第3話 視線の温度、距離の迷路
一週間で、三回。
それが、ユリウス様がこの屋敷を訪れた回数だ。
多すぎる。
私の知る限り、貴族の婚約者同士といえど、これほど頻繁に顔を合わせることは稀だ。
ましてや彼は、多忙な侯爵家の嫡男である。
「リリアーナ、この前の続きだが」
サロンのソファで、ユリウス様がページをめくる。
手元にあるのは、難解な歴史書だ。
私が「最近興味がある」と口走ったせいで、彼は毎回こうして本を持参してくるようになった。
「ええ、はい。……西方の動乱についての記述ですね」
私は強張った笑顔で相槌を打つ。
事前の予習が役に立った。
徹夜で詰め込んだ知識を、さも以前から知っていたかのように披露する。
彼は満足そうに頷いた。
けれど、その碧眼は本ではなく、私を見ている。
じっと。
瞬きもせず。
まるで、顕微鏡で未知の生物を観察する学者のようだ。
(……何?)
背筋に冷たいものが走る。
私の顔に何かついているのだろうか。
それとも、メイクが崩れている?
いや、侍女が完璧に仕上げてくれたはずだ。
私は紅茶のカップを持ち上げるふりをして、視線を逸らした。
カップを持つ手が震えそうになるのを、気合いで止める。
「君は、こんなに熱心な読書家だったかな」
不意打ちの言葉に、カップの中の紅茶が波打った。
「病床にいる間、本だけが友達でしたから」
「そうか。……昔は、文字ばかりの本を見ると頭が痛くなると言っていたのに」
「人は変わるものですわ、ユリウス様」
定型文。
この一週間で、この言葉を何度使っただろう。
便利な言葉だが、使いすぎれば不自然になる。
彼は「そうだな」と短く笑った。
その笑みの奥にある感情が読めない。
疑っているようにも見えるし、単に面白がっているようにも見える。
(怖い)
本能が警鐘を鳴らしていた。
この人は、鋭すぎる。
私の演技は完璧なはずだ。
伯爵夫人からも合格点をもらっている。
なのに、彼といると、薄氷の上を歩いているような心許なさを感じるのだ。
***
気分転換に庭を散歩することになった。
風は穏やかで、日差しも柔らかい。
絶好の散歩日和だというのに、私の胃はキリキリと痛んでいた。
並んで歩く。
砂利を踏む音が、二つ重なる。
ふと、気づいた。
歩くペースが、驚くほど合う。
私は背が低いし、ドレスで動きにくい。
対して彼は長身で足も長い。
普通なら、私が小走りになるか、彼が立ち止まって待つことになるはずだ。
けれど、彼は自然に歩幅を狭め、私の速度に合わせてくれている。
こちらを見ることなく、呼吸をするように当然の動作として。
「……歩きやすいですね」
思わず口から漏れた。
彼は不思議そうに眉を上げる。
「何がだ?」
「いえ、その……ペースを合わせてくださっているのが、心地よくて」
言ってしまってから、後悔した。
これは「マリア」の感想だ。
リリアーナなら、エスコートされるのは当たり前だと思っているはず。
修正しなくては。
何か、わがままな一言を付け加えるべきか。
焦る私を見て、彼は目を細めた。
「君が無理をしていないか、気になっただけだ。……それに」
「それに?」
「君の隣は、悪くない」
風が吹いた。
彼の黒髪が揺れる。
真っ直ぐな言葉が、胸の真ん中に突き刺さった。
演技ではない。
お世辞でもない響き。
勘違いしてはいけない。
彼は「リリアーナ」に言っているのだ。
私ではない。
決して、私ではない。
私は唇を噛み、一歩だけ横にずれた。
物理的な距離を取る。
そうしないと、心の距離まで縮まってしまいそうだったから。
「……お戯れを」
冷たく言い放つ。
これくらいでいい。
あまり仲良くなりすぎれば、別れる時に辛くなるのは私だ。
そして、ボロが出る確率も上がる。
屋敷の入り口が見えてきた。
今日の面会も、これで終わりだ。
安堵と、ほんの少しの寂しさ。
相反する感情を抱えながら、私は彼を見上げる。
「今日はありがとうございました。お引き止めして申し訳ありません」
早く帰ってほしい。
そう願う気持ちと、まだ話していたい気持ち。
私は自分の矛盾に戸惑いながら、別れの挨拶を口にした。
馬車が待機している。
彼は手綱を受け取り、御者台の従者に何かを指示してから、振り返った。
「リリアーナ」
呼び止められる。
まただ。
前回の別れ際と同じ。
心臓が嫌な音を立てる。
「はい、何でしょう」
「来月は、王都の創立記念祭があるな」
記念祭。
国を挙げての大きな祭りだ。
夜会も開かれるし、街ではパレードも行われる。
「ええ、楽しみですわね」
無難に返す。
彼は私の瞳を覗き込み、静かに言った。
「十年前の祭りの日。僕たちが交わした約束を、覚えているか?」
時が止まった。
約束?
十年前?
脳内の資料を検索する。
リリアーナの年表。
十年前、七歳の頃。
二人は確かに祭りに参加している。
だが、約束の記述なんてどこにもない。
重要なエピソードなら、伯爵夫人が書き漏らすはずがない。
ということは、取るに足らない子供の口約束か。
あるいは――。
冷や汗が背中を伝う。
沈黙が長い。
一秒が永遠に感じる。
適当に合わせるか?
「忘れてしまいました」と誤魔化すか?
どちらも危険だ。
彼のような鋭い人が、意味もなくそんな話をするはずがない。
これは、テストだ。
彼の瞳が、答えを待っている。
その色は穏やかで、けれど底知れない深さを湛えていた。
「ユリウス様、それは……」
言葉が詰まる。
喉が張り付く。
正解のないクイズを前に、私はただ立ち尽くすしかなかった。




