婚約破棄を計画的に行う方法
懲りずに婚約破棄ものです。
「ナターシャ・コバルトヴォルト!俺はお前との婚約破棄を申請する!」
ーー来たわね。
舞台の上には、ナターシャの婚約者であるニール・ルインスキーが、顔が隠れるほどの可愛らしいピンク色のオストリッチの羽のついた大きなリボンハットを頭に乗せた令嬢と腕を組みながら、こちらを好戦的な目で睨みつけている。
ナターシャの通う技術養成貴族学院では、時折『真実の愛』に狂った令息、あるいは令嬢の婚約破棄劇場が公開される。それは、必ずと言っていいほど最終学年の生徒が巻き起こし、卒業パーティであったり、学園祭の後夜祭であったり、学年末の打ち上げ会だったりとまちまちであるが、必ず全校生徒が集まるような大きな祭事の時なのだ。
問題を起こす貴族家にとって、知名度が下がるどころか没落まで危ぶまれる恥さらしな出来事なのに、それに対し学院も国も何も言わない。校則に則り全ての出来事は学院内の出来事として捉えられる。問題を起こした卒業生達については、個人あるいは家の問題とされ、それ以上の醜聞を話題にしない様、箝口令が敷かれている。そして教師たちもまるで余興のように壁際で待機したまま、手出しをしないのだ。初めて遭遇する一年生はオロオロし、過去のパーティを知っている二年生は傍観し、そして卒業式を迎える三年生は、自分の番が来るのではとビクビクする。そして、ナターシャが指名された時、何人かの生徒は自分でなかったことにホッと息をつき、餌食となったナターシャに憐憫の視線を向けるのだ。
友人たちと立食を楽しんでいたナターシャは、誰にも気付かれないほど、ほんの少しだけ口角を上げた。
「聞いているのか!ナターシャ・コバルトヴォルト!お前との婚約は今宵をもって破棄すると言ったのだ!」
ナターシャは顔を上げて、ステージに近づいた。舞台の上に立ち蔑むように見下ろすニールと、その視線を真っ向から受け止め対抗するナターシャを、周囲は円を描くように囲んだ。
自分の婚約者が、この一年ほど別の女にうつつを抜かしているのは知っていた。いや、あっちへフラフラ、こっちへフラフラしていたのは学院に入った頃からだから、三年もフラフラ浮気をして歩いていることになる。道を踏み外すなと、こんこんといって聞かせてきたはずなのに、全く聞く耳を持たず鼻の下を伸ばして、ハニトラにハマったバカな男。
ナターシャは背筋を伸ばし、ニールにすました顔を向けた。
――卒業祝いに、婚約破棄を計画的に行う方法を、身をもって教えてさしあげますわ。
「しっかりとこの耳で聞き留めましたわ。婚約破棄、侯爵家の有責でお受けいたします」
「な…っ!?」
「そもそもこの婚約は。ニール様、あなたがお望みになった事ではありませんか」
「子供の頃のお前は愛らしかったからな!侯爵家の俺が選んでやっただけでもありがたく思うがいい!」
「まあ、選んでやった、ですって?」
ナターシャは、スッと手にした扇を開くと口元を隠した。
「そうだ!しがない伯爵家の女を、俺のような侯爵家の嫡男が選んでや「そのしがない伯爵家の10にも満たない子女に圧力をかけ、嫌がる私を脅した貴方に感謝しろと?」…はぁ!?」
自分の発言の途中で被せるように遮られたことに目を丸くして、令息らしく無いとぼけた声をあげるニールにナターシャは容赦なく言葉を紡ぐ。
「そんなこ「まだ幼い弟を羽交い締めにして泣かせ、お前の弟がどうなってもいいのか、と脅しをかけたことをお忘れですか?」…えっ?」
――弟を羽交い締めにしたのは、勇者ごっこをしていた時。私が魔王でニールが勇者、五つ下の弟は囚われのお姫様の役割だったわね。今考えてもおかしな配役ではあったけど、最後にはどちらが悪役かわからなくなったわ。あれは、元々の性格なので仕方がないのでしょうけど。
が、そんなことは親切に説明する必要もない。勇者役であるはずのニールが、お姫様役だった弟を羽交い締めにして泣かせたのは、事実だから。
