無機質な朝と寄り添う機能
西暦二〇四二年、六月。東京・立川近郊のハイブリッド住宅街。夜明け前の空気は、AI制御の換気システムによって、常に無菌で安定した温度に保たれている。
音もなく開いた寝室の窓から、朝焼けが僅かに差し込む。部屋の中央に置かれたキングサイズのベッドの上で、夫のケイトは規則正しい寝息を立てていた。
彼の左手首には、日常の健康データを企業に送信し続けるバイオ・センサーが埋め込まれている。そのセンサーの表面が、ごく短い間だけ、青から赤へ、そして再び青へと変色した。警告が即座にシステムによって補正されたことを示す、一瞬の色のブレ。
隣で眠っていた妻のセイラは、その微細な変化を見逃さなかった。彼女は寝たふりを続けながら、内側で冷たい不安の波に飲まれていた。
(今日で、また一日が過ぎた。契約が、また一日、履行された)
ケイトは一ヶ月前、AIの最終診断システムから、不可逆の「リミット」を受け取っていた。その日以来、彼は朝五時に起きる。
彼は枕元の小型スクリーンをタップし、今日のスケジュールを確認する。朝のランニング、午前はリモートワークで重要プロジェクトのコードレビュー、午後は顧客とのAIシステム導入会議。一秒の無駄もない、非の打ち所のないスケジュールだ。
リビングへ向かうケイトの背中に、セイラが声をかける。
「ケイト、まだ六時前よ。今朝はジョギングじゃなくて、ストレッチだけにしておいたら?」
ケイトは振り返らず、透明な壁に投影された世界時計を見つめたまま、いつも通りの明るい声で答えた。
「いや、今日は少し負荷を上げたい。五キロは通過点だ。目標の距離まで、まだ遠いからな。俺の体はパーフェクト・コンディションだ。昨日もAIが保証してくれただろ?」
「……ええ、そうね。パーフェクト」
セイラは、彼の言葉を反復することしかできなかった。彼女の目に映るケイトの頬は、先週よりも微かにこけ、ランニングウェアの隙間から覗く首筋の静脈が、不自然に浮き上がっているように見えた。システムが「パーフェクト」と保証する彼の体は、確実に、彼の命を削った過去のFPC契約の代償を払い始めていた。
ケイトは玄関のドアを開け、都市の早朝の冷気を体に浴びた。彼は大きく息を吸い込み、固く握りしめた拳の中で、自分自身に言い聞かせた。
(今度こそ、たどり着く。あの時、埋められなかった距離の、その先へ)
そして、彼は電子錠が閉まる音を背に、闇夜の続くハイウェイの下を、一人走り出した。彼の残された命のタイマーが、刻々と時を刻むのを感じながら。
…続く




