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身代わり令嬢は初恋を終わらせられない  作者: 九葉(くずは)


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7/12

第7話 終わりのシナリオ、未来への問い

 翌朝、朝食の席に着くと、皿の横に一通の封筒が置かれていた。

 差出人は伯爵夫人だ。


 中身を改める。

 上質な紙に、流麗な筆記体で記されていたのは『契約満了後の手引き』だった。


 ――契約終了後、リリアーナは病状悪化のため、北部の別邸へ転地療養とする。

 ――数ヶ月後、現地にて病死したと発表。葬儀は密葬。

 ――貴女には新たな身分証と手切れ金を用意する。王都を離れ、二度と戻ってはならない。


 文字を目で追うたび、体温が下がっていくのを感じた。


 これが、私の未来だ。

 リリアーナという役を演じ終えたら、私はマリアに戻る。

 いや、マリアという名前すら捨てて、見知らぬ誰かとして生きるのだ。


 そこには、ユリウス様の隣どころか、彼の視界の端に映る場所さえない。


「……わかっていたことだわ」


 私は小さく呟き、手紙を暖炉の火にくべた。

 紙が丸まり、黒く灰になっていく。

 まるで私自身のようだった。


 ***


 午後、ユリウス様からの使いが来た。

 週末にオペラを観に行かないか、という誘いだった。

 同封されていた手紙には、私が以前「音楽が好き」と言ったことを覚えていて、人気の演目の席を確保したと書かれていた。


 インクの滲み一つない、誠実な文字。

 彼がどんな顔をしてこの手紙を書いたのか、想像できてしまう。


(行きたい)


 喉から手が出るほど、行きたかった。

 彼の隣で、同じ音楽を聴き、感想を語り合いたい。

 でも、それは許されない。


 カレンダーを見る。

 残された時間は、砂時計の砂のように減っていく。

 これ以上、思い出を増やしてはいけない。

 別れが辛くなるだけだ。


 私は震える手でペンを取った。


『お誘いありがとうございます。ですが、最近は体調が優れず、外出は控えさせていただきたく存じます』


 嘘だ。体調なんて悪くない。

 心が痛いだけだ。


 何度も書き損じそうになりながら、私は短くそっけない返事を書いた。

 「また今度」という言葉すら書かなかった。

 次なんて、ないほうがいいから。


 ***


 返事を出してから三日後。

 私は自室の窓辺で、読みかけの本を膝に乗せたままぼんやりとしていた。

 文字が頭に入ってこない。

 考えるのは、あの時の彼のことばかりだ。

 手紙を読んで、失望しただろうか。「せっかく用意したのに」と怒っただろうか。


 コンコン。

 控えめなノックの音がした。


「お嬢様、お客様です」


 侍女の声に、私は眉を寄せる。

 今日は来客の予定などないはずだ。


「どなた?」

「ユリウス・フォン・オルライト様です」


 心臓が止まるかと思った。

 本が膝から滑り落ち、床に鈍い音を立てる。


「どうして……お断りしたはずなのに」

「ひどく心配されたご様子で。お顔だけでも見たいと、玄関ホールで待っておられます」


 なんて人だろう。

 断られたら腹を立てるどころか、心配して駆けつけてくるなんて。


 会いたくない。

 会えば決心が揺らぐ。

 でも、追い返すわけにもいかない。


 私は深呼吸をして、鏡の前で表情を作る。

 冷たく、無愛想に。

 「病気で機嫌の悪い令嬢」を演じるのだ。


 応接間に入ると、ユリウス様がソファにも座らず、窓の外を見て立っていた。

 足音が聞こえると、勢いよく振り返る。


「リリアーナ!」


 彼は大股で近づいてきた。

 その顔には焦燥と、隠しきれない安堵が浮かんでいる。


「顔色が……思ったより悪くないな。よかった」

「……急なご訪問、驚きましたわ」


 私は彼の手を避けるように、一歩下がって距離を取った。

 わざと冷たい声を出す。


「体調が悪いと申し上げましたのに」

「だからこそだ。手紙の文字が少し震えているように見えて……居ても立ってもいられなかった」


 彼は私の拒絶に気づかないふりをして、優しく微笑む。

 その気遣いが、今は凶器のように痛い。


「大袈裟ですわ。ただの頭痛ですもの。静かに寝ていれば治ります」

「何か欲しいものはないか? 医者は? 僕にできることがあれば何でも言ってくれ」


 どうして。

 どうしてそこまでしてくれるの。

 私は偽物なのに。

 貴方を騙している、最低な女なのに。


 胸が苦しくて、涙が出そうになるのを必死で堪える。

 これ以上優しくしないで。

 嫌いになって。

 「可愛げのない女だ」と見放して。


「……一人にしていただきたいのです」


 私は俯き、ドレスの裾を強く握りしめた。


「誰とも話したくない気分なのです。……ユリウス様でも」


 決定的な言葉。

 ここまで言えば、さすがに彼も気分を害するはずだ。

 沈黙が落ちる。

 彼の息遣いが聞こえる距離で、時間が凍りついたようだった。


「……そうか」


 しばらくして、彼が静かに言った。

 怒声ではない。

 失望の色もない。

 ただ、深く納得したような、沈んだ声だった。


「無理を言ってすまなかった。君の負担になりたくはない」


 気配が遠ざかる。

 彼が踵を返し、扉へと向かう音がした。


 成功だ。

 これでいい。

 私は彼を傷つけ、遠ざけた。

 これで契約終了の日が来ても、彼は「せいせいした」と思ってくれるかもしれない。


 そう思った瞬間、涙が一雫、手の甲に落ちた。

 拭おうとした時だ。


「リリアーナ」


 扉の手前で、彼が立ち止まっていた。

 背中を向けたまま、彼は問いかける。


「君は、僕たちの未来について、どう考えている?」


 ドキリとした。

 未来?

 そんなもの、私にはない。

 あるのは消滅だけだ。


「……どういう意味でしょう」

「僕は、考えている」


 彼はゆっくりと振り返った。

 逆光で表情が見えない。

 けれど、その声には強い意志が宿っていた。


「この先も、五年後も十年後も。君が隣にいてくれる未来を」


 呼吸を忘れた。

 五年後。十年後。

 そんなに先まで、彼はリリアーナとの時間を描いているのか。


「今日は帰るよ。……ゆっくり休んでくれ」


 扉が閉まる。

 ガチャリという音が、世界を分断する音のように響いた。


 私はその場に崩れ落ちた。

 残酷だ。

 彼は知らない。

 彼が夢見ているその「未来」には、私の席が用意されていないことを。


 彼が愛しているのは、やはりリリアーナという存在そのものなのだ。

 私はただの代役に過ぎない。

 

 わかっていたはずなのに。

 「隣にいてほしい」という言葉が、どうしようもなく甘く、呪いのように心に巻きついて離れなかった。

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