ニールが狼狽えたところで、それまで余興とばかりにニヤニヤと眺めていた全校生徒がざわりとする。
「俺がいつそん「それでも嫌がり、両親に相談するから待ってほしいと懇願した私に詰め寄り、私が抱きしめていた愛犬のメグを奪い取り、首を落として腹を裂き、内臓を引き摺り出したこと、忘れてはおりませんよ」……へっ!?」
ヒッと息を呑む傍観者たち。十にも満たない子供のやる所業では無い。なんて残虐な!と、非難する声も上がり始め、ギョッとして後ずさったニールに、冷たい視線が注がれる。
――愛犬メグは私が3歳の誕生日に兄からもらった、ふわふわのぬいぐるみ。クリーム色の耳が可愛らしく垂れ下がり、ちろりと出た赤い舌が愛らしかった私の宝物。どこへ行くにも一緒でしたわ。それを無惨にも引きちぎられて、私は本当に悲しかった。傍若無人なニールは私の大切なぬいぐるみを引きちぎったことなど、これっぽっちも覚えていないに違いないでしょうが。
「そんなことをした覚えは「貴方が覚えていなくても!愛犬を目の前でズタボロにされた私の心は恐怖と悲しみに溢れ、私のかわいい弟までもが同じ目に遭うのではないかと、貴方との婚約を了承するしかなかったではありませんか!」
いくら侯爵子息とは言え、そんな非道なことが許されたのか、とざわめきは次第に大きくなると同時に剣呑な視線がニールに突き刺さる。教師たちもこれは驚きの目でこちらの様子を窺っているようだ。
「う、うそだ!そんな嘘にだま「そうやって無理矢理婚約者に据え置き、事あるごとに、お前の家族がどうなってもいいのなら俺に逆らうがいいと言い、私が嫌がることを無理矢理……っ。そこまでして私を手元に置いておきながら、別の女性が好きになったからと、私に冤罪を被せ、その上で婚約を私の有責で破棄しようと企てたことぐらい、わかっていますわよ!」…な、なんでそれを!」
傍観者たちが悲鳴を呑み込んだ。
――おバカなニールはうっかり本音を吐いてしまったから、きっと下品な方々はとんでもない明後日の方向へ妄想を繰り広げていらっしゃるでしょうね。私の貞操も疑われているのでしょうが、この国で結婚なんて望んでいない私には、大したことではない。それより大事なのは、どちらが被害者かをわからせることですもの。
実際のところ、嫌がることと言っても、毛虫のたかる林檎の木に登って籠いっぱいの実をもぎって来いだとか、剣の練習をするのに、ナターシャに防具をつけ打ち合いの標的にしただとか、兄様の部屋から掠め取ってきた春本を一緒に読めと強要したとか、まあ、些細なことだった。
ニールの中で、ナターシャは令嬢ではなくおそらく子分か弟か何かだと認識されていたのだろう。おかげでナターシャは木登りの技も剣術も瞬く間に上達し、ニールより強くなってからは強要されなくなった。ニールは、剣も棒も振り回すばかりで型を覚えようとはしなかったし、運動神経が残念だったせいもあり、学院に通い始めた頃からニールに避けられていた記憶はある。
「ふざけるな!貴様、俺に冤罪を掛けて侯爵家を侮じょ「貴族子息が、ある時期になると学ぶはずであろう人体図鑑や教本を、我が兄の書斎から盗み出し、私に読めと強要したこともありましたわね。そのポーズを強要したことも!全ては、かわいい弟をあなたの悪虐非道な行為から守るために、私がどれだけ我慢を強いられてきたかご存知?貴方の浮気を認め、侯爵家の有責で婚約破棄を受け取ると言っているのです。その他のことは涙を呑んで、ここで提起は致しません」
――何が悲しくて婚約者と一緒に、女体図鑑や閨のテクニック教本を読まねばならないのか。ニールはどう思ったのか知らないが、視覚から入る情報は衝撃的で、男性や結婚に対する夢はすっかり萎んでしまったわ。ああ、思い出しただけでも気持ち悪い。
