第七十七話
あるところに『可哀想な女の子』がいました。
その子供は生まれてすぐに、実の両親に森へ捨てられてしまいました。
人里離れた森を訪れる者は少なく、周りに居るのは危険な獣ばかり。
人の言葉も知らず、人の文字も知らず、薄汚い森で動物同然の生活を送っていました。
ある日、女の子は親切な人々に出会いました。
親切な人々は女の子を襲っていた獣を退治し、女の子を保護しました。
『可哀想な女の子』はその優しい人々によって人間らしい生活を送り、すくすくと成長していきました。
そして数年が経ち、美しく成長したその『可哀想な女の子』は…
『………』
悪い魔女となり、親切な人々を殺しました。
「………」
ドロリ、と泥が崩れるようにナターリエの身体が溶け落ちる。
否、それは本物のナターリエではなく、マナで生み出された偽者。
本物のナターリエはたった今、地中から現れた女の方だ。
「………」
身を守るように重なっていた木の根が解けていく。
ゆっくりと地面に降り立つナターリエは、無言で顔をエルケーニヒへ向けた。
「首を刎ねられても、心臓を貫かれても死ななかった不死の秘密は解けた」
エルケーニヒは不敵な笑みを浮かべて挑発するように言う。
本体である以上、今までのように首を失いながら襲ってくるような不死性は無い筈だ。
何よりこちらにはエリーゼのニグレドがある。
「これでもうお前は丸裸だ。ようやく手が届いたぞ、魔女」
「………」
ナターリエは答えない。
恐れも焦りも無い表情で、ただエルケーニヒとエリーゼの二人を見つめていた。
「『ベスティア・リーベリー』」
瞬間、ナターリエの額に浮かぶ『魔女の印』が鈍い光を放った。
ナターリエから放たれるマナが爆発的に増幅し、周囲の大地が沼のように泡立つ。
ボコボコと音を立てる地面から這い出るように、狼達が顔を出す。
「今更、そんな狼程度…!」
エリーゼは黒剣を握り、狼達を切り伏せる。
強さは今までのクリーチャーと変わらない。
だが、その数は今までの比では無かった。
「また次が来るぞ、エリーゼ!」
「い、一体何匹居るの…!」
斬っても斬っても、次の獣が襲ってくる。
他の狼の亡骸を踏み締め、次々と新たな獣が現れる。
無尽蔵に。無秩序に。限りなく。
「…この狼」
地面に倒れた狼の死体を見て、エルケーニヒは呟く。
頭部を失った狼の亡骸が動き出し、首の無いまま再び襲い掛かってきたのだ。
「こいつらただのクリーチャーじゃない! 死人形だ!」
生物の死体を使った黒魔法。
複雑な行動は出来ないが、既に死んでいる為に致命傷を受けても止まらない性質を持つ。
「まさか…これ全部…!」
四方八方を埋め尽くす狼の大群。
その全てが、殺しても止まらない死の軍団。
一匹一匹の強さはそう高くないが、数の暴力は厄介さと言う点で個を超える。
「このままじゃ…!」
「…チッ」
何度も殺しても死なない狼の大群を前に、エルケーニヒは顔を歪めた。
確かにこのままではジリ貧だ。
無視して本体を狙おうにも、ナターリエはこの大群の向こうだ。
何とかしてこいつらの動きを止める必要がある。
「………」
獣の大群に呑まれようとしている二人を、ナターリエは無感動な目で見つめている。
欠片も興味を抱いていない。
ただ命じられたから殺す、それだけしか考えていないようだ。
そんな視線に気付き、エルケーニヒはナターリエに顔を向けた。
「…死んでまでこき使われるなんて、畜生とは言え、憐れだなァ」
「―――」
ぴくり、とナターリエの眉が動いた。
「死体なんてその場で簡単に集められるのに、死んだ畜生の死体を集めて、わざわざ命を吹き込んで、また殺す。ご苦労なことだ」
それに気付きながらも、エルケーニヒは敢えて無視して言葉を続ける。
「余程、そいつらが憎かったんだろうなァ?」
「…違う!」
ズン、とナターリエの足下が大きく陥没した。
憎悪と憤怒に染まった眼がエルケーニヒを睨みつける。
「お前! お前ェェェェ! よくもよくもよくも、よくもそんなことを! 何も知らないくせに! 私がどんな気持ちでこの子達にこんなことをしているのか知らないくせにィィィィ!」
狂ったように髪を振り乱し、ナターリエは叫ぶ。
怒り狂うナターリエを眺めながら、エルケーニヒは笑みを浮かべた。
「…ハッ、やっぱりキレたか」
「エルケー、何を…?」
「前に森で会った時に、アイツの性格は把握している」
他人に無関心だが、本質は短気で感情的になり易い。
特に己の中の価値観に他人が触れた時、我を失う程に激怒する。
「理由は分からんが、アイツにとってあの獣共は大切な存在らしい」
怪物と呼ばれるだけで激高する程に。
それ故に、先程のエルケーニヒの言葉は聞き捨てならなかったのだろう。
「…怒りで制御が曖昧になっているぞ」
