妻に「世界史の“カノッサの屈辱”って響きがかっこいいよなw」って言ったら「屈辱を味わった人の気持ちも考えたら?」と家の中に入れてもらえません
きっかけは朝のニュースだった。
今時の高校生、のような特集をやっていて、そこから妻と「得意科目はなんだった?」というような話になったのだ。
ちなみに俺の得意科目は世界史だった。元々暗記は得意だったし、子供の頃歴史漫画をよく読んでたのもあって、授業が苦痛だったことがない。定期テストでは90点を下回ったことはなかったと思う。いや、少し見栄を張ったか。80点だったかな。
すると――
「あなたもなの。私も世界史が得意だったのよ」
「へえ、そうなんだ」
まさかの得意科目一致。
妻と知り合ったのは社会人になってからだったし、こういう話をするのは初めてだったな、などとしみじみ思う。
しばらくは何時代が特に好きだったとか、こんな覚え方があったなぁ、とか昔に戻った気分で雑談を交わす。会社に行くまでの穏やかな朝のひと時である。
そして、俺は笑いながらこう言ったのだ。
「“カノッサの屈辱”ってあったけど、あれ響きがかっこいいよな」
私もそう思うなんて返事を期待しながら、俺は妻をチラリと見た。
だが、妻は俺に同意するどころか、冷ややかな目で俺を見つめてきた。
「なぜ……笑っているの?」
「え?」
「屈辱を味わった人の気持ちも考えたら?」
こんなことを言われて、俺もきょとんとしてしまう。
「カノッサの屈辱」は1077年の出来事だ。1000年近く前の出来事や人物について「気持ちを考える」なんてバカげてるにもほどがある。歴史上の人物や出来事なんてネタやオモチャにしてナンボだろうが。今の時代、女体化された人物すらいるし。
だから、俺はこう言ってやった。
「そんなの考えてられるかよ。バカバカしい」
これに対し、妻は驚くほど冷たい声で「そう」とつぶやくのみだった。
俺はそれをあまり気にすることなく会社に出かけた。
***
カノッサの屈辱について簡単に説明しておこう。
これは1077年に起きた事件だ。
当時ローマ王ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世は聖職叙任権を巡って争っていた。
聖職叙任権とは、キリスト教会における司教などを任命する権限で、この権利を有するということは大きな権威・利益につながるからだ。一般企業だって、上に立った人間は自分にとって役に立つ人間を重職につけたくなるものである。
やがてこの叙任権闘争はこじれ、グレゴリウス7世はハインリヒ4世を破門した。
さすがに破門はヤバイとなったハインリヒ4世は、教皇がいるカノッサまで出向き、雪が降る中、三日間も城の外で許しを乞うことになった。
結果的に破門は解かれるも、傍から見ると「王でさえ教皇には敵わないんだな」と映ったことだろう。
実際には二人の対立はまだまだ続いたりするのだが、世界史の授業で習った内容はだいたいこんな感じだったと思う。
まさか、遠い昔に遠い国で起こったこの事件が、俺をあんな目にあわせることになるとはね……。
***
会社にやってきた俺。
朝の流れで、俺は同世代の同僚にも世界史に関する話題を振った。
「なぁ、歴史上の出来事とかで響きがかっこいいな、と思った単語ってあるか?」
同僚もそれなりに歴史の知識があるらしく、話に乗ってきた。
「“アウステルリッツの三帝会戦”だな」
「おー、なかなかかっこいい響きだな。確かナポレオン時代の戦争だっけ?」
「ああ。フランス皇帝、オーストリア皇帝、ロシア皇帝が集まって戦争するんだ」
「“三帝”って響きがいいよな。四天王みたいで」
「そうそう!」
他にも――
「“球戯場の誓い”もイカすよな!」と俺。
「“三頭政治”もかっこいいよな。キングギドラみたいで」と同僚。
「“エドワード黒太子”なんてのもいたよな」
「この手の話題で、“十字軍”は外せないっしょ。何回遠征したか忘れたけど」