ちなみにニールが強要したポーズは、閨の前に男性が行うという筋力ストレッチ運動。体の硬いニールはスクワットができず、木材でできたリングで腰を動かすのもできなかったので、ナターシャにやってみせろと強要したのだった。踊り子のように腰を振る動きはちょっと刺激的でドキドキしたナターシャだったが、運悪くそれを見たお母様方に私がしこたま怒られた。もちろん理由を泣く泣く説明し、その後で兄ロベルトもニールも怒られていたけれど。兄にしてみればいいとばっちりだっただろう。
「なっ、なんて非常識な!」
「ふしだらだ!」
「ひどい!下劣だわ!」
「紳士の風上にも置けない!」
「悪魔だ!人間じゃない!」
「人体図鑑ってなんですの?」
「そっ、それは、その」
純真な令嬢達が首を傾げ、言葉を濁す令息たちと、こっそり耳打ちをして閨に関する本であり、女体図鑑だと告げる令嬢たちの声が会場に響く。それが聞こえたらしいニールが羞恥で顔を真っ赤にする。
意外に純真な男である。
「ま、待て待て待て!俺はそんなことはしていない!お、お前が!嫉妬したお前が!ここにいるアンナに酷いことをしたのだろう!俺が!お前を!婚約破棄しているんだ!問題を掏り替えるな!」
「アンナ?どなたです?」
「ふざけるな!ここに……っ!?」
ニールが振り返ったところには、誰もいなかった。分が悪いと思ったアンナ嬢は、早くからさっさと退場しているのだが、気がついていなかったと見える。
「…えっ?あれ…?あ、アンナ?どこへ行ったんだ!?」
「そんな姿も見えない妄想の女性に、何ができるというのです?冤罪を掛けるにしても、もう少しマシな方法はなかったのですか?」
一瞬の沈黙の後、どっと笑いの渦が会場を埋め尽くした。ニールは恥ずかしさと怒りとで顔をどす黒く変え、震える指で私を差し、がなり立てた。
「う、うるさい!うるさい!お前が恐ろしい嘘をつくせいで、アンナは恐れをなして隠れてしまったんだ!お前はアンナを池に落とし、全身ずぶ濡れにして笑「見たのですか?」…なにっ?」
「池に落ちて全身ずぶ濡れになった女性を見たのですか?ニール様が助けたのでしょうか?」
「…っ、お、俺は助けては、いないが、しかしっ」
「学院の池というと、高学年校舎と職員棟の間にある蓮池が一番深いと思われますね。校舎脇にある水路はせいぜい足首までの深さ、全身ずぶ濡れになるような深さではありませんよね。ここ数年は水不足のため、中央広場の噴水も止めてありますものね?
ところで、蓮池は転落防止のため、私の腰の高さほどの柵がかけられていますが、それを乗り越えて飛び込んだ、ということでしょうか?それとも私がアンナ嬢を担ぎ上げ、蓮池に投げ込んだとでも?」
「そ、それ、は……っ」
「そしてそのアンナ嬢は全身ずぶ濡れになりながらも、柵を跨いで自力で這いあがり学舎に戻った、ということですね?蓮池の浮き草が絡まったドレスで這い上がるのは大変だったでしょうね。アンナ嬢がずぶ濡れだったところを見た方は?職員棟から蓮池はよく見えますが、生徒が落ちたと連絡を受けた先生方は?」
誰もがお互いの顔を見合わせるが、手を挙げる者はいない。
――当然よね。嘘の演出のために自分から池に飛び込む女性がいたらお目にかかりたい。その上手すりを乗り越えて濡れたドレスで這い上がるなんて、まさにゴリラ女です。そんな女性が大人しく突き落とされるわけがありません。それに底は泥沼。下手をすれば死体も上がらないかもしれませんわ。
「そっ、それに、お前は学院で禁止されているタバコも吸っていたそうじゃないか!それをアンナに見つかり太ももに火のついたタバコを押しつけて火傷を「まあ!ニール様は彼女の太ももをご覧になったのですか?」…えっ?!」
「太ももにタバコの火傷跡って、まさかスカートを捲し上げて確認したのですか?未婚女性の素足を?」
会場は、きゃあっという黄色い声に包まれた。
「ち、ちがっ!見てない!確認はしていない!」
ニールも顔を赤らめて慌てて否定するが。
「では、全て自己申告のお話を信じられたのですね?その、いるのかいないかもわからない女性の戯言を?」
