第三十五話
黒い風が吹く。
エルケーニヒから吸い上げた黒いマナが風となってエリーゼの周囲で吹き荒れる。
「―――」
エリーゼは無言でドロテーアを見つめた。
感情が抜け落ちたような冷たい表情。
その頬には、黒い手のような模様が浮かんでいた。
「それは…」
炎を纏ったままドロテーアは呟く。
エリーゼに刻まれた魔女の印を見て、その顔が憤怒に染まった。
「ふざ、けるな…!」
それは魔女としての証だ。
醜い人間達と決別したドロテーアの誇りだった。
自分と、他の魔女だけの力。
マルガに同胞と認められた証拠。
断じて、薄汚い人間如きが手にして良いものではない。
「殺す…! お前だけは、絶対に殺してやる…!」
怒り狂うドロテーアの口から血が零れ落ちる。
その血が炎に変わり、大地を焼いていく。
命を、肉体を、血の一滴に至るまで薪として全てを焼き尽くそうとしているのだ。
「が、ああああああああああああ!」
獣のように咆哮しながらドロテーアは自らを炎に変える。
全てを呑み込み燃やす、地上の太陽となりながらエリーゼへ襲い掛かった。
「…黒魔法」
灰すら残さない地獄を眺めながら、エリーゼは短く呟く。
「………」
エリーゼは両手で剣を握り締め、構えを取る。
それは、空間に空いた穴のようにも見える黒い剣。
炎のように揺らめき、重苦しい威圧感を放っている。
「『ニグレド』」
それは無法ではなく、魔法だった。
吸い上げたマナを消費し、発動するエリーゼだけの魔法。
振るわれた黒い刃が燃え盛るドロテーアと衝突する。
「そんな小さな剣、諸共に焼き尽くしてやる…!」
都市一つを焼き払う程の炎を前に、エリーゼの魔法は剣一つ。
飛んで火に入る羽虫のように、エリーゼの命は消し飛ぶ…筈だった。
「な、に…?」
声が、上がった。
ドロテーアは信じられない物を見たように、己の右腕を見ていた。
エリーゼの黒い剣に触れた部分だ。
その部分が、煙を上げながら腐り落ちていた。
「そん、な、馬鹿な…!」
マナが、生命が、腐っていく。
薪となる肉体が腐ったことで、炎の勢いが弱まっていく。
空に浮かんでいた邪眼が消えた。
腐敗は腕から肩へ、そして全身へと広がっていった。
「あああああ…! やめろやめろ…!…やめ、やめて…!」
生きたまま肉体が腐り落ちる悍ましい感覚に、絶叫するドロテーア。
子供のように泣き叫ぶドロテーアの前には、黒い剣を握ったエリーゼが立っていた。
「お前達が私を魔女と言ったくせに…! 魔女になることを望んだくせに…! だから私はこうなったのに…! こうなるしか…無かったのに…!」
望んだことは、ただ今日と同じ幸せな日がいつまでも続くことだった。
優しい両親と共に生きてきた。
魔道協会とも、魔女とも無縁の田舎。
小さな商人の家で過ごしていた。
何も特別なことは無かったけれど、幸せだった。
いつかは父親の店を継いだり、誰かと結婚したりするのだと思っていた。
幸せな日々が続くと信じていた。
『黒魔道士だ…! 商人の娘は魔女だー!』
どうして、こんなことになったのだろう。
魔法なんて使ったことは無かった。
誰かに呪いを掛けるなんて、考えたことも無い。
それなのに、協会から現れた男達は私を魔女と憎悪した。
ただマナが黒いから、と言う理由で私の家を燃やした。
『う…ああ…ッ』
全て、燃えていた。
家も、両親も、思い出も何もかも。
あの異常者達は私の全てを奪った。
そしてもうすぐ、私の命も奪われることだろう。
足音が聞こえる。
破滅の足音が、自分を魔女と蔑む者達の音が。
『そこの、娘』
耳に、女の声が聞こえた。
男達の足音が消えていた。
ゆっくりと見上げた視界に、黒い三角帽子が見えた。
『お前、魔女になる気は無いか?』
『………』
私は迷わず、その手を取った。
魔女になる。
薄汚い人間共め。恐れて震えろ。
お前達が私の家族を焼いた炎で、今度はお前達を焼いてやる。
男も女も、子供も老人も、何一つ区別なく、焼き尽くしてやる。
お前達が恐れ、望んだようになってやる。
魔女に成り果てて、お前達を永遠に呪ってやる。
(…コレは、この魔女の…?)
エリーゼは眩暈を感じたように片目を閉じた。
マナと共に流れ込んできたのは、ドロテーアの記憶だ。
ドロテーアが魔女に成り果てる前の、人間だった頃の記憶だった。
「………」
黒い剣を握り締め、エリーゼはドロテーアを見つめる。
人々から魔女と蔑まれ、その果てに本当に魔女となってしまった者。
被害者が加害者へ成り果ててしまった者。
エリーゼの眼に、魔女に対する憎悪は無かった。
迷い、驚き、そして、憐れみがその眼に宿っていた。
「私は…! 私、は…!」
「『シュタイフェ・ブリーゼ』」
感情を抑えるように瞼を閉じながらエリーゼは剣を振った。
刃はドロテーアの首を捉え、断ち切る。
「…魔女じゃ、ない…」
幼子のように泣きながらドロテーアの首が落ちる。
その身体がゆっくりと崩れ落ち、そして二度と目覚めることは無かった。
魔女と呼ばれ、魔女へ成り果てた少女は、最期に本音を零しながら、その生涯を終えたのだった。




