追いつけない過去の記憶
高速道路の防音壁が、一定のリズムで視界の端を飛び去っていく。
拡張現実(AR)グラスの表示によれば、現在のペースはキロ3分15秒。一般人なら全力疾走に近い速度だが、ケイトの強化された心肺機能にとっては、まだ「アイドリング」の範疇に過ぎない。はずだった。
『警告。心拍数の上昇率が予測モデルを逸脱しています。ペースダウンを推奨。直ちにペースダウンを——』
耳元の骨伝導イヤホンが無機質な警告を繰り返す。ケイトは舌打ちをし、音声ガイドをミュートした。
自分の心臓が、肋骨の内側で早鐘を打っているのは分かっている。肺が焼きつくような熱を持っているのも。だが、この痛みだけが、彼を過去の亡霊から遠ざけてくれる唯一の手段だった。
(……そうだ。あの時も、雨が降っていた)
脳内の酸素濃度が低下したせいか、意識のレイヤーが現実から過去へとスライドする。
五年前。大規模都市開発プロジェクト「アルカディア」の最終フェーズ。
ケイトには、背中を預けられる唯一の相棒がいた。リョウ。同期であり、同じFPC契約を結び、互いの脳内チップをリンクさせて思考を共有していた男。二人は一対の翼のように、完璧なシンクロ率で膨大なタスクを処理していた。
だが、システムトラブルによるデータ崩落事故が起きたあの日。
瓦礫の下で身動きが取れなくなったケイトを見下ろして、リョウは言ったのだ。
『悪いな、ケイト。二人共倒れになる確率は98.7%だ』
リョウの瞳には、焦りも、悲しみもなかった。ただ、冷徹な計算結果だけが映っていた。
彼はケイトの手を握りしめるのではなく、接続されていたリンクケーブルのコネクタへ手を伸ばした。
『プロジェクトの完遂には、俺のデータだけでも生き残る必要がある。……これが「最適解」だ』
カシュッ、という乾いた音が、今も耳に残っている。
物理的な接続が断たれた瞬間、ケイトの脳内に流れ込んでいたリョウの思考ノイズ――「申し訳ない」という感情の残滓――が、プツリと途絶えた。
リョウは背を向け、崩れゆく通路の先へと走り去った。一度も振り返らなかった。その背中がどんどん小さくなっていく。
泥水に浸かったまま、ケイトは手を伸ばした。届かない。指先が虚空を掴む。
それが、ケイトにとっての「埋められなかった距離」だった。
(人間は、不確定だ)
ハイウェイのアスファルトを蹴る足に、怒りの力が加わる。
リョウはその後、プロジェクトを成功させた英雄として称えられた。ケイトを切り捨てた判断さえも、「危機管理における冷静な意思決定」として評価されたのだ。
人間は、笑顔で嘘をつく。
「絆」や「信頼」という曖昧な言葉で飾り立てながら、究極の選択を迫られた時、平然と他者を踏み台にする。リョウのように。あるいは、今の自分を心配するふりをするセイラのように。
彼女の優しさも、結局は「夫を看取った良き妻」という社会的スコアを獲得するための演技ではないのか? 疑心暗鬼というノイズが、脳裏を走る。
(だから俺は、数字しか信じない)
ケイトは呼吸を整え、さらに加速した。
AIは裏切らない。FPC契約は、命を代償にする限りにおいて、絶対的な能力を保証してくれる。そこには感情も、偽善も入り込む余地はない。
機械になりたかった。
痛みを感じず、後悔もせず、ただ最適解だけを弾き出す、完全無欠なシステムの一部に。
「ガッ……!」
突如、左胸に鋭利な杭を打ち込まれたような激痛が走り、ケイトの足がもつれた。
視界が赤く染まる。ARグラスに『CRITICAL ERROR』の文字が点滅する。
足が止まる。膝が崩れる。
だが、彼は倒れる寸前でガードレールに手をつき、歯を食いしばって耐えた。
「まだだ……まだ、届いていない……」
誰に? 何に?
遠ざかるリョウの背中にか。それとも、人間という不完全な種を越えた先にある、孤独な頂にか。
汗と冷や汗が混じり合い、アスファルトに滴り落ちる。
夜明けの光が、苦悶に歪む彼の顔を無慈悲に照らし出していた。
…続く




