第2話 硝子細工のティータイム
伸ばされた大きな手が、私の目の前で止まっている。
心臓が早鐘を打つ音が、耳の奥でうるさいほど響いていた。
逃げ出したい。
この手を取ってしまえば、もう後戻りはできない。
そんな恐怖が足元にまとわりつく。
けれど、私はリリアーナだ。
侯爵令嬢として、婚約者の手を取るのは当然の義務。
「……ありがとうございます、ユリウス様」
私は震えを押し殺し、そっと自分の手を重ねた。
彼の指は熱かった。
剣を握る人の手だ。
節くれ立ち、皮膚が硬く、けれど包み込む動作は驚くほど慎重だった。
彼は私をエスコートし、再びソファへと座らせてくれる。
まるで壊れ物を扱うような手つきだ。
「顔色が少し白いな。まだ本調子ではないのか?」
向かいの席に腰を下ろしたユリウス様が、眉を寄せて私を覗き込む。
その瞳にあるのは、疑念ではなく純粋な心配の色に見えた。
「いえ、馬車に長く揺られたせいかもしれません。お気遣い、嬉しく存じます」
用意していた定型文を返す。
資料によれば、本物のリリアーナ様はもっと感情の起伏が激しかったらしい。
体調が悪ければ不機嫌になり、当たり散らすこともあったとか。
だからこそ、私は「病を経て淑やかになった令嬢」を演じなければならない。
それが、伯爵夫人と練り上げた設定だ。
ユリウス様は、ふむ、と短く息を吐いた。
「以前の君なら、こんな日は『帰る』と言い出してもおかしくなかった」
「え……」
心臓が跳ねる。
失敗しただろうか。
変化が急激すぎて、怪しまれている?
私は膝の上でドレスの布地をきゅっと握りしめた。
言い訳を考えようと口を開きかけた時、彼が口元を緩めた。
「いや、責めているわけじゃない。今の君の方が、僕は話しやすい」
え?
予想外の言葉に、私は瞬きをする。
彼の表情は穏やかだった。
冷徹な切れ者と聞いていたけれど、今の彼は春の日差しのように柔らかい。
「病の床で、色々と考えたのです。これまでの私は、ユリウス様に甘えすぎていたのではないかと」
これも、台本通りのセリフ。
殊勝な態度を見せれば、大抵の男性は絆されると夫人は言っていた。
ユリウス様は目を細め、紅茶のカップを手に取る。
「人は変わるものだな。……いい変化だ」
独り言のように呟かれたその言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。
彼は、目の前の私を褒めているわけではない。
「変わってくれたリリアーナ」を喜んでいるのだ。
中身が別人の詐欺師だとも知らずに。
罪悪感が、喉元までせり上がってくる。
私は誤魔化すように紅茶を一口飲んだ。
最高級の茶葉のはずなのに、相変わらず味はしなかった。
***
それから三十分ほど、私たちは他愛のない会話を交わした。
最近読んだ本のこと。
庭に咲き始めた薔薇のこと。
流行りのドレスのデザインについて。
私は事前に暗記した情報を、慎重に切り出していく。
ボロを出さないよう、言葉を選び、相槌を打ち、控えめに微笑む。
ユリウス様は聞き上手だった。
私の拙い話にも真剣に耳を傾け、時折的確な感想を返してくれる。
会話が途切れると、すかさず新しい話題を振ってくれた。
(優しい人……)
それが、偽りの令嬢に対する義務感だとしても。
私に向けられる眼差しが温かいものであることに変わりはない。
緊張が少しずつ解けていくのを感じた。
これなら、なんとかやっていけるかもしれない。
伯爵夫人の脅し文句ほど、彼は恐ろしい人ではなかった。
「そろそろ、休んだ方がいい。無理は禁物だ」
時計を見たユリウス様が、気遣うように切り出す。
あっという間に時間が過ぎていたことに、私は驚いた。
「名残惜しいですが……そうですね。明日からまた、療養に専念いたします」
「ああ。また顔を見せに来てくれるか?」
彼が立ち上がり、私を見下ろす。
その問いかけに、私は反射的に笑顔で頷いた。
「はい、喜んで」
今度は、演技ではなく本心からの言葉が出た気がした。
彼を騙しているという後ろめたさはある。
けれど、この穏やかな空気が心地よかったのも事実だ。
玄関ホールまで、彼が見送りに来てくれることになった。
並んで歩く廊下。
カツ、カツと響く足音が、来るときよりもずっと軽やかに聞こえる。
私は心の中で安堵のため息をついた。
初日はクリアだ。
大きな失敗もなく、むしろ「いい変化だ」と好感触を得られた。
これなら、伯爵夫人にも報告ができる。
馬車の前で、執事のセバスチャンが待機していた。
ユリウス様が私の手を取り、馬車のステップへと導く。
「今日は来てくれてありがとう、リリアーナ」
「いいえ、私も楽しかったです」
ステップに足をかけ、振り返る。
彼は満足そうに頷き、そして不意に思い出したように言った。
「そういえば、君が好きだと言っていた東の庭園の改装が終わったんだ。次はあちらで茶を用意させよう」
東の庭園?
記憶のインデックスを高速で検索する。
リリアーナ様の好きな場所リスト。
……あった。
「まあ、楽しみですわ。あそこの白い紫陽花は、本当に見事ですものね」
私は完璧な笑顔で答えた。
資料には『東庭園の白紫陽花がお気に入り』と赤線が引いてあったはずだ。
間違いない。
けれど。
ユリウス様の表情が、ほんの一瞬だけ、止まったように見えた。
風が凪いだような静寂。
彼の碧眼が、すうっと音もなく深まった気がする。
「……そうだな。綺麗な花だ」
彼はすぐに同意して、微笑んだ。
変わらぬ穏やかな笑みだ。
気のせいだろうか。
今の間は。
「では、また」
馬車の扉が閉められる。
窓越しに見える彼は、馬車が見えなくなるまで手を振ってくれていた。
私はシートに深く沈み込む。
どっと疲れが押し寄せてきた。
大丈夫。
ちゃんと答えられたはずだ。
白紫陽花。
何も間違っていない。
胸の奥に残る小さな棘のような違和感を、私は無理やり飲み込んだ。




