さよなら、ケイト
激痛という「ノイズ」が消失し、ケイトが人間であることをやめ、冷徹な「演算装置」へと変貌する——その静寂と狂気を描きます。
(続き)
警告音が、不意に止んだ。
鼓膜を震わせていた不快な電子音も、胸を貫いていた杭のような激痛も、まるで潮が引くように一瞬で消え去った。
世界が、静寂に包まれる。
(……死んだのか?)
いいや、違う。感覚はある。だが、それは以前のような重苦しい肉体の感覚ではない。
ケイトは、自らの意識が身体という「殻」から剥離し、もっと純粋で透明な領域へと浮上したのを感じた。
視界を覆っていた『CRITICAL ERROR』の赤黒い明滅が霧散する。
代わりに広がったのは、氷のように透き通った、淡いブルーのグリッド構造だった。あらゆる物質が、輪郭線と数値情報へと還元されていく。
『——痛覚信号、マスキング完了』
『——FPC同期率、99.9%。自律駆動モードへ移行します』
脳裏に響くシステムの声は、先ほどまでの無機質な警告とは異なり、まるで女神の祝福のように滑らかだった。
ケイトの唇が、自然と歪む。
成功したのだ。「痛み」という人間特有のバグを、システムが完全に掌握した。今の彼にとって、脚の筋肉が断裂しかけていようと、心臓が悲鳴を上げていようと、それは単なる「損耗率」というパラメータの変動に過ぎない。
「……素晴らしい」
自分の声さえも、デジタルの波形として視認できた。
ケイトは、意識だけでギアを一段上げた。肉体へ命令を下す必要はない。「加速」と念じるだけで、FPCスーツが筋肉を強制的に収縮させ、アスファルトを爆発的な力で蹴り出す。
キロ3分00秒。
2分58秒。
2分55秒。
かつてない速度領域。だが、苦しさはない。まるで氷の上を滑走しているかのような、無重力の疾走感。
視界の隅で、白い塊が並走しているのが認識された。
セイラの乗るエアカーだ。
窓が開き、彼女が何かを叫んでいる。涙に濡れた顔が必死に口を動かしている。
だが、ケイトの認識フィルターは、もはやそれを意味のある「言葉」として処理しなかった。
『検知:並走車両(障害物)。音声入力:無関係なノイズ。推奨:無視』
(ああ……そうだ。お前はただの、背景の一部だ)
かつて愛おしいと感じたかもしれないその表情も、今や「感情値のエラー」としか映らない。ケイトは瞬き一つせず、セイラの存在を意識のワークスペースからデリートした。
興味があるのは、前方の一点のみ。
夜明けの太陽が、巨大ビルの隙間から顔を出し、ハイウェイを一直線に照らした。
その光の回廊の先に、影が見えた。
人間離れした美しいフォームで走る、半透明のシルエット。
リョウだ。
いや、あれはリョウの亡霊ではない。あれこそが、ケイトが追い求めた「到達点」の具現化だ。
影は、ケイトを振り返ることなく、ただ冷徹に前だけを見つめて走っている。
その背中には、迷いも、痛みも、愛も、何もない。あるのは純粋な「速度」だけ。
(やっと、辿り着いた。俺は今、お前と同じ景色を見ている)
ケイトの胸中を満たしたのは、勝利の歓喜ですらない。ただ、数式が美しく解けた時のような、静謐な納得だった。
「さようなら、ケイト」
彼は、人間であった自分自身に別れを告げた。
加速する。さらに加速する。
ブルーのグリッドに覆われた世界で、彼はセイラの叫びを置き去りにし、ただ一つの「鋭利な線」となって、光の中へと溶けていった。