「清は“眠れる獅子”なんて呼ばれてたってな」
「“無敵艦隊”もロマンを感じる」
まるで中学や高校の時代に戻ったように、こんなノリでワイワイキャッキャと盛り上がる。
「“墾田永年私財法”は口に出したくなるよな」
「早口で三回言えるか?」
「こんでんえいねんしざいほう、こんでんえいねんしざいほう、こんでんえいねんしじゃい……あー、ダメだ!」
どんどん話が脱線してくるのもお約束だ。
この低レベルな歴史談議(?)は課長から小言を言われるまで続いたのだった。
***
夜の7時過ぎ。俺は帰宅する。
会社ではこれといった問題はなく、穏やかな一日だった。あとは風呂に入り、夕食を済ませ、テレビでも見た後、寝るだけ。そんな風に考えていた。
玄関のドアを開けようとする。
「……ん?」
開かない。ドアに鍵がかかっている。
どこかに出かけてるのか、と思ったが、家に明かりはついているし、留守という感じがしない。
俺は鍵を持ってないのに……と舌打ちし、インターフォンを鳴らす。
……妻は出ない。
もう一度インターフォンを鳴らす。
……やはり出ない。
だったら連打だ! 俺はボタンを押しまくった。
すると、ようやく反応が。ドアを一枚隔てた内側から、妻の声が聞こえてきた。
「破門よ」
は?
この一言だけだった。
「なんだよそりゃ! 破門ってどういうことだ! オイ!」
ドアをドンドン叩く。もはや妻の反応はない。
俺は叩きながら、今朝のやり取りを思い出していた。カノッサの屈辱について笑ったら、妻が「屈辱を味わった人の気持ちも考えたら」と言ったあのやり取りだ。
今の状況は三日間外で許しを乞いたハインリヒ4世と似ている……のかもしれない。
まさか妻の奴、俺に彼の気持ちを味わわせるためにこんなことを!?
冗談じゃない!
「俺にカノッサの屈辱を味わわせようってか? ふざけんな!」
再びドアをドンドン叩く。やはり反応はない。
もしかしたら、どこか窓の鍵が開いてるかも……と家の外の全ての窓を探るが、無駄だった。全部鍵が閉まっている。
仕事から疲れて帰ってきた俺をこうまで徹底的に締めだすとは!
俺は許しなんざ乞わないぞ!
「開けろ! 誰の稼ぎで食ってると思ってんだ!」
つい口調も荒くなってしまう。が、効果なし。
俺の張り上げる声に、俺を見てくる通行人まで現れる。騒ぎを大きくして通報などされたらそれこそ赤っ恥だ。俺は大声を出すのをやめた。
だったらスマホから妻に電話をかけてみよう。
何度もかけるが……出てくれすらしない。
誰か知り合いに電話をかけて仲裁を頼むことも考えたが、さすがにみっともなさすぎる。「妻からカノッサの屈辱されちゃいました」なんて説明したら、みんな呆れることだろう。
……仕方ない。
俺は腹をくくり、ドアの前で体育座りになってドアが開くのを待つことにした。
「……」
ただ待つというのは退屈だ。
とはいえ、現代人にはスマホがある。これでゲームをするなり、動画を観るなりすれば、バッテリーがある限りいくらでも時間を潰せる。
三日間も外にいたハインリヒ4世は一体どうやって暇を潰してたんだろう? 中世ヨーロッパの娯楽というと……なんだろう、部下とチェスとか? この場合、部下は接待とかしたんだろうか。今クイーン取れるけど、あえて取らない……みたいな。中世から下っ端ってのは大変だったんだなぁ。でも王と直接チェスできる時点で下っ端ではないか。だいぶランク上だよなきっと。
おっと、どんどん妄想が広がってしまう。
スマホいじりも飽きてきた。バッテリー残量はまだ38%、余裕はある。が、お腹が空いてきた。風呂に入りたい。温かいご飯を食べたい。布団で眠りたい。
今夜は野宿になるんだろうか。
時間はまだ夜の8時前、1時間足らず家に入れないだけなのにこんなに辛いとは思わなかった。ハインリヒ4世は三日間、それも雪の中という条件だったのだ。それに比べたら、今の俺の状況がなんとぬるいことか。
ハインリヒ4世、寒かったかい?
