第11話 灰になる記憶、雨音の告白
湖畔でのデートから五日が過ぎた。
出発は、明日の夜明け前だ。
部屋の中は驚くほど広くなっていた。
クローゼットのドレスも、宝石箱も、読みかけの本も。
リリアーナのものであった品々はすでに梱包され、運び出されている。
残ったのは、暖炉の前の私と、小さな木箱一つだけ。
中には、私個人の「思い出」が入っていた。
街で買ってもらったリンゴを包んでいた紙。
観劇のチケットの半券。
彼がくれた何気ないメモ書き。
どれもゴミのようなものだ。
けれど、私にとっては宝石よりも価値のある宝物だった。
「……捨てなきゃ」
夫人の命令だ。
痕跡を残してはならない。
マリアが生きていた証拠は、全て消し去る必要がある。
私は震える手でメモ書きを摘み上げ、暖炉の火に放り込んだ。
紙は一瞬で黒く縮れ、炎に飲まれる。
胸が引き裂かれるように痛い。
一つ燃やすたびに、心の一部が削り取られていくようだ。
全部、嘘だったことにするんだ。
あの優しさも、温もりも、甘い言葉も。
夢だったのだと自分に言い聞かせる。
最後のチケットが灰になった時、私は空っぽになった木箱を抱いて、乾いた音を立てて床に崩れ落ちた。
***
午後から雨が降り始めた。
窓を叩く激しい雨音が、屋敷中の静寂を際立たせている。
「お嬢様」
部屋の扉越しに、執事の声がした。
「ユリウス様がお見えです」
心臓が跳ねる。
来てしまった。
今日だけは、会ってはいけないのに。
「……お断りして」
声を絞り出す。
「熱が下がらないと伝えて。誰とも会いたくないと」
「しかし、ユリウス様は『一目だけでも』と……かなり濡れておられます」
想像してしまう。
雨の中、馬を飛ばして来てくれた彼を。
心配そうな碧眼を。
会いたい。
最後に一目だけ。
「さようなら」と伝えたい。
でも、会えば決心が崩れる。
私は彼に縋り付いてしまうだろう。
「行きたくない」と泣き叫んでしまうだろう。
そんな無様な真似をして、彼を困らせたくない。
「お願い……帰っていただいて」
私は耳を塞いだ。
執事の足音が遠ざかっていく。
私は膝を抱え、うずくまった。
これでいい。
嫌われたほうがいい。
「冷たい女だ」と失望してくれたほうが、彼も早く忘れられる。
***
数分後、再びノックの音がした。
「お帰りになられました」
「……そう」
「ですが、これを預かっております」
執事が部屋に入り、銀の盆を差し出した。
そこには一通の封筒と、薄紙に包まれた何かが乗っていた。
執事が退室するのを待って、私は包みを開く。
現れたのは、白い紫陽花の押し花だった。
あの日の。
東の庭園で、彼が綺麗だと言った花。
手紙を開く。
走り書きのような、けれど力強い筆跡。
『会えなくても構わない。ただ、君が無事ならそれでいい』
『この花言葉を知っているか?』
『――寛容な愛。そして、ひたむきな想い』
視界が歪んだ。
文字が滲んで読めなくなる。
『君が誰であっても、僕は君を想い続ける。いつでも待っている』
嘘だ。
そんなの、ずるい。
誰であっても?
私が貧乏なマリアでも?
嘘つきの詐欺師でも?
涙が溢れて止まらなかった。
喉の奥から、嗚咽が漏れる。
「う、あぁ……っ」
認めたくなかった。
契約だから。
仕事だから。
そう自分を騙してきた。
でも、違う。
私は彼が好きだ。
愛している。
誰かの代わりじゃなく、私として彼に愛されたい。
この屋敷を出たくない。
死んだことになんてなりたくない。
彼の隣で生きたい。
「ユリウス様……ユリウス、様……っ」
名前を呼ぶ。
誰もいない部屋で、何度でも呼ぶ。
これほど誰かを求めたことなんて、生まれて初めてだった。
欲望が、止めどなく溢れ出す。
いい子でなんていたくない。
家族のためとか、家のためとか、どうでもいい。
ただ、彼に会いたい。
私はふらつく足で立ち上がり、窓辺へ向かった。
カーテンの隙間から、外を覗く。
門の前。
激しい雨の中。
一人の騎士が、まだ立ち尽くしていた。
馬も引かず、傘も差さず。
ずぶ濡れになりながら、じっと私の部屋の窓を見上げている。
「……馬鹿な人」
ガラスに手を当てる。
冷たい。
その冷たさが、彼との距離そのものだ。
彼は帰っていない。
私の拒絶を受け入れてなお、そこにいてくれている。
窓を開けて、名前を叫びたかった。
ここから連れ出してと願いたかった。
けれど、私の喉は張り付いたように動かない。
明日の朝には、私はここから消える。
彼が見上げているこの窓には、もう誰もいなくなる。
私はカーテンを握りしめ、声を殺して泣き続けた。
雨音だけが、私の慟哭を隠してくれていた。




