第九十二話
「『フィーリム』」
エルケーニヒは小さく呟き、その指先から糸を伸ばす。
一本の細い糸は気絶したヴェルターの傷口を縫合し、血の流出を止めた。
「…意外と、慈悲深いのですね」
「皮肉か? 慈愛の魔女」
「いえ、心からの称賛です」
作り物じみた笑みを浮かべ、シャルロッテは言う。
「私としても、この人が死んでしまったら悲しいですから。ありがとうございます、助けてくれて」
「………」
エルケーニヒは初めて、目の前の存在に吐き気を催すような嫌悪感を感じた。
その身勝手さ、傲慢さ以前に、人の形をしていることに違和感を覚える。
魔女は大なり小なり狂っている存在だが、この女はその中でも常軌を逸している。
瀕死の人間に慈悲の手を向けたと思えば、数分後にはその命を刈り取るような。
自らの手で殺した相手の死を、翌日には涙を流して悲しむような。
完全に精神が破綻している。
人間以外の存在が、人間のふりをしていると言った方がまだ信じられる。
「ですが、もう死んで下さい。マルガレーテ様にも貴方様を殺すように命じられていますので」
シャルロッテは片手を振り上げた。
その腕を中心に黒いマナが吹き荒れ、怨霊の渦となる。
エルケーニヒから奪い取ったマナ、そして魔法。
「マナの大半を奪われた貴方様に、コレは防げません。自身の力に潰されなさい」
嘲るような笑みを浮かべ、シャルロッテは告げる。
魔王と呼ばれた力が、エルケーニヒ自身へと向けられる。
「『シュタルカー・ヴィント』」
瞬間、渦の軸となっていたシャルロッテの腕が斬り飛ばされた。
「くっ…」
傷口から黒い炎が吹き出し、シャルロッテの身を焼いていく。
それを見たシャルロッテは急いで肩から先を切断し、腕を改めて再生させた。
「…邪魔をしないでくれますか?」
「それは、聞けない相談ね!」
黒剣を握り締め、エリーゼはシャルロッテに突貫する。
振るわれる斬撃。
飛び交う風の刃。
その全てに黒い呪詛が込められており、掠るだけでも命を消費する。
魔女殺しの刃。
魔王エルケーニヒと同じくらい、魔女にとっては危険な相手だ。
だが、
「捕縛しなさい」
それは、先程までの話だった。
「ッ!」
床から伸びる無数の鎖がエリーゼの全身を縛り上げる。
エルケーニヒのマナを手にしたことでシャルロッテの魔法は強化された。
その力を前に、斬らなければ敵を殺せない魔法など、通用しない。
「弾けなさい」
瞬間、エリーゼを縛る鎖が爆ぜる。
全身に熱と衝撃を浴びせられ、エリーゼの身体が床に崩れ落ちた。
「これで、おしまい」
そう言ってシャルロッテは指先を動かす。
それに合わせてエルケーニヒの身体が動き出し、シャルロッテの前に身を出した。
「どうです? 自分の魔法で操られる気分は?」
「チッ、最悪だな。今までに俺が操ってきた死体達も、こんな気分だったのか」
見えない糸で身体を操られながらエルケーニヒは呟く。
マナを使って魔法を破ろうとしているが、今のマナでは不可能だった。
「『プラエドル・アニムス』」
シャルロッテの右手がボコボコと蠢き、手の平に口が開く。
マナと命を喰らう口だろう。
他者を食い物としか見なしていないシャルロッテらしい魔法の形だ。
「残りのマナと命を貰います」
「ハッ、魔王を完全に喰らうか。腹壊してから後悔しな」
不敵な笑みを浮かべるエルケーニヒだったが、もう打つ手は無かった。
魔女の手がエルケーニヒへ触れる。
その時だった。
「…またですか?」
魔女の手は、またしても阻まれていた。
今度は斬り飛ばす余裕も無かったのか、二人の間に割り込むようにエリーゼがシャルロッテの手を握り締めていた。
丁度、エルケーニヒからシャルロッテを庇った時の、ヴェルターのように。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
「火傷だらけの足で、よく動けましたね。ですが…」
「ぐ…う…!」
エリーゼは自身の中からマナが吸い上げられる感覚を覚えた。
命ごと力の全てを奪われるような感覚に、思わずその場に膝を突く。
「自らを犠牲にしてでも他者を守る。エリーゼ様。貴方様も愛に溢れたお方だったのですね」
嘲笑するように上から目線で賛辞を述べるシャルロッテ。
その犠牲も、その努力も、何の意味も無いことを嗤いながら。
「…犠牲?」
エリーゼは顔を床に向けたまま、呟いた。
「私は、意味の無い自己犠牲なんてしない。例え、命を懸けることがあったとしても…」
そう言ってエリーゼは顔を上げた。
その眼には諦めは無く、強い意思を持ってシャルロッテを射抜く。
「全て、敵に勝つ為よ!」
「何を言って…」
ドクン、とシャルロッテは自身の心臓が鼓動が強くなる音を聞いた。
血液のように全身を巡るマナ。
そのマナの流れが、おかしい。
「マナを奪う魔法! でも、貴女が今奪った私のマナって何! 私の魔法って、一体何だった!」
「!」
マナは魔法そのものでは無いが、シャルロッテは奪ったマナからその持ち主の魔法が使える。
他者から奪い、シャルロッテの全身を流れるマナの中には、持ち主の魔法が宿っているのだ。
『ニグレド』
魔女だけを殺す呪いを、魔女自身が取り込んでしまったら…
「あ、あああああああああああァァァァァ!」
シャルロッテの全身を突き破り、無数の黒い刃が飛び出した。