ハインリヒ4世、辛かったかい?
ハインリヒ4世、あなたはどんな気持ちだったんだい?
いくら心の中で問いかけても、答えてくれる者はいない。だが、今の俺なら少しはハインリヒ4世の気持ちが分かったような気がする。
俺は心から謝罪したくなった。ハインリヒ4世に。
「ごめんよ……ハインリヒ4世……」
うっすらと涙を浮かべる。
すると、ドアが開いた。
家の中の明かりが俺を照らす。
俺が思わず顔を見上げると、そこには慈悲に満ちた笑みを浮かべた妻の顔があった。
「お帰りなさい、あなた」
「破門を……解いてくれたんだね」
「ええ。破門なんかしてごめんなさい……」
俺は涙を流していた。妻も涙を流していた。
門は開かれ、破門は解かれた。
こうして決して教科書に載ることはない「俺んちのカノッサの屈辱」は終わりを告げた。
***
食卓には温かいご飯と味噌汁、豚肉の生姜焼きと野菜炒めが用意してあった。
「食べて……いいのかい?」
「ええ、もちろんよ」
「いただきます!」
ご飯はいつもより美味しく感じられた。ハインリヒ4世も破門を解かれた後の食事は美味しかったのだろうか。
「今朝はごめんな」
「ううん、いいの。私の方こそムキになっちゃって」
味噌汁をすすりつつ、俺はしみじみ語る。
「俺……ハインリヒ4世の気持ち、ちょっと分かったかも。すごく不安で……寂しかった」
すると妻も――
「私もグレゴリウス7世の気持ち、分かっちゃったかも。人を外で謝らせてるというのも……辛いんだなって」
「だよな。俺も会社でミスした後輩に謝られる時あるけど、そんなにいいもんじゃないしな」
ここで、妻が「あ、そうそう」と何かを思い出す。
「近所の奥さんからこれ貰ったの。今度、二人で行かない?」
妻が取り出したのは二枚のチケットだった。駅前にあるイタリアンレストランの食事券だ。あまり洋食が好きではないということで、譲ってくれたという。
それを見て、俺は思わず笑った。
「ハインリヒ4世とグレゴリウス7世は叙任権を巡ってイタリアで戦ったが、俺たちはイタリア料理のお食事券を手に入れたってことか」
「そうね」と妻もクスリとする。
すっかり仲直りした俺たちは、そのムードも手伝って、夫婦で外に出た。
「今夜は比較的星がよく見えるわね」
「ああ、空気が澄んでるんだろうな」
ちなみにカノッサの屈辱後、ハインリヒ4世は1084年に帝冠を受け、神聖ローマ帝国皇帝となる。そしてやり返すような形でグレゴリウス7世を追放し、グレゴリウス7世はサレルノで生涯を終えた。が、ハインリヒ4世もまた、息子や諸侯の反乱を受け、失意のうちに亡くなることになった。神様が喧嘩両成敗にでもしたのだろうか、と思ってしまうような幕切れである。
人間、生きていれば対立や喧嘩もするだろうが、やはりなるべく喧嘩はするものではないな、と俺は思った。
「ハインリヒ4世とグレゴリウス7世……天国でどうしてるかな」
「きっと仲良くなって……幸せに暮らしてるわよ」
「そうだな!」
俺と妻の心は通じ合った。
夜空には、あの世で和解を遂げたハインリヒ4世とグレゴリウス7世の笑顔が浮かんでいるように見えた。
おわり
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