第1話 嘘つきの朝と、再会の午後
鏡の中に、知らない少女が立っている。
艶めく蜂蜜色の髪。
手入れの行き届いた白い肌。
最高級のシルクで仕立てられたドレスは、私が一生かかっても買えない値段だろう。
私は頬に手を当てる。鏡の中の少女も同じ動きをする。
指先が少し震えていた。
「完璧ね」
背後からかけられた声に、私は背筋を伸ばして振り返る。
そこには、冷ややかな瞳をした婦人が立っていた。
この屋敷の主、伯爵夫人だ。
「どこからどう見ても、私の娘……リリアーナだわ」
「……はい、お義母様」
私は教えられた通りに頭を下げる。
カーテシーの角度、視線の落とし方、手の位置。
三ヶ月間、血の滲むような思いで叩き込まれた所作だ。
夫人は満足げに頷いた。
けれど、その瞳に慈愛の色はない。
あるのは品定めするような、冷徹な光だけだ。
「忘れないで。今日から貴女はマリアではない。伯爵令嬢リリアーナよ」
「承知しております」
「失敗は許されないわ。あの方は……ユリウス様は、幼い頃からリリアーナをよく知っている。少しでもボロを出せば、全てが水の泡よ」
夫人の扇子が、私の顎をくいと持ち上げる。
至近距離で見つめられる威圧感に、喉が鳴りそうになるのを必死で堪えた。
「正体がバレれば、貴女の居場所はこの国のどこにもなくなる。……意味はわかるわね?」
「はい」
短く答える。
声を震わせないことだけで精一杯だった。
本物のリリアーナ様は、もういない。
流行り病だったと聞いている。
だが、家門の存続と、王家とも繋がりのある侯爵家との縁談を維持するため、伯爵家はその死を隠匿した。
そして選ばれたのが、私だ。
遠縁の貧乏貴族の娘で、顔立ちがリリアーナ様に似ていた私。
「行きなさい。馬車が待っているわ」
夫人はもう私に興味を失ったように、窓の外へ視線を向けた。
私はもう一度深く礼をして、部屋を出る。
廊下を歩く足音が、やけに大きく響いた。
カツ、カツ、カツ。
まるで断頭台へ向かうカウントダウンのようだ。
でも、逃げるわけにはいかない。
実家の借金は、この契約金ですべて清算された。
弟たちは学校に通えるようになった。
私がこの役目を全うすれば、家族は幸せになれる。
大丈夫。
私はマリアじゃない。
私はリリアーナ。
愛らしく、病弱で、少しわがままな伯爵令嬢。
胸の中で呪文のように繰り返しながら、私は玄関ホールへと降りていった。
***
【ナレーション】
侯爵家は王都の一等地に広大な敷地を有している。
代々、騎士団長や宰相を輩出してきた名門中の名門であり、その嫡男であるユリウス・フォン・オルライトは、文武両道の麒麟児として社交界でも注目の的だった。
リリアーナとは幼少期からの許嫁であり、二人の婚約は家同士の強固な結びつきを象徴している。
***
馬車に揺られること三十分。
到着した侯爵家の屋敷は、想像を絶する大きさだった。
整えられた庭園。
威圧感のある石造りの本邸。
出迎える使用人たちの数だけでも、実家の住人より多いかもしれない。
「リリアーナ様、お待ちしておりました」
執事が恭しく馬車の扉を開ける。
私は差し出された手を取り、地面に降り立った。
膝が笑いそうになる。
ドレスの裾を強く握りしめ、なんとか笑顔を作った。
「久しぶりね、セバスチャン。みんなも元気だった?」
事前に覚えさせられた使用人の名前と特徴。
セバスチャンは古株の執事で、リリアーナ様が幼い頃から仕えている。
彼は一瞬、目を丸くしたように見えた。
心臓が跳ねる。
何か間違えただろうか。
「……はい、恐悦至極にございます。リリアーナ様もお元気そうで何よりです」
セバスチャンはすぐに柔和な笑みを浮かべ、屋敷の中へと案内してくれた。
気のせいだったかもしれない。
過敏になりすぎているのだ。
案内されたのは、日当たりの良い応接間だった。
高い天井。壁に飾られた名画。
ふかふかのソファに腰を下ろしても、全く落ち着かない。
「ユリウス様は執務室にいらっしゃいます。すぐに参りますので、少々お待ちください」
紅茶が置かれる。
豊かな香りが立ち上るが、今の私には泥水と変わらないだろう。
喉を通る気がしない。
ユリウス様。
資料で見た彼の肖像画を思い出す。
黒髪に、理知的な碧眼。
冷徹そうに見えて、リリアーナ様には不器用ながらも優しかったという。
彼を騙すのだ。
幼馴染であり、婚約者である彼を。
一番近くにいた彼を、一番遠い私が演じる。
罪悪感が、じわりと胸に広がる。
(申し訳ありません、ユリウス様)
心の中で謝罪する。
けれど、口には出せない。
この嘘は、墓場まで持っていかなければならないのだから。
ガチャリ。
重厚な扉が開く音がした。
思考が停止する。
呼吸が止まる。
入ってきたのは、長身の青年だった。
仕立ての良い騎士服に身を包んでいる。
黒髪は少し乱れていて、忙しさを物語っていた。
そして、その瞳。
透き通るような碧色が、私を真っ直ぐに射抜く。
肖像画よりもずっと、鮮烈で、圧倒的な存在感。
本物の、ユリウス様だ。
私は慌ててソファから立ち上がり、淑女の礼をとる。
「お久しぶりです、ユリウス様」
声が裏返らなかったのは奇跡だった。
顔を上げると、彼が数歩、こちらへ近づいてくるのが見えた。
足音が止まる。
私と彼との距離は、わずか二メートル。
彼は何も言わない。
ただじっと、私の顔を見つめている。
探るような、見定めるような視線。
心臓が早鐘を打つ。
汗が背中を伝う。
バレた?
一目見ただけで、偽物だと見抜かれた?
恐怖で足が竦みそうになった、その時だった。
「……リリアーナ」
彼が私の名前を呼んだ。
その声は、予想していたよりもずっと低く、そして驚くほど穏やかだった。
「少し、雰囲気が変わったな」
彼の大きな手が、ゆっくりと私の方へ伸ばされる。
逃げ出したい衝動を抑え、私はその場に立ち尽くすことしかできなかった。




