第八十六話
ウェネフィカで最も高い場所。
この都市に建てられた魔道協会支部の最上階。
教区長の部屋にて、その部屋の主は外を眺めていた。
「………」
若々しい容姿をした細身の男だった。
立場に相応しい上質な服に身を包んでいるが、あまり着こなしているとは言い難い。
決して醜い容姿をしている訳では無いが、威厳や自信には欠ける印象を受ける。
ありふれた、悪く言えば平凡な容姿の男。
人の上に立つと言うよりは、市場で忙しく働いている方が似合いそうな雰囲気の男だった。
「…は」
その男、ヴェルターの顔に自嘲が浮かぶ。
協会の影響力も低いこの辺境の都市で、教区長など飾りのような物だった。
一応、教区長同士の会議には参加できるが、発言力など皆無。
波風を立てず、強い者の意見に従う。
ヴェルターの前の教区長もそうやって、平和に過ごしていた。
この都市の魔道士の中ではそれなりに優秀だったと言うだけで、ヴェルターは次の教区長となった。
だからヴェルター自身もやる気など無かった。
都市を変えるつもりも、況して魔女と戦う気なんて欠片も無かった。
自分は英雄には成れないし、悪党になる度胸も無い。
ろくに名前すら覚えられないまま、協会の書類の中に沈むだけ。
そう、思っていた。
「ただいま」
その時、教区長室の扉が開いた。
まるで自室のように落ち着いた表情で部屋へと入ってくるのは、女神のような美しい容姿の女。
それは平凡なヴェルターにとっての特別。
ヴェルターの運命を変える原因となった存在だった。
「ロッテ? 今日はどこへ行っていたんだ?」
恋人に向けるような穏やかな笑みを浮かべ、ヴェルターは言った。
「少し街の様子を見てきただけです。ヴェルター様」
シャルロッテもまた、同じような笑みでそう答える。
「いつもと変わらず素晴らしい街です。人々は笑い合い、飢える者も病める者も居ない」
「………」
「全て、あなたの功績です。ヴェルター様」
「…そんなことは、ない」
シャルロッテの言葉に、ヴェルターは苦々しい表情を浮かべた。
「俺は、君が居なければ何も出来ない男だ。都市を発展させたのも、人々に笑顔が増えたのも、全て君の言う通りにしたからじゃないか」
ヴェルターは自分と言う物をよく理解している。
今の都市を生み出したのが全て自分だと言うほど思い上がってはいない。
教区長でありながら、ヴェルターは何一つしていない。
ただシャルロッテに言われるまま行動していたら、結果的に都市を発展させただけだ。
都市がどれだけ変わろうとも、ヴェルターは何も変わっていないのだ。
「そんなことはありません。ヴェルター様は教区長と言う立場にありながら、私のような者の言葉に耳を傾けてくれたではありませんか」
「それは…」
「慈悲深いヴェルター様だけが、私を信じてくれました。私は百年以上の時を生きる魔女です。他の教区長なら、言葉を交わす前に私を縛り、火炙りとしたでしょう」
「………」
そう、なのだろうか。
確かに、魔女狩り隊を率いるハインリヒならばシャルロッテの言葉に耳を貸さないだろう。
どれだけ言葉を尽くしても、問答無用で焼き尽くす筈だ。
他の教区長も、そうなのだろうか。
「…俺だけでは無い筈だ。きっと、穏健派と言われる教区長アンネリーゼも」
「いえ、私には分かります。協会の人々にとって、私は魔女です。誰も傷付けたことが無いとしても、生きていること自体が罪なのです」
「そんな馬鹿な…!」
思わずヴェルターは机を叩いていた。
「生きることが、罪である筈がない。どんな存在であれ、生きる価値は、ある筈だ…!」
ヴェルターは目の前に立つ女を見つめる。
この美しい女が、何をしたと言うのか。
どんな人間にも心優しく、愛を以て接していた。
互いを憎み合う人間などよりも、よほど慈悲深いではないか。
「…ありがとうございます、ヴェルター様。たった一人でも私を信じて下さる方がいて良かった」
「…ロッテ? 何を言っている?」
「…ヴェルター様。申し訳ありませんが、私はこの都市を去らなければなりません」
「何…!」
ヴェルターは音を立てて椅子から立ち上がる。
動揺を隠し切れず、身を震わせながらシャルロッテを見つめた。
「何を言っている、ロッテ! どうして君が都市を去らなければならない!」
「…私の存在を、協会が知ってしまったようなのです」
「な…」
ヴェルターは言葉を失う。
ずっと恐れていたことだった。
シャルロッテがヴェルターにとってどれだけ大切な存在であろうと、協会にとって魔女は魔女。
その存在がバレたら、魔女狩り隊が送られてくるかもしれない。
「私がここに残れば、ヴェルター様に迷惑が掛かってしまいます。だからその前に去ろうと…」
「だ、大丈夫だ! 俺が協会に君のことを説明すれば…」
「…先日のブルハの一件をお忘れですか?」
「!」
シャルロッテの言葉にヴェルターの身体が僅かに震える。
都市ブルハでの戦いについてはヴェルターも聞いている。
ブルハに送られた魔女狩り隊は、たった一人の黒魔道士を処刑する為に送られたのだと言う。
それだけの為に一つの都市と、教区長を滅ぼそうとした。
魔道協会とはそう言う場所なのだ。
「…ヴェルター様。どうかお元気で…」
そう言って部屋から去ろうとするシャルロッテ。
「ッ!」
ヴェルターは言葉より先に、その腕を掴んでいた。
「行かないでくれ、ロッテ。俺が、君を守るから」
「………」
「協会だろうと、魔女狩り隊だろうと、君を傷付ける者は誰だって滅ぼしてやる。だから君は、ずっとここに居て良いんだ」
「………ありがとうございます。ヴェルター様」
満面の笑みを浮かべてシャルロッテはヴェルターの手を両手で握り締めた。
その笑みは女神のように美しく、魔女のように艶やかだった。