「戯言なんかじゃ…!」
「ニール様、貴方は彼女の何を知っているというのです?」
「あ、な、何って、アンナは…」
「質問を変えますわ。アンナ嬢はどちらのクラスの方ですの?どちらの令嬢ですか?」
「あ、アンナは…お、お前と同じクラスだと…。アンナは男爵令嬢で、」
「あら。残念ですが。私のいる上級魔導士養成科にいる女性は三人。エヴァンス子爵家のメリル様と、アンカー伯爵家のジョージア様だけですの」
「な…っ、そんなはずは!」
「……まだ、気がつかないのですか」
――はめられたのだ、ということに。
上級魔導士養成科に女性は少ない。ナターシャのクラスには十二人の男性の中に、女性が三人だけなので、団結力は桁違いである。上級魔導士養成科の試験は難しく、普通の魔力の持ち主では直ぐに脱落するため、全体数も少ないから全員が顔と名前を覚えているはず。
それに加えてもう一つ。実はこの学院には、スカウトで決まる極秘学科という特殊クラスがある。それこそがこの学院が国立である所以なのだ。この学院は、表向き貴族学院ではあるが、実は魔導士、諜報員など国の要職員の養成所でもある。見込みのある生徒がスカウトされ、個別に訓練が行われる。そしてそれが学年末試験など全校生徒の前で披露される。
子供の頃からのニールの嫌がらせに付き合わされたせいで、おかしな方向にスキルが傾いてしまったナターシャは、入学半年の中間試験の後、斥候科と諜報科にスカウトされた。極秘学科に関しては、誰がどの科に属しているかは黙秘され、卒業まではスカウトをした師匠とマン・ツー・マンの訓練を受ける。スカウトを受けない生徒は知らぬまま、学院を卒業していくのだろう。だからこの馬鹿げた舞台劇も起こりうるのだ。
――私は将来のために両方のスカウトを受け入れた。
舞台の上で何が起こったとしても学院側が阻止することはないし、そこで特別学科の生徒の合否が決まる。会場に紛れているプロが何人もいるのだ。知らない者は何も知らず、特別学科に属している生徒は目を鋭くしてどちらが仲間かを見極めようとする。
わかりやすく言えば、諜報員として育成され、ハニートラップ要員として生きる生徒がいたとする。その生徒は学院生の中で引っかかりやすそうな生徒を見極め、ハニートラップを仕掛ける。引っ掛かる人間がいれば、その生徒は無事合格。そして引っかかった生徒は国の要職から排除される、弱肉強食の世界なのだ。
つまり。
――アンナ嬢はこちら側の人間で、試験にはギリギリ合格といったところだろうか。残念ながら、情報をきっちり調べなかった彼女は、私が同胞だったとは気づかなかった。それは彼女のミスである。
この国は極度の実力重視の国であり、貴族に厳しい。貴族という立場にあぐらをかき、贅沢を極めるだけのバカな子息子女は、フルイにかけられあっという間にその立場をなくす。そして毎年のようにハニトラや詐欺に引っ掛かる生徒は一定数存在する。
引っかけた生徒の数が多ければ多いほどその人物は優秀で、引っかかった側は能無しの役立たずとして排除される。ただし、飛び抜けた素質のあるものは戦士や官吏、諜報員、男娼や娼婦として調教し直されるらしい。
役に立たないと見做された者は平民に落ち、害になると見做された者は奴隷に落ちる。害になる子息子女を生み出した家族も貴族爵を剥奪されるから、子育ては皆慎重になるはず、という目論みもある。
それは、高位貴族や王族も例外ではなく、低位貴族よりも処罰は厳しくなる。稀に焼印を手首に押され、避妊施術をした上で国外追放される。奴隷の方がマシではないかと思われ得る所業だが、プライドが勝りその道を選ぶ王族も過去にはいたらしい。ただ、王族に関してはおそらく既に情報が提供され、バカを王室から生み出さないようにしているのだろうが。
この婚約破棄はナターシャに対する試験でもあった。どのように自身の危機を対処し、周囲を味方につけるか。どこまで状況を理解し、窮地をどう脱するか。
