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身代わり令嬢は初恋を終わらせられない  作者: 九葉(くずは)


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第4話 透明な楔と、語られる過去

 呼吸が止まったまま、心臓だけが早鐘を打っていた。


 十年前の約束。

 資料にない情報。

 これはテストだ。間違えれば、その場で断罪されるかもしれない。


 ユリウス様の碧眼が、静かに私を射抜いている。

 逃げ場はない。

 嘘をついて適当なことを言えば、必ずボロが出る。


 私は覚悟を決めた。

 ドレスの裾を強く握りしめ、ゆっくりと首を横に振る。


「……申し訳ありません、ユリウス様」


 声を震わせないようにするのが精一杯だった。


「病の熱が高かったせいでしょうか。幼い頃の記憶が、霧がかかったように曖昧なのです」


 これは、伯爵夫人と用意していた最後の切り札だ。

 どうしても答えられない問いが来た時は、病の後遺症として処理する。

 卑怯な逃げ道だが、今はこれに縋るしかなかった。


 沈黙が落ちる。

 風の音すら聞こえない数秒間。

 彼が怒るか、失望するか。

 私は身を固くして次の言葉を待った。


「……そうか」


 落ちてきた声は、驚くほど優しかった。


「すまない。君を試すようなことを聞いた」

「え?」

「辛い記憶を呼び起こさせてしまったな。忘れていていい。大したことではないんだ」


 顔を上げると、彼は眉を下げて苦笑していた。

 その表情に、胸が締め付けられる。

 安堵よりも先に、強烈な罪悪感が押し寄せた。


 彼は私を責めない。

 記憶を失った(ふりをしている)私を、ただ気遣ってくれる。

 その優しさが、鋭い刃物のように心に刺さった。


「では、また連絡する」


 彼は短く告げると、馬車に乗り込んだ。

 遠ざかる車輪の音を聞きながら、私はその場にへたり込んだ。


 逃げ切った。

 けれど、勝った気はしなかった。

 私は大切な思い出を踏みにじったのだ。

 「忘れた」という一言で、彼の大切な過去を無かったことにした。


 最低だ。

 自分の冷たい手が、ひどく汚れているように思えた。


 ***


【ナレーション】

 リリアーナが療養していた別邸には、広大な紫陽花園があったという記録がある。

 だが、現在マリアが滞在している伯爵本邸の庭園には、リリアーナの好みに合わせて移植された数株が残るのみである。


 ***


 それから三日後。

 私は再び、侯爵家を訪れていた。


 案内されたのは、以前話題に出た東の庭園だ。

 白いガゼボ(西洋風東屋)の周りには、手入れされた薔薇やハーブが咲き乱れている。

 そして、その一角に見事な白紫陽花の植え込みがあった。


「見事ですね……」


 感嘆の声が漏れる。

 嘘ではない。これほど美しい白紫陽花は見たことがなかった。


「君が好きだと言っていたからな。庭師に命じて、特に念入りに手入れをさせた」


 ユリウス様がガゼボの席を勧めながら言う。

 テーブルには湯気の立つ紅茶と、焼き菓子が用意されていた。


 私は礼を言って席に着く。

 今日の彼は、どこか雰囲気が違った。

 いつもの観察するような視線がなりを潜め、どこか遠くを見るような目をしている。


「先日の話だが」


 カチャリ、とカップを置く音が響く。

 私は背筋を伸ばした。

 約束の話だ。


「十年前の祭り。僕たちは人混みにはぐれて、路地裏に迷い込んだんだ」


 彼がぽつりぽつりと語り始める。

 私は息を潜めて耳を傾けた。


「泣き出しそうな君の手を引いて、僕は必死に出口を探した。その時、君が言ったんだ。『ユリウス様がいれば怖くない』と」


 彼の声は柔らかく、慈愛に満ちていた。

 まるで宝箱から宝石を取り出して並べるような口調だ。


「僕はその時、誓ったんだ。一生、君を守ると。……それが、あの日の約束だ」


 言葉が出なかった。

 なんて、純粋で、真っ直ぐな想いだろう。

 幼い日の淡い恋心と、騎士としての誓い。

 それが今の彼を形作っている核なのだ。


 本物のリリアーナ様は、幸せだっただろうか。

 こんなにも愛されて。

 こんなにも大切に思われて。


(私は……)


 私は、ここにいてはいけない。

 この席は、私のものではない。

 彼の優しい眼差しも、温かい言葉も、すべて死者への手向けだ。

 私はその供物を、盗み食いしている薄汚いネズミに過ぎない。


 胸の奥が熱くなり、視界が滲みそうになる。

 泣いてはいけない。

 泣く資格なんてない。


「素敵な思い出ですね」


 精一杯の笑顔を作って、私は言った。

 声が震えていなかったか自信がない。


「私、そんな大切なことを忘れてしまって……本当に、ごめんなさい」


 謝罪は本心だった。

 リリアーナとしてではなく、マリアとして。

 貴方の思い出を汚してごめんなさい。


 ユリウス様は私を見つめ、静かに首を横に振った。


「いいんだ。過去は過去だ」

「でも……」

「それに、今の君は……あの頃よりずっと強い」


 彼の手が伸びてきて、テーブルの上の私の手に触れた。

 ビクリと肩が跳ねる。

 けれど、振り払えなかった。


「守られるだけの君じゃない。僕は、今の君ともう一度、新しい関係を築きたいと思っている」


 彼の指が、私の指に絡む。

 熱が伝播する。

 その言葉の意味を、深く考えてしまいそうになる。


 新しい関係。

 それは、「変化したリリアーナ」とのことだ。

 決して、「マリア」とのことではない。

 わかっている。

 わかっているのに。


(嬉しいと、思ってしまった)


 その自覚が、私を何よりも怯えさせた。

 この生活は偽物だ。

 いつか必ず終わる。

 期待してはいけない。望んではいけない。


 私は俯き、彼の手からそっと自分の手を引き抜いた。

 拒絶ではないように、慎重に、ゆっくりと。


 紅茶を一口飲む。

 味はしなかった。

 ただ、苦いものが喉を通っていく感覚だけがある。


 会話が途切れた。

 風が木の葉を揺らす音だけが、ガゼボの中に響く。


 次の話題を探さなければ。

 何か、無難な話を。

 天気のこと、お菓子のこと、何でもいい。


 口を開きかけた、その時だった。


「…………」


 ユリウス様が、何も言わずに私を見つめていた。

 

 微笑んではいない。

 怒ってもいない。

 ただ、静まり返った湖面のような瞳。


 その沈黙は、雄弁すぎた。

 私の拙い演技の皮を、一枚ずつ剥がしていくような静寂。


 何か言われる。

 そう直感した瞬間、私の体は石になったように動かなくなった。

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