灯火
自己とは、社会との摩擦のなかで立ち上がるものである。個人と社会の境界面にこそ自意識は芽生える。他者とは、自己が世界を区別しようとするときに初めて形作られ、その総体が社会となる。
一般に「大衆」と呼ばれる人々に自我が希薄に見えるのは、彼らに自我が欠けているからではない。ただ単に、社会との軋轢や摩擦がきわめて少ないために自我が表面化しないだけだ。
数字はものを数える必要が生じたときに、言葉は他者と意思疎通する必要が生じたときに要請される。同じように、自我とは他者や社会と対決せざるを得なくなったときに初めて求められる機能である。ゆえに自我は数字や言葉と同列に扱うべきもので、必ずしも常に備わっていなくてはならないものではない。それらはある意味で“嗜好品”とも言える。数字を用いずとも暮らすことはできるし、言葉や自我もまた、摩擦が閾値を超えるまでは真価を問われることがない。地下深くに秘匿されたまま、眩いほどの輝きを放つ機会も訪れないのである。
数字を、言葉を、そして自我を、まるで自らの四肢のように自在に操る者とは、社会と自己の狭間――すなわち板挟みの状況を引き受け、それを乗り越えようとする者である。それをしなくても生きていけるのなら、それに越したことはない。摩擦を引き受けずとも幸福に至れるのであれば、数字も言葉も自我も、何の役にも立たない道具にすぎないからだ。
社会と自己の狭間で奮闘することが幸福なのかどうかは、誰にも断言できない。そこには祝福も傷跡も、等しく混在している。ただ一つ言えるのは、自我とはその狭間をどう生きるかを照らし出す微かな灯火であり、それを明かりとするか否かは、結局のところ各人の選択に委ねられているということである。ただし、その灯火を掲げるということは、同時にその光が照らし出す影をも引き受けるということに他ならない。




