第7話 終わりのシナリオ、未来への問い
翌朝、朝食の席に着くと、皿の横に一通の封筒が置かれていた。
差出人は伯爵夫人だ。
中身を改める。
上質な紙に、流麗な筆記体で記されていたのは『契約満了後の手引き』だった。
――契約終了後、リリアーナは病状悪化のため、北部の別邸へ転地療養とする。
――数ヶ月後、現地にて病死したと発表。葬儀は密葬。
――貴女には新たな身分証と手切れ金を用意する。王都を離れ、二度と戻ってはならない。
文字を目で追うたび、体温が下がっていくのを感じた。
これが、私の未来だ。
リリアーナという役を演じ終えたら、私はマリアに戻る。
いや、マリアという名前すら捨てて、見知らぬ誰かとして生きるのだ。
そこには、ユリウス様の隣どころか、彼の視界の端に映る場所さえない。
「……わかっていたことだわ」
私は小さく呟き、手紙を暖炉の火にくべた。
紙が丸まり、黒く灰になっていく。
まるで私自身のようだった。
***
午後、ユリウス様からの使いが来た。
週末にオペラを観に行かないか、という誘いだった。
同封されていた手紙には、私が以前「音楽が好き」と言ったことを覚えていて、人気の演目の席を確保したと書かれていた。
インクの滲み一つない、誠実な文字。
彼がどんな顔をしてこの手紙を書いたのか、想像できてしまう。
(行きたい)
喉から手が出るほど、行きたかった。
彼の隣で、同じ音楽を聴き、感想を語り合いたい。
でも、それは許されない。
カレンダーを見る。
残された時間は、砂時計の砂のように減っていく。
これ以上、思い出を増やしてはいけない。
別れが辛くなるだけだ。
私は震える手でペンを取った。
『お誘いありがとうございます。ですが、最近は体調が優れず、外出は控えさせていただきたく存じます』
嘘だ。体調なんて悪くない。
心が痛いだけだ。
何度も書き損じそうになりながら、私は短くそっけない返事を書いた。
「また今度」という言葉すら書かなかった。
次なんて、ないほうがいいから。
***
返事を出してから三日後。
私は自室の窓辺で、読みかけの本を膝に乗せたままぼんやりとしていた。
文字が頭に入ってこない。
考えるのは、あの時の彼のことばかりだ。
手紙を読んで、失望しただろうか。「せっかく用意したのに」と怒っただろうか。
コンコン。
控えめなノックの音がした。
「お嬢様、お客様です」
侍女の声に、私は眉を寄せる。
今日は来客の予定などないはずだ。
「どなた?」
「ユリウス・フォン・オルライト様です」
心臓が止まるかと思った。
本が膝から滑り落ち、床に鈍い音を立てる。
「どうして……お断りしたはずなのに」
「ひどく心配されたご様子で。お顔だけでも見たいと、玄関ホールで待っておられます」
なんて人だろう。
断られたら腹を立てるどころか、心配して駆けつけてくるなんて。
会いたくない。
会えば決心が揺らぐ。
でも、追い返すわけにもいかない。
私は深呼吸をして、鏡の前で表情を作る。
冷たく、無愛想に。
「病気で機嫌の悪い令嬢」を演じるのだ。
応接間に入ると、ユリウス様がソファにも座らず、窓の外を見て立っていた。
足音が聞こえると、勢いよく振り返る。
「リリアーナ!」
彼は大股で近づいてきた。
その顔には焦燥と、隠しきれない安堵が浮かんでいる。
「顔色が……思ったより悪くないな。よかった」
「……急なご訪問、驚きましたわ」
私は彼の手を避けるように、一歩下がって距離を取った。
わざと冷たい声を出す。
「体調が悪いと申し上げましたのに」
「だからこそだ。手紙の文字が少し震えているように見えて……居ても立ってもいられなかった」
彼は私の拒絶に気づかないふりをして、優しく微笑む。
その気遣いが、今は凶器のように痛い。
「大袈裟ですわ。ただの頭痛ですもの。静かに寝ていれば治ります」
「何か欲しいものはないか? 医者は? 僕にできることがあれば何でも言ってくれ」
どうして。
どうしてそこまでしてくれるの。
私は偽物なのに。
貴方を騙している、最低な女なのに。
胸が苦しくて、涙が出そうになるのを必死で堪える。
これ以上優しくしないで。
嫌いになって。
「可愛げのない女だ」と見放して。
「……一人にしていただきたいのです」
私は俯き、ドレスの裾を強く握りしめた。
「誰とも話したくない気分なのです。……ユリウス様でも」
決定的な言葉。
ここまで言えば、さすがに彼も気分を害するはずだ。
沈黙が落ちる。
彼の息遣いが聞こえる距離で、時間が凍りついたようだった。
「……そうか」
しばらくして、彼が静かに言った。
怒声ではない。
失望の色もない。
ただ、深く納得したような、沈んだ声だった。
「無理を言ってすまなかった。君の負担になりたくはない」
気配が遠ざかる。
彼が踵を返し、扉へと向かう音がした。
成功だ。
これでいい。
私は彼を傷つけ、遠ざけた。
これで契約終了の日が来ても、彼は「せいせいした」と思ってくれるかもしれない。
そう思った瞬間、涙が一雫、手の甲に落ちた。
拭おうとした時だ。
「リリアーナ」
扉の手前で、彼が立ち止まっていた。
背中を向けたまま、彼は問いかける。
「君は、僕たちの未来について、どう考えている?」
ドキリとした。
未来?
そんなもの、私にはない。
あるのは消滅だけだ。
「……どういう意味でしょう」
「僕は、考えている」
彼はゆっくりと振り返った。
逆光で表情が見えない。
けれど、その声には強い意志が宿っていた。
「この先も、五年後も十年後も。君が隣にいてくれる未来を」
呼吸を忘れた。
五年後。十年後。
そんなに先まで、彼は私との時間を描いているのか。
「今日は帰るよ。……ゆっくり休んでくれ」
扉が閉まる。
ガチャリという音が、世界を分断する音のように響いた。
私はその場に崩れ落ちた。
残酷だ。
彼は知らない。
彼が夢見ているその「未来」には、私の席が用意されていないことを。
彼が愛しているのは、やはりリリアーナという存在そのものなのだ。
私はただの代役に過ぎない。
わかっていたはずなのに。
「隣にいてほしい」という言葉が、どうしようもなく甘く、呪いのように心に巻きついて離れなかった。




