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身代わり令嬢は初恋を終わらせられない  作者: 九葉(くずは)


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第10話 名もなき湖畔、期限の宣告

 馬車が止まったのは、見たこともない森の奥だった。


 道なき道を進み、木々のトンネルを抜けた先。

 そこには、鏡のように澄んだ小さな湖が広がっていた。


「ここは……?」

「僕の秘密の場所だ」


 ユリウス様が手を差し出し、私をエスコートして地面に降ろす。

 鳥のさえずりと、風が水面を渡る音だけが聞こえる。

 人工物は一つもない。

 整備された庭園でも、華やかな社交場でもない、手つかずの自然。


「リリアーナにも、誰にも教えたことはない。……君が初めてだ」


 彼が少し照れくさそうに頬をかく。

 その言葉に、胸が甘く疼いた。


 リリアーナ様との思い出の場所ではない。

 ここは、私と彼だけの場所。

 そう思っていいのだろうか。


「座ろうか」


 彼が木陰にブランケットを広げる。

 籠から取り出されたのは、素朴なサンドイッチと果実水だった。

 侯爵家のシェフが作ったにしては、形が少し不恰好だ。


「これ、もしかして」

「……僕が作った。見栄えは悪いが、味は保証する」


 天下の侯爵令息が、手作りのお弁当。

 驚きで目が丸くなる。

 彼は顔を背けて、「笑うなよ」と呟いた。


 笑うなんてとんでもない。

 愛しさが込み上げて、泣きそうになるのを必死で堪えた。


 ***


 サンドイッチは、少し塩味が強かったけれど、今まで食べたどんな料理よりも美味しかった。

 

 食事を終え、私たちは並んで湖を眺めた。

 肩が触れ合う距離。

 会話がなくても、気まずさは微塵もない。

 ただ、隣にいる体温だけが心地よかった。


 私は今日、決めていたことがある。

 罪悪感は屋敷に置いてこよう、と。

 

 私は偽物だ。

 いつか消える幻影だ。

 でも、今日、この瞬間だけは。

 彼の隣で笑うことを、許してほしかった。


「静かだな」

「はい。世界に私たちしかいないみたいです」


 無意識に漏れた言葉に、彼が反応してこちらを向く。


「……それも悪くない」


 彼が私の手を取り、指を絡めた。


「地位も、家名も、過去も全て捨てて。君と二人でこんな場所で暮らせたら、どれほど幸せだろうな」


 それは、叶わない夢物語。

 侯爵家の嫡男である彼には、背負うべき重責がある。

 私には、消えなければならない運命がある。


 それでも。

 その言葉が描く未来図は、あまりにも魅力的で、残酷なほど美しかった。


「……ふふ、ユリウス様には薪割りもできないのではありません?」

「失敬な。これでも剣の腕には自信がある。薪くらい一刀両断だ」

「まあ、お料理は塩辛かったですけれど」

「うっ……次は加減する」


 二人で笑い合う。

 子供のような、何のしがらみもない笑顔。

 

 幸せだ。

 本当に、心から。

 

 この時間が永遠に続けばいい。

 太陽が沈まなければいい。

 明日なんて来なければいい。


 彼の肩に、そっと頭をもたせかける。

 彼は優しく受け入れ、私の髪を撫でてくれた。

 その大きな手のひらの感触を、私は一生忘れないだろう。

 

 お婆ちゃんになっても、死ぬ間際になっても。

 この日の湖の青さと、彼の温もりだけは、宝物として抱いていける。

 そう思えるほど、完璧で幸福な午後だった。


 ***


 屋敷に戻った頃には、日は完全に落ちていた。


 名残惜しさを隠して、馬車を降りる。

 ユリウス様は玄関まで送ってくれた。


「ありがとう。今日は本当に楽しかった」

「私もです。……一生の思い出になりました」


 重すぎる言葉にならないよう、軽く微笑んで告げる。

 彼は満足げに頷き、私の手の甲に口づけを落とした。


「また会おう。近いうちに」


 その約束が果たされる保証はどこにもない。

 それでも私は「はい」と答えた。

 最後の嘘だ。


 彼の馬車が見えなくなるまで見送り、私は重い足取りで屋敷に入った。

 夢の時間は終わりだ。

 現実に引き戻される感覚に、吐き気さえ覚える。


 ホールには、静まり返った空気が漂っていた。

 執事が無言で頭を下げる。

 その緊張した様子に、嫌な予感が背筋を走る。


「おかえりなさい」


 階段の上から声が降ってきた。

 伯爵夫人だ。

 彼女は冷ややかな目で私を見下ろしていた。


「楽しかったようね。顔が緩んでいるわよ」

「……申し訳ありません」

「まあいいわ。それで、最後の思い出作りは済んだ?」


 最後?

 私は顔を上げる。


 夫人は階段を降りてきて、私に一枚の紙切れを突きつけた。

 それは、馬車の配車手配書だった。


「予定を変更するわ。出発は来週よ」


 耳を疑った。

 来週?

 契約期間はまだ二週間以上残っているはずだ。


「な、なぜですか? まだ期間は……」

「ユリウス様が、貴女に執着しすぎているのよ」


 夫人の声が低くなる。


「これ以上情が移れば、別れ際にごたつくわ。彼が貴女を手放そうとしなくなる前に、終わらせる必要があるの」

「でも……」

「口答えは許さない。これは決定事項よ」


 夫人は私の反論を遮り、冷酷に告げた。


「荷物をまとめなさい。マリアとしての私物は全て処分して。……何も残してはいけないわ」


 彼女は踵を返し、去っていった。

 私は広いホールに一人、取り残される。


 手の中の手配書が震える。

 来週。

 あと七日。


 たったそれだけで、全てが終わる。

 ユリウス様との日々も。

 リリアーナとしての私も。

 あの湖畔での約束も。


 嘘だと言ってほしかった。

 でも、紙に書かれた日付は、無慈悲な現実としてそこにあった。


 足の力が抜け、私はその場に座り込んだ。

 さっきまでの幸福が、遠い過去のように感じられた。

 冷たい床の感触だけが、私に終わりを告げていた。

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