――私の兄がやらかしたのを見て、反面教師として学んでいるはずなのに。残念で仕方がない。
そう。兄、ロベルトが五年前にやらかして以来、私の人生は180度変わった。
五年前。
騎士科で素晴らしい成績を残した兄のロベルト・コバルトヴォルトが、卒業パーティで婚約者であるルイーザ・マティナス侯爵令嬢に婚約破棄を告げた。それによって、コバルトヴォルト家は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。家同士の契約を無視して、伯爵家の子息が侯爵家の令嬢を人前で断罪したのだから。
結果、兄はそれまでの栄華も名声もドブへ捨てて、辺境へ飛ばされた。
ルイーザ様は、学院で起こった一部始終を妹になり損ねた当時12歳の私、ナターシャ・コバルトヴォルトに教えてくれた。もしも、このようなバカをしでかす男がいたら、その行く末はこうなるのだと戒めも含め、もし自分の婚約者の様子がおかしいと思った暁には、どう対処するべきかということまで。
「いいこと、ナターシャ。殿方は得てして女性の誘惑に弱い。特に、体と涙を使った籠絡戦で勝てる男性は多くいません。貴女は伯爵令嬢として、そのことを肝に銘じておかなければならないのです」
「ルイーザ姉様?なんの話です?」
「男性は、貴族令嬢の何たるかを知らず、女性に対し理解に薄く、夢みがちな生き物です。か弱く儚げで、自分無しでは生きていけないと思わせるような女性に非常に弱い。貴女はそういった女性になりたいですか?」
「えっと、よくわかりません」
当時ナターシャはまだ12歳。愛だの恋だの駆け引きだのとは縁遠かった。そして婚約者ニールはナターシャと同い年。まだまだ剣を振り回して遊びたい年頃で紳士からは程遠く、偉そうに威張り散らすガキ大将さながらの男でもあったため、できる限り一緒にはいたくなかったのだ。アレに合わせたくは無いとは思っても、ではどんな女性になりたいかなどと聞かれても、ピンと来なかった。
「ナターシャ。貴女は可愛いわ。その天真爛漫さと容姿を利用して、殿方に対し上手に甘え体を密着させ、欲しいものをねだり、自分の手のひらで幾人もの要人を転がしたいと思うのであれば、それも一つの手段。そのためには技を磨き、いつでもどこでも涙を流せるように訓練しなければなりません。諜ほ…いえ、女優になる気概はありますか?」
「女優……ですか」
「ただし、女優になると決めたからには、お触りやキスも嫌がらず、体を武器として使う必要も時としてあるでしょう。そして強かでなければなりません。12歳の今のあなたには少し厳しいかもしれませんが、訓練すれば無理なことはないでしょう。貴女は、同年代の子息や、年配の貴族に媚を売ることができますか」
ナターシャは眉を顰めた。媚を売るなど下賤な真似は、淑女として相応しく無いと学んだからだ。ましてや女である事を武器にするなど。
「ルイーザ姉様、私は淑女ですわ。その、それは、あの、しょ、娼婦という仕事をする方がするのではありませんの?」
「ナターシャ……その言葉はどこで覚えたのかしら?」
「あ、あの、兄様の春本に載っていました」
「春……!?あの腐れ外道は一体自分の妹に何を…!」
何か淑女らしからぬ言葉がルイーザの口から飛びだし、背後から魔力が膨れ上がるのを見て、ナターシャは慌てた。
「いえ、あの!私の婚約者のニールが一緒に読めと強要してきたので、その。本は兄様のものでしたが、兄様のせいではないのです」
「……はぁ。貴女の婚約者にも問題がありそうですわね……。ニールというと、ルインスキー侯爵家の長男かしら」
「は、はい」
「仕方がないわね……。いいこと、ナターシャ。娼婦は責任や権力に圧迫された殿方に休息を与え、一時の夢を見せるために存在するプロの方々。煽てることはしても、媚を売ることはしないし、貴族や王族の正妻を目指してもおりません。ですが貴族令嬢の中には、その地位を得るために手段を選ばない方も存在しているのも確か。そしてそれを仕事とし、国を乱れさせる存在も一定数います」