エルケーニヒは十本の指から無数の糸を伸ばす。
それは二人を取り囲んでいた狼達を一匹残らず貫いた。
「『フィールム・インペリウム』」
糸が赤く光ると同時に、狼達の動きが止まった。
獰猛に開いていた口を閉じ、主人に従うように首を垂れる。
「油断したな、後輩。お前達の使っている黒魔法を作ったのは、誰だと思っている?」
「…制御を奪い取る為に挑発したの? 魔王と言うより、悪魔みたいな奴ね」
ドヤ顔を浮かべるエルケーニヒに、エリーゼは少し引いた。
とは言え、これで狼の大群は無力化した。
後は本体を叩くだけ…
「…返せ」
ナターリエの眼に糸に縛られた狼達が映る。
魔法の制御を奪われ、エルケーニヒに無理やり従わされている家族の姿が。
「私の家族を! 私の友達を! 返せ返せ返せ返せェェェェェ!」
怒りで我を失い、ナターリエは走り出した。
魔法ではなく、膨大なマナ自体をその身に纏い、魔女の身体能力だけでエルケーニヒへ迫る。
「それは、悪手だった」
伸ばしたナターリエの右腕が、宙を舞う。
一瞬で距離を詰めたエリーゼの剣によって、ナターリエの腕が斬り飛ばされた。
「『ニグレド』」
「が、ああ…!」
瞬間、斬られた傷口から煙が吹き出し、腐っていく。
黒い刃に触れた部分から呪いが入り込み、ナターリエの身体を蝕む。
「…また、私から、奪うのか…! お前達は、また…!」
傷口を抑えながらもナターリエの眼はエリーゼを見ていなかった。
見ているのはずっと、家族と呼んだ狼達だった。
ナターリエは生まれてすぐに人間に捨てられた。
物心ついた頃には森で動物と共に暮らしていた。
言葉も文字も無い、人間とは思えない生活。
『………』
しかし、それでもナターリエは幸せだった。
動物達はナターリエに優しかった。
幼いナターリエに餌を分け与え、寒い夜には抱き締めてくれた。
実の親から与えられなかった愛情を、ナターリエは森の動物達に与えられた。
何の不満も無かった。
それなのに。
『おい、こんな所に子供がいるぞ!』
『幼い女の子だ。親に捨てられたのか? 何て可哀想に…』
その人間達は突然現れ、ナターリエの家族を殺した。
そして泣き叫ぶナターリエに訳の分からない言葉を吐き、森の外へ連れて行った。
『あんな目に遭って、可哀想に』
人間達に街に連れて来られたナターリエは、そこで普通の人間のような生活を送った。
美しく成長したナターリエの前には、多くの人間が現れた。
『あなた、森で生まれて獣に育てられたって本当?』
『何て美しいんだ。是非とも、私の恋人になってくれないか?』
『確かに見た目は綺麗だが、ろくに文字も読めないと聞いたぞ? 所詮、獣に育てられた野蛮人か』
そこに在ったのは、ナターリエの育った森よりも醜い世界だった。
欺瞞と嘘偽りに満ちた世界。
心の底では獣に育てられたナターリエを蔑んでいるくせに、耳障りの良い言葉を吐く人間。
己の欲望を隠し、嘘で塗り固めた表情を浮かべる人間。
自然のままに生きていた動物達の方がマシだった。
『取り戻したいか?』
全てに嫌気が差していた時、その魔女が現れた。
『死した命を、お前の家族を、蘇らせたいか?』
『…出来る、のか?』
『今の私ではまだ出来ない。だが、お前が協力すれば必ず』
魔女は手を差し伸べる。
『人を捨てろ。お前は今日から、魔女だ』
『………』
迷いはなかった。
目的の為に人間をどれだけ殺すことになろうとも、後悔はない。
ナターリエにとって、家族と呼ばれるのはあの狼達だけ。
元よりナターリエは、人間では無かったのだ。
「…ッ!」
(今のはドロテーアの時と同じ…!)
エリーゼはナターリエに目を向ける。
今流れ込んできたのは、ナターリエの記憶。
魔女となる前の記憶。
「あ、ああああああああ!」
ナターリエが絶叫する。
腐り切った右肩を抉り取り、血塗れになりながらエルケーニヒを睨む。
「返して…! 返してよ…私の家族を、返して…!」
「ッ…」
ズキン、とエリーゼの胸に鈍い痛みが走る。
たった今、目にしたナターリエの記憶。
ただ森で暮らしていただけのナターリエから家族を殺し、居場所を奪った。
ナターリエを魔女に変えたのは、始まりの魔女ではなく人間…
「返せェェェ!」
血走った眼で叫び、ナターリエは残った左腕を振り上げる。
魔法も何もない、純粋な身体能力。
人間の骨すら容易く砕く魔女の腕が、エリーゼへ向けられた。
「―――」
だが、ナターリエの腕がエリーゼに届くことは無かった。
エリーゼとナターリエの間に割り込むように、一匹の狼が立つ。
その姿を見て、ナターリエは呆然と動きを止めた。
「…ごめん」
小さな言葉と共にエリーゼは剣を振るう。
黒剣はナターリエの首を刎ね、その身を完全に崩壊させた。




