わせて覗き込んできた。

 碧眼が、至近距離で私を捕らえる。


「君は僕を怖がっている。……まるで、何か隠し事が露見するのを恐れるように」


 心臓が早鐘を打つ。

 呼吸が浅くなる。

 バレている。

 この人は、もう気づいているのではないか。

 私がリリアーナではないことに。


 恐怖で視界が揺れた。

 今ここで「お前は誰だ」と問われたら、私は何と答えればいい?


 否定しなきゃ。

 誤魔化さなきゃ。

 早く、何か言葉を。


「そ、それは……ユリウス様が、昔の話ばかりなさるから」


 苦し紛れの言い訳が口をついて出た。


「私は記憶が曖昧で……貴方の期待に応えられないのが、怖いのです」


 嘘に嘘を重ねる。

 泥沼だ。

 もう自分が何を言っているのかもわからない。


 ユリウス様は、私の目をじっと見つめたまま、静かに首を横に振った。


「記憶の問題じゃない。もっと根本的な、魂の形が違うような違和感だ」


 魂の形。

 その言葉が、鋭い刃物のように胸に突き刺さった。


「正直に言ってくれ。……君は、本当に変わっただけなのか?」


 核心に迫る問い。

 彼の声は震えていた。

 怒りではない。

 縋るような、真実を求める切実な響き。


 彼は疑っている。

 目の前の女が、愛した婚約者ではない可能性を。

 そして、それを確かめることを恐れてもいる。


 私は膝の上で手を握りしめ、爪が食い込む痛みで正気を保った。

 

 言えない。

 「私は偽物です」なんて、口が裂けても言えない。

 言えば、彼を傷つける。

 伯爵家を破滅させる。

 私の家族も路頭に迷う。


 私は何も答えられず、ただ唇を噛んで俯いた。


 沈黙が落ちる。

 鳥の声さえ聞こえない、真空のような静寂。


 ユリウス様は、答えのない私を責めなかった。

 ただ、悲しげに目を細め、私の強張った拳にそっと触れた。


「……今日は、これ以上聞かない」


 彼は立ち上がる。

 その背中が、ひどく遠く見えた。


「だが、いつか話してほしい。君の本当の言葉を」


 彼は去っていった。

 私はベンチに残され、動くことさえできなかった。


 完全に騙せてなどいなかったのだ。

 彼は賢い人だ。

 私の拙い演技の隙間から溢れ出る「マリア」の断片を、拾い集めていたのだ。


 もう、限界かもしれない。

 次に会う時、私はまだ「リリアーナ」の仮面をつけていられるだろうか。

 

 風が吹き抜け、足元のハンカチがカサリと揺れた。

 綺麗に折り畳まれた四角形が、私の正体を無言で告発しているようだった。

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