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身代わり令嬢は初恋を終わらせられない  作者: 九葉(くずは)


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第5話 肯定の言葉、迷い込む指先

 静寂が、耳に痛い。

 ガゼボの中、ユリウス様の視線が私を捕らえて離さない。


 何か言われる。

 身構えた私の鼓膜に、予想外の言葉が届いた。


「正直に言うと」


 彼は一度言葉を切り、少し照れくさそうに視線を庭の紫陽花へと逸らした。


「昔の君は、少し手がかかった。……いや、かなり」

「え?」

「すぐに癇癪を起こすし、僕の言うことなんて聞きやしなかったからな」


 彼は苦笑している。

 懐かしむような、けれどどこか困ったような顔だ。


「でも、今の君は違う。人の話を聞き、考え、相手を尊重しようとする」


 再び、碧眼が私に戻ってくる。

 今度は真っ直ぐに、逃げ場のない強さで。


「僕は、今の君の方が好ましい」


 ドクン、と心臓が大きく跳ねた。


 好ましい。

 その言葉が、熱を持って胸の奥に染み込んでいく。


 否定されたわけではない。

 疑われたわけでもない。

 彼は、今の私――「リリアーナを演じているマリア」を肯定してくれたのだ。


(よかった……)


 安堵の息が漏れそうになる。

 私の演技は間違っていない。

 「淑やかで思慮深いリリアーナ」という役作りは成功しているのだ。


 けれど、安堵のすぐ後ろから、甘い毒のような痛みが這い上がってくる。


 彼が見ているのは、私ではない。

 「成長したリリアーナ」という幻想だ。

 中身が貧乏貴族の娘だと知れば、その好意は一瞬で軽蔑に変わるだろう。


 だから、喜んではいけない。

 この胸の高鳴りは、役者として評価された喜び。

 それだけだ。

 それだけでなくてはいけない。


 私は口角を上げ、完璧なカーテシーの角度で首を傾げた。


「恐れ入ります、ユリウス様。そう言っていただけて、安心いたしました」


 仮面の下で、私は必死に自分に言い聞かせる。

 これは仕事だ。

 感情なんて、邪魔なだけだ。


 ***


 それから数日後。

 私は地味なローブを羽織り、城下町の雑踏の中にいた。


「足元に気をつけて」

「は、はい……」


 隣を歩くのは、平民風の服に着替えたユリウス様だ。

 仕立ての良い騎士服も似合うが、ラフなシャツ姿も驚くほど様になっている。

 道行く女性たちが、すれ違いざまに彼を振り返るのがわかった。


 なぜこんなことになったのか。

 発端は、彼からの手紙だった。


『リリアーナの快気祝いに、街の空気を吸わせてやりたい』


 そんな名目での、お忍びの誘い。

 伯爵夫人は難色を示したが、侯爵家からの申し出を無下にはできず、渋々許可を出したのだ。


「すごい人ですね……」


 今日は市場の日らしい。

 通りは活気に溢れ、様々な匂いと声が混ざり合っている。

 屋敷の閉塞感に慣れていた私には、この喧騒が眩しく、そして懐かしかった。

 実家の近くの市場を思い出す。


 ふと、店先に並ぶ果物に目が留まった。

 赤く熟したリンゴ。

 弟たちが大好きだったものだ。


 無意識に足が止まる。

 それを、ユリウス様は見逃さなかった。


「欲しいのか?」

「えっ、いえ! ただ、綺麗だなと」

「待っていてくれ」


 止める間もなく、彼は店主と二言三言かわし、リンゴを一つ購入して戻ってきた。

 そして、ハンカチで丁寧に拭うと、私に差し出す。


「ほら」

「で、でも……こんな場所で歩き食べなんて、はしたないのでは」


 令嬢としての常識を口にする。

 すると彼は、悪戯っぽく片目を閉じた。


「誰も見ていないさ。今はただのユリウスと、……マリアじゃなくてリリアーナだ」


 一瞬、心臓が止まるかと思った。

 今、何と言おうとした?

 マリア?

 いや、まさか。聞き間違いだ。

 雑踏のせいで、耳がおかしくなったに違いない。


「……ありがとうございます」


 私は震える手でリンゴを受け取った。

 一口かじる。

 甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がった。

 懐かしい味。

 嘘で塗り固められた日々の中で、唯一の本物の味。


「美味しいか?」

「はい、とても」


 自然と笑顔がこぼれた。

 演技ではない、素の笑顔。

 それを見たユリウス様が、ふっと目を細める。


「やっぱり、君は笑っている方がいい」


 その声の響きに、胸が締め付けられる。

 彼は私を見ているようで、見ていない。

 でも、今の笑顔は私自身のものだ。

 彼はどちらに笑いかけたのだろう。

 混乱する頭で、私はリンゴを握りしめた。


 その時、背後から大きな荷車が通り過ぎようとして、誰かが私にぶつかってきた。


「きゃっ」


 体勢を崩す。

 石畳に倒れる――そう覚悟した瞬間。


 強い力で腕を引かれた。


 世界が回転し、次の瞬間には、硬い胸板に顔を埋めていた。

 温かい体温。

 落ち着く匂い。

 ユリウス様が、私を抱き留めていた。


「大丈夫か」


 耳元で響く低音。

 近すぎる。

 心音が伝わってしまいそうだ。


「は、はい。申し訳ありません」


 慌てて離れようとするが、彼の腕は解かれない。

 むしろ、人混みから守るように、さらに強く肩を抱き寄せられた。


「はぐれないように。……僕のそばを離れるな」


 命令形の言葉。

 けれど、そこには懇願のような響きも混じっていた。


 私は小さく頷くことしかできなかった。

 彼の腕の中にいると、自分が偽物であることを忘れそうになる。

 ただの恋人同士のように、守られ、愛されていると錯覚してしまう。


 それは、とても危険で、甘美な罠だった。


 ***


 帰りの馬車の中。

 夕暮れの光が差し込み、車内をオレンジ色に染めている。


 私は窓の外を流れる景色を眺めていた。

 隣に座る彼と目を合わせるのが怖かったからだ。

 今日の彼は優しすぎる。

 これ以上優しくされたら、私は勘違いしてしまう。


「楽しかったか?」


 不意に問われ、私は窓に向けたまま頷いた。


「はい。夢のような時間でした」


 これは本心だ。

 明日からまた、鳥籠の中の生活が始まる。

 今日のことは、一生の思い出として胸にしまっておこう。


 そう決めて、彼の方を向こうとした時だった。


 膝の上に置いていた私の手に、彼の手が重ねられた。


「あ……」


 反射的に引こうとする。

 しかし、彼の手はそれを許さない。

 指と指を絡ませ、しっかりと、逃がさないように握り込んでくる。


 熱い。

 火傷しそうなほどの熱量。


「ユリウス様?」

「もう少しだけ」


 彼は前を向いたまま、私の手だけを強く握りしめている。

 その横顔は、影が落ちていて表情が読めない。


「屋敷に着くまでは、このままでいさせてくれ」


 拒絶できるはずがなかった。

 繋がれた手から、彼の鼓動が伝わってくる気がした。


 一定のリズム。

 私と同じように、少しだけ速いリズム。


 どうして?

 どうしてそんなに切なそうに、私の手を握るのですか。

 私は貴方の愛する人ではないのに。


 問いかけたい言葉は、喉の奥で消えた。

 私は諦めたように力を抜き、その温もりに身を委ねる。

 

 馬車が揺れるたび、肩が触れ合う。

 その距離が、今はたまらなく愛しく、そして怖かった。

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