第6話 祝福の拍手、硝子の靴
三日前の、あの手の熱さがまだ残っている気がした。
私は自分の右手を見つめる。
馬車の中で強く握られた手。
あの時、私は確かに願ってしまったのだ。
このままずっと、離さないでほしいと。
「……マリア」
冷ややかな声が、甘い回想を切り裂いた。
私はハッとして顔を上げる。
執務室の机を挟んで、伯爵夫人が氷のような瞳で私を見ていた。
「は、はい。申し訳ありません」
「惚けている場合ではないわ。報告によれば、ユリウス様との関係は極めて良好……いえ、良好すぎるそうね」
夫人が扇子を閉じる音が、パチンと響く。
「街へのお忍びデート。帰りはずっと手を繋いでいたとか」
「それは……ユリウス様が、そのように望まれたので」
「結構よ。向こうが夢中になっているのなら、作戦としては上出来だわ」
夫人は立ち上がり、私のそばまで歩み寄る。
そして、私の耳元で囁いた。
「でも、忘れないで。貴女は商品よ。感情を持ってはいけない」
「……承知しております」
「契約終了まで、あと半分。最後まで完璧な人形を演じなさい。それが貴女のためでもあり、あの方のためでもあるのよ」
あの方。
本物のリリアーナ様。
夫人は彼女の名誉を守るために、私という偽物を用意した。
私は深く頭を下げる。
そうだ。私は人形だ。
心なんて、持ってはいけなかったのだ。
***
その夜、伯爵家で晩餐会が開かれた。
小規模なものだが、招かれたのは王都でも有力な貴族たちばかりだ。
リリアーナの快気祝いを兼ねたこの集まりは、私にとって初めての公式な社交の場となる。
シャンデリアが煌めく広間。
グラスが触れ合う音。
華やかなドレスの色彩。
「おお、リリアーナ嬢! 随分と顔色が良くなられた」
「病床に伏せっていたとは信じられない美しさだ」
次々と声をかけられる。
私は扇子で口元を隠し、淑やかに微笑んだ。
「皆様にご心配をおかけしました。この通り、もうすっかり元気ですわ」
完璧な演技。
誰一人として疑っていない。
私が「マリア」という貧乏貴族の娘だなんて、想像もしていないだろう。
「リリアーナ」
背後から低い声がかかる。
振り返ると、正装したユリウス様が立っていた。
黒の燕尾服が、彼の長身をさらに引き立てている。
あまりの凛々しさに、一瞬息が止まった。
「ユリウス様……いらしてくださったのですね」
「当然だ。君の晴れ舞台なのだから」
彼は自然な動作で私の隣に並ぶ。
そして、そっと私の腰に手を回した。
「!」
ビクリと肩が跳ねる。
ここは公衆の面前だ。
こんなに密着しては、周囲の目が――。
案の定、周囲の貴族たちが微笑ましそうに囁き合うのが聞こえた。
「見てごらん、あのお二人の仲睦まじいこと」
「ユリウス様が片時も離れようとなさらないわ」
「まさに理想の婚約者同士ですな」
祝福の言葉。
温かい視線。
拍手さえ起こりそうな雰囲気だ。
けれど、私にとっては針のむしろだった。
違う。
貴方たちが褒めているのは、「本物のリリアーナ」と「ユリウス様」のカップルだ。
ここにいる私は、ただの異物。
絵画の上に落ちたシミのような存在だ。
ユリウス様の腕に力がこもる。
彼は私を引き寄せ、耳元で囁いた。
「顔が硬いぞ。緊張しているのか?」
「……少しだけ。皆様の視線が集まっているので」
「気にすることはない。僕だけを見ていればいい」
甘い言葉。
周囲へのアピールも兼ねているのだろう。
彼は「愛妻家」を演じ、私は「愛される令嬢」を演じる。
共犯関係のような嘘の劇。
でも、彼の体温だけは本物だ。
腰に触れる手のひらの熱さが、ドレス越しに伝わってくる。
それがどうしようもなく心地よくて、泣きたくなった。
(嘘つき)
(泥棒)
(詐欺師)
心の奥底で、もう一人の私が罵倒する。
皆を騙して、幸せなヒロインの座に居座っている私。
この温もりも、称賛も、何一つ私のものではないのに。
「どうした? 気分が悪いのか?」
私の沈黙を案じてか、ユリウス様が顔を覗き込んでくる。
その瞳があまりに綺麗で、真っ直ぐで。
私は反射的に目を逸らした。
直視できなかった。
彼の誠実さが、私の罪深さを照らし出すライトのように思えたから。
「いえ……少し、酔ってしまったようです」
「なら、テラスへ行こう。風に当たれば落ち着くはずだ」
彼は私の返事も待たず、エスコートして歩き出す。
人混みが割れる。
誰もが道を開け、私たちを祝福の目で見送る。
まるで、王子様とお姫様だ。
私は硝子の靴を履いたシンデレラ。
でも、魔法は十二時になれば解ける。
解けなければならない。
***
晩餐会が終わり、自室に戻ったのは深夜だった。
侍女を下がらせ、一人になる。
ドレッサーの前に座り、重たい装飾品を外していく。
首飾り。耳飾り。
そして、左手の薬指に嵌められた婚約指輪。
カラン、と乾いた音を立てて、指輪がテーブルに転がった。
鏡を見る。
そこには、疲れ切った顔の「マリア」がいた。
華やかなドレスを着ていても、中身はただの臆病な娘だ。
ふと、壁のカレンダーに目が留まる。
赤いバツ印がつけられた日付たち。
今日の日付にも、震える手でバツをつける。
契約期間は三ヶ月。
すでに一ヶ月半が過ぎた。
折り返し地点だ。
「……あと、半分」
呟いた声が、部屋の隅に吸い込まれていく。
最初は、早く終わってほしいと願っていた。
借金を返し、家族を楽にして、私は元の平穏な生活に戻るはずだった。
なのに。
今の私はどうだ。
「あと半分しかない」と思ってしまっている。
怖い。
この生活が終わるのが。
ユリウス様に会えなくなるのが。
「リリアーナ」という名前を失うのが。
いけない。
これ以上、深入りしてはいけない。
傷つくのは私だけじゃない。
真実を知れば、ユリウス様だって傷つくのだ。
彼が愛しているのは「変化したリリアーナ」であって、私ではないのだから。
「距離を、置かなきゃ」
私は膝を抱え、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
期待させてはいけない。
期待してはいけない。
終わりは必ず来る。
その時に、笑ってサヨナラが言えるように。
私はカレンダーから目を逸らし、灯りを消してベッドに潜り込んだ。
暗闇の中で、腰に残る彼の温もりだけが、いつまでも消えずに残っていた。




