第七十話
「…眠れない」
自室のベッドに潜り込みながら、エリーゼは呟いた。
太陽はとっくに沈み、空には月が浮かんでいる。
部屋の隅の方から聞こえてくるエルケーニヒの寝息を聞きながら、エリーゼは顔を顰めた。
先日の悪夢のせいだ。
魔女に両親を殺された時の夢を見たせいで、中々眠ることが出来ない。
「………」
自分はこんなに弱気な人間だっただろうか、とエリーゼは自問する。
両親を失い、アンネリーゼに拾われ、周囲から蔑まれながら生きていたあの頃は、悪夢が怖くて眠れないことなど一度も無かった。
エルケーニヒと言う協力者を得て、ゲルダと友達になり、段々と傍に居る人間が増えていった。
それによってエリーゼの心を強くなったが、同時に弱くもなったようだ。
「………」
少し気分転換に散歩でもしよう。
そう考えたエリーゼは音を立てずに外へ出ていった。
「星が綺麗…」
空を見上げながらエリーゼは一人呟く。
思えば、夜の散歩なんて何年ぶりだろうか。
まだ両親と暮らしていた頃は、よく散歩していたような気がする。
娯楽の少ないあの家では、自然くらいしか愉しみが無かった。
あの頃はそれが退屈で仕方なかったが、今思えば何よりも幸福な時間だった。
本当に大切な物は、失ってから気付くと言う物だろう。
「…魔女、か」
あの悪夢を見たせいか、最近は両親を殺した魔女のことばかり考える。
今までも決して忘れていた訳では無いが、仇の魔女を含む全ての魔女と黒魔道士を憎んでいた為、それを特に意識することは無かった。
アガーテと名乗った魔女。
父に母を殺させ、その父も自滅に追い込んだ残忍な魔女。
人の悲劇を何よりも好む悪魔のような女。
エリーゼはあの魔女をずっと…
「夜の一人歩きは危険だよ?」
その時、エリーゼの背後から声が聞こえた。
ぐにゃり、と声の方向から空間が歪む。
歪んだ景色から染み出るように、女が現れる。
「怖い魔女に出会ったら、そのまま食べられちゃうかもしれないよ?」
「…は…は…ッ」
無意識の内にエリーゼの呼吸が早くなる。
知っている。
エリーゼはその女を知っていた。
道化染みた風貌ではなく、その全てを嘲るような笑みを。
「久しぶりだね、エリーゼ。ボクのこと、覚えてるかなぁ?」
「アガーテ…!」
瞬間、エリーゼは剣を抜こうと自身の腰に手を当てた。
しかし、その手は空を切る。
「ッ!」
(しまった。剣はヴィルヘルムに…!)
エリーゼの顔が歪む。
ヴィルヘルムとの戦いでエリーゼは剣を爆破され、失っていた。
代わりの剣はまだ用意できていなかったのだ。
こんな時に、とエリーゼは歯を食い縛る。
「アハッ! 何そのパントマイム? 笑えるね!」
「…ッ」
「あ、それとボクの本当の名前はザミエル。アガーテは偽名なんだ」
友人に向けるような笑みを浮かべながらザミエルは言った。
エリーゼは警戒した目でザミエルを睨む。
「そんな目で見ないでよ。約束を果たしにきただけじゃないか」
「…約束?」
「キミを魔女にしてあげる」
何でも無いことのようにザミエルは告げた。
「ドロテーアが死んじゃって魔女が一人足りないんだよね。ヴィルヘルムはよくやってくれてるけど、男の魔女って何か変だろう? だからキミが魔女になってくれたら丁度良いんだ」
「…ふざけてるの?」
「本気も本気さ。ボク、生まれてから一度も嘘ついたこと無いんだ」
殺意と憎悪を込めて睨むエリーゼに、ザミエルは嗤う。
両親の仇である魔女の仲間になどなる筈がない。
エリーゼはザミエルに一歩近付きながら、懐に手を入れる。
「私が魔女になる理由なんて、何一つない…!」
エリーゼは懐から取り出したナイフを投擲した。