「私はそんな手を使ってまで地位が欲しいとは思いませんし、国を乱れさせるなんてこと、考えたこともありません」
「上位貴族夫人の地位には興味がないと?」
「私は…どちらかというと仕事に生きたいと思うのです。ニールのような婚約者に振り回されることに嫌気がさしています」
「それがたとえ、政略結婚だとしても?」
「…私の結婚が、お家のためになるのでしたらそれも仕方がありません。たとえ政略結婚であっても、お互い思いやり、家族のように支え合うことができればいいと思います。ですが、それすら出来ない相手でしたら、仕事をして己を立てた方がよほど家のためになるのではないでしょうか」
「ええ、そうね。貴女が自立心旺盛な令嬢で私は嬉しいわ、ナターシャ」
「あの、ルイーザ姉様は兄を、ロベルトを、愛していたのでしょう?辛くはありませんか」
端から見るとルイーザとロベルトはお互い寄り添い、仲がいいように見えた。ナターシャはルイーザを慕っていたし、二人の学院卒業後、成人の儀とともに正式に義姉妹になるのだと信じていた。
「私はロベルト様の相棒として良い関係を築けるよう努力をしてきました。最初はロベルト様もそのように考えていたのでしょうが…。あの方は女性に対し、違うものを求めていたのでしょうね。対等の存在ではなく、守るべき存在を。だからこそあっという間にソフィア様に籠絡され、『愛こそ全て』と思うようになり、私たちの婚約を破棄なさったのでしょう。そしてそれは受理されました」
「ではルイーザ姉様は、」
「貴女と義姉妹になることは叶わなくなりました」
「あぁ…!」
「『真実の愛』とやらの熱病に浮かされた殿方は全部で五人。ソフィア嬢に籠絡され、全員婚約破棄をなさいました」
「……えっ?全員がソフィア様と真実の愛を?」
「ふふっ。そこが殿方の浅はかなところなのですよ、ナターシャ。全員が全員、籠絡され、自分こそがソフィア様と結ばれると思ってしまったのです」
「あ、兄も…?」
「ええ。貴女のお兄様も残念ながら。幸い、貴女の弟君がお家を守ることになるので、伯爵家はそれほど問題はないでしょうが、ロベルト様は…」
「兄が、突然辺境地に派遣されたのにはそんな理由があったのですね?」
「ええ。貴女のお兄様は、我が侯爵家との契約を蹴り、男爵家の娘にうつつを抜かしたのですから、その損害を補う責任ができてしまったのです。これから十数年という日々を辺境で償い、私への迷惑料も含め、両家の事業に出た損害を払わなければなりません」
「…バカなお兄様」
「本当に。ですが、ロベルト様は好成績で学院を卒業されましたし、騎士としての実力があったのでまだ良い方なのですよ。伯爵領主にはなれませんが、縁切りをされたわけではない。補償後は希望であれば伯爵領に戻り、弟君を手助けすることも可能でしょう。まあ、熱が冷めていればの話ですが。籠絡された令息たちの中には、役に立つ知能と実力を持っていなかったがため廃嫡され、国外追放あるいは娼館に落とされた者もいましたから」
「娼館…!?」
「男娼の需要は多いので、違約金はすぐに払い終えることはできるでしょうが、ご本人が立ち直れるかどうか」
「それで、その、ソフィア男爵令嬢はどなたを選ばれたのですか?」
「誰も。彼女は高位貴族子息たちを陥落させる目的で、そのように仕向けていたのです。卒業後の行方は知られていません」
「そ、そんな…罰を受けていませんの?それでは騙された令息たちが」
「学院では、騙される方が悪いのですよ、ナターシャ。私たち高位貴族の子息子女は大抵が家同士の契約結婚をします。信用が第一なのに、騙されて人生、果ては領地や領民をダメにするなど、あってはならないこと。それを学ぶための学院だというのに、最後の最後という試験で爵位を賜る人間として失格したということなのですから。ナターシャも学院で自分を磨き、見る目をしっかり養わなければなりません。学院では特にそういったことについて学ぶのです」
