第六十五話
「怪我はありませんか、ハインリヒ」
「…お前に心配されるまでもない」
不機嫌そうに吐き捨て、ハインリヒはザミエルが消えた空間を睨んでいた。
今はもう魔法の痕跡すら残っていない。
どうやら本当にザミエルは逃げて行ったようだ。
「転送魔法。あの魔女には以前も会いましたが、厄介な魔法ですね」
神出鬼没と言う魔女の性質を何よりも体現した魔法だ。
あれだけ凶悪な魔女が何の前触れもなく出現することは恐怖でしかない。
どれだけ高度な魔法で備えていようと、あの魔女は容易くそれを乗り越えて、好きな場所に現れることが出来るのである。
「…カスパールとして潜入していたのは、この都市の地理を知る為かもしれないな」
ハインリヒは苦々しい顔で告げる。
自由に転送できる魔法と言っても、本当にどこでも行ける訳では無い。
魔法を発動するには行き先を想像する必要があり、行ったことも見たことも無い場所には転送することが出来ないだろう。
マギサの尋問室なんて場所に転送することができたのは、カスパールとしてこの場所に来たことがあったからだ。
「そして、仕上げとして私と手記を消す為に現れた、と言う訳か」
「白き聖女の手記、でしたか。出来れば奪われる前に中身を見ておきたかったです」
「…ん」
アンネリーゼの言葉に、ハインリヒは無表情で懐から別の本を取り出した。
「写しだ。流石に込められた魔法まで再現することは不可能だったのでな、中身だけ書き写した」
「ほ、本当に抜け目のない性格をしていますね」
驚きと感心を合わせたような表情でアンネリーゼは本を取る。
パラパラと中身を眺めながら、視線をハインリヒへ向けた。
「でも、これは元々ザミエルが用意した物なのですよね? なら、やはり偽物なのでは?」
「重要なのはコレの真贋ではない」
コツ、とハインリヒは机を指で叩く。
「奴はこの手記を奪う為にわざわざ現れ、内容を知る私を殺そうとした。だとすれば、そこには何か奴らにとって不都合なことが書かれているのだろうよ」
「なるほど、確かに…」
「…この程度のことも分からんとは、それでよく協会のトップを名乗れたものだ」
「うぐっ…」
キツイ一言にアンネリーゼは苦し気に胸を抑えた。
こう言ったことに関してはハインリヒに勝てる気がしない。
「と、とにかく、この手記はこちらで預かりますよ」
「そうしろ。幾つか私でも解読できない部分があった。原文をそのまま書き写しているから、そっちで翻訳してくれ」
「分かりました」
囚人と教区長としては奇妙な言葉を交わした後、アンネリーゼは部屋から出ていった。
「それで? 俺を呼んだ、と」
翌日、アンネリーゼは教区室にエルケーニヒとエリーゼを呼び出していた。
机の上にはハインリヒから預かった手記が置いてある。
「私もそれなりに文学には精通しているのですが、この手記に使われている言葉はあまりに古すぎて」
「…千年も経てば文字も変わるか」
独り言のように呟き、エルケーニヒは手記をパラパラと捲る。
「…読めるな。俺の時代の文字だ」
「本当ですか? なら、出来れば翻訳をお願いしたいのですが」
「それは構わないが………俺は逆に現代の文字が書けんぞ」
「あ」
言われてみれば、そうだった。
古代語の翻訳ばかり気にしてそれを失念していた。
「だったらそっちは私が教えるから」
「…それが手っ取り早いか」
エリーゼの言葉にエルケーニヒは息を吐く。
少々面倒だが、エルケーニヒもこの手記の中身に少し興味があった。
「…この手記は書き写したと言ったが、それはハインリヒが直接書いたと言うことか?」
「厳密にはハインリヒが部下に命令して魔法でそのまま文字だけ写し取ったらしいですけど……それがどうしました?」
「いや…」
手記に写し取られた文字を眺めながらエルケーニヒは口元を歪める。
「この文字の形、文章の書き方の癖……見覚えがあるな」
「それって…」
「コレは確かに白き聖女が書いた物だ。それは間違いないと俺が断言してやるよ」