こんな物で魔女を殺せるとは思えないが、一瞬でも怯めばそれで十分だ。
右手にもう一本のナイフを握り、エリーゼは地を蹴った。
「無駄、なんだよね」
だが、投擲したナイフはザミエルの顔の前で消えた。
「いッ…!」
直後、エリーゼは肩に鋭い痛みを感じ、手にしたナイフを取り落とす。
エリーゼの右肩に、一本のナイフが突き刺さっていた。
「あんまりこう言う使い方は好きじゃないんだ。怨敵に放った弾丸は恋人の心臓に。予期せぬ悲劇を作ることこそボクの魔法の真骨頂。ボクはただ、悲劇の傍観者で居たいだけさ」
人の悲劇を嗤う悪魔が告げる。
自らの手を汚すことなく最悪の悲劇を作り出す。
それこそがザミエルがこの魔法に込めた想い。
魔女の中でも特に最悪な、この魔女の能力だった。
「えーと、どこまで話したかな? あ、そうそう。キミが魔女になる理由、だっけ?」
肩を抑えるエリーゼを見下ろしながらザミエルは言う。
「それならあるよ。キミには魔女になる資格がある」
「…何を言っているの? 私に魔法は」
エリーゼに魔法は使えない。
そんなことは幼い頃から分かっていることだ。
エリーゼには魔法を使うマナが無い。
だから魔女になることなど出来ない筈だ。
「魔法が使えない? ならどうして、キミはドロテーアを殺すことが出来たの?」
「それは…」
魔女殺しの魔法『ニグレド』
魔女を腐敗させる黒い剣。
アレは確かに黒魔法だった。
だが、
「『ニグレド』は、エルケーニヒからマナを貰ったから使うことが出来たのよ」
そう、あのマナはエルケーニヒのマナだった。
ニグレドはエリーゼ一人で使うことは出来ない。
あの魔法は、エルケーニヒのマナで使った魔法だ。
「…なら話を変えようか。キミはどうして、十年前にボクがキミの前に現れたと思う?」
「………」
ざわり、とエリーゼの中で何かが騒いだ。
何か嫌な予感がする。
「あの時、ボクがキミに握らせた石は何だと思う?」
「………」
石。
あの時のエリーゼは知らなかったが、今のエリーゼは知っている。
あの石は、魔道士の杖作りに使われる物。
マナに反応して色を変える石。
あの時、エリーゼが握った石は黒く染まってしまった。
それは、つまり…
「…嘘、だ」
「全て真実さ。キミは生まれながらの黒魔道士で、魔女になる資格を持っていた」
「そん…な…」
「そしてボクはキミを迎えに行った。丁度、あの時もワルプルギスに欠員が出ていたからね」
ニタリ、とザミエルの顔に悪意に満ちた笑みが浮かぶ。
「言い方を変えようか? キミの両親は、キミのせいで死んだのさ! キミの魔法の才能が、魔女を呼び寄せてしまった!」
悪意の声が、エリーゼの心を塗り潰す。
平穏で幸せだったあの頃の記憶が、黒く染まっていく。
「退屈だったのだろう? あの長閑な日々が! 魔法に憧れていたんだよね? だからキミには黒魔法の才能が宿った!」
ザミエルは呆然とするエリーゼに手を向ける。
すると、地面から石棺が現れ、その蓋がゆっくりと開いた。
「ボクの魔法は一人用だからね。キミのことはマルガが送ってくれるよ」
ズズ…と石棺から這い出た黒い手がエリーゼを掴む。
力なくエリーゼはその棺へと引き込まれていく。
「エリーゼ!」
「おや、随分と遅かったね。英雄と同じく、魔王も遅れて登場するものなのかな?」
駆け付けたエルケーニヒにザミエルは嘲笑を浮かべる。
石棺へ吞み込まれるエリーゼへ向かって手を伸ばすが、もう遅い。
「お姫様は貰っていくよ。エリーゼは、新たな魔女となるのさ」
エルケーニヒを嗤いながら、ザミエルはエリーゼと共に姿を消したのだった。




