第百十一話
「ああああああああああああ!」
絶叫するマルガの胸に大きな亀裂が走る。
マルガの手が指先から崩れ、砂に変わっていく。
(…身体が、崩壊している?)
こちらが攻撃する前から崩壊を始めたことにエルケーニヒは訝し気な顔をする。
エリーゼの黒剣の力かとも考えたが、その場合は肉体が腐る筈だ。
(…そうか、コイツ)
ひび割れていくマルガの身体を見て、エルケーニヒは気付いた。
マルガの身体は、既に限界だったのだ。
千年と言う時は、不老の魔女であっても耐えられない時間だった。
いつ崩壊してもおかしくないボロボロの身体を、マルガは魔法で無理やり繋ぎ止めていたのだ。
そして、その魔法はたった今、解除された。
マルガは、千年の代償を受けることになる。
「まだ…! まだ、です…! 私は、諦めない…!」
胸に刺さる黒剣を引き抜き、マルガはエルケーニヒ達を睨んだ。
「私は、取り戻す…! 皆を、あの日々を…! 邪魔をするな! この、亡者共がァァァァァァ!」
杖を掲げるマルガを中心に、大気中のマナが収束する。
自身の肉体が崩壊することも無視し、全てのマナを注ぎ込む。
「『ケントゥム・マヌス・アレーナ』」
集められたマナが、無数の黒い手へ変化する。
縦横無尽に伸びる手に触れた物から石に変わり、やがて砂となって散っていく。
「行くぞ…!」
エルケーニヒの声を合図に、四人は走り出した。
これが最後の勝負だ。
この最後の魔法で殺されたらエルケーニヒ達の敗北。
魔法を掻い潜ってマルガの元に辿り着けば、エルケーニヒ達の勝ちだ。
「『トルレンス・アルカ』」
走りながらヴァレンティンは水の箱を作り出し、マルガをその中に閉じ込めた。
呼吸と視界を封じられつつも、マルガは慌てることなく杖を振る。
無数の黒い手がヴァレンティンを取り囲み、その身を包み込んだ。
「…狙い通りだ」
全身を石に変えられながらヴァレンティンは笑みを浮かべる。
「ヴァレンティン…!」
「いいから走れ! 私のことは気にするな。先に、行ってるぞ」
僅かでも時間を稼げたことに満足し、ヴァレンティンの身体は崩れて砂となった。
ヴァレンティンの死と共に、マルガを閉じ込めていた水の箱が消滅する。
「次は、貴方だ…!」
マルガが次に杖を向けたのは、ゲオルクだった。
ヘレネは攻撃魔法を不得手としており、マルガに止めを刺すことは出来ない。
マナの殆どを失ったエルケーニヒも同様だ。
この場で真っ先に狙うべきはゲオルク。
「そう来ると、思ったよ…!」
しかし、ゲオルクを狙った全ての黒い手は防がれた。
その身を挺してゲオルクを庇ったヘレネによって。
「こんな私でも、誰かの盾になるくらいは、出来るからね」
「………」
「…ごめんね、聖女ちゃん。向こうで、待ってるよ」
悲し気に笑いながらヘレネの身体は石化する。
砂となって散っていくヘレネの背後から、ゲオルクはマルガへと肉薄した。
(まだ、間に合う…! あの剣が私に届くよりも先に、私の手が届く…!)
マルガは自身に迫るゲオルクを睨みながら、杖を向けた。
ヘレネを石化させた黒い手が、ゲオルクの背後から伸びる。
ほんの僅かの差で、手がゲオルクを捕らえる。
「『フィールム』」
「…な」
その時、マルガの手から杖が落ちた。
魔法の触媒となる杖が手から離れたことで、黒い手の魔法が消失する。
「…蘇生を維持するだけで手一杯、だったか」
魔王は嗤う。
悪辣に、悪童のように。
「敵の言葉を素直に信じちゃ、ダメだぜ?」
「ッ!」
「『イグニス・ラーミナ』」
すぐに杖を拾おうとするが、遅かった。
燃え盛る剣はもうマルガの目の前に迫っていた。
「――――――」
炎の刃がマルガの胸を斬る。
その瞬間、肉体の亀裂は全身に広がった。
手足が砂となり、マルガの身体は地に転がる。
「………」
魔女マルガが敗北した瞬間だった。
「………私は、どうすれば