「る、ルイーザ姉様。私、騙されるのは嫌です」
「かわいいナターシャ。今後、私とは会うこともなかなか叶わないかも知れませんが、最後に貴女の姉になり損ねたルイーザ・マティナスから、今後の貴女に役立つであろう忠告を送ります。これは誰にも言ってはなりません。ですが、あなたがもし婚約者の軌道を直そうというのであれば、手を貸すのは許しましょう」
ルイーザ姉様は、この国の闇を教えてくれた。殺伐とした実力主義者の弱者に対する仕打ちも、強者となった人たちの行く末も。
そうして学院に入って思い知った。人を信用するという事を無能とし、感情を弄び、人を人とも思わないこの国のやり方を。ニールに恋心があるわけでも後ろ髪を引かれるほどの愛情があるわけではないが、人生の半分ほども婚約者だったのだ。単純で威張りん坊のニールではあるが、悪人というわけではない。ちょっと煽てに乗りやすく、浮気性で、口も頭も軽く、運動神経が皆無で、かわいい女性に夢を見る普通の少年だっただけ。それを無能と決め切り捨てる国に反抗心が疼く。
ルイーザ姉様は、やはり兄を愛していたのだと思う。試験のために人の心を弄んだ諜報員が憎い。自分と兄の未来を切り裂いた国が憎い。そうして、兄の婚約破棄事件から家との縁を切り、反乱軍に入った。兄様は未だ辺境で騎士として生きてはいるが、騙されたことに憤っている。同じように排除された子息子女達は闇に潜り、反乱軍に入っていると聞いた。両親は私の卒業式の前に荷物をまとめて既に国を出た。長男が騙され底辺に落とされ、長女が国の駒として求められたのだ。家族を愛する両親が、怒らないわけがない。
もしも、ニールが国外追放されたのなら、せめて安全に隣国に辿り着くまで面倒を見てやってもいいと思うくらいには情はある。結婚したいとは思わないけれど。私もこの式の後、とっとと国を出る予定だ。追われる身になるのは必須だろうけれど。
「あ、アンナは、アンナは俺の…」
ニールが蹲るように膝をつき、ぽつりと涙をこぼした。
「運命のお相手だとでも?」
「違う。…アンナは俺の理想の女性、なんだ」
「……理想の女性」
「そうだ。か弱くて、可愛くて、優しくて。俺がいないと、守ってやらないと」
「か弱く、ねぇ」
「アンナは、俺の女神なんだ!」
「……はぁ、そうですか。わかりましたわ。先ほども申し上げたように、あなたの有責で婚約破棄はお受けいたします。ご両親にはあなたから、きっちり話してくださいませ。私の両親はすでに了承済みですので。私としては大袈裟にせず、婚約解消を申し出てくださればそれで了承しましたのに、残念ですわ、ニール様」
アンナは当然、ニールの前から永遠にその存在を消した。
風の噂では、ニールは結局、親に定められた10歳上のお相手と結婚を強いられたそうだ。廃嫡されて平民になるか、年上の奥方を迎えて尻に敷かれるかの選択を強いられて、後者を選んだという。おそらくは監視されているのだろう。
少なくとも、我が家に払う慰謝料は伯爵家が消えているから払う必要はないことだけが救いだろうか。
ルイーザ姉様達の率いる反乱軍は徐々に数を増やし、そろそろ革命を起こすのではないかと思われる。実力主義を誇る国も、どれほど諜報員や魔導士を集めようと、心に怒りを持つネズミを無視していれば噛みつかれることを知るべきだ。
いつの間にかロベルト兄様も借金を払い終わり、隣国で両親と落ち合ったらしい。当然家族は貴族ではなく、平民としてひっそり生きている。
かくいう私もまんまと国を逃れ、3つ離れた外国へと逃れ、フリーの魔導士として生き延びている。ただし、師匠達にストーキングされているので、まだまだ私の逃亡生活は続いている。革命が始まれば、私なんぞに構っている暇はないと思うけど。
〈完〉
読んでいただきありがとうございます。誤字脱字報告ありがとうございました。直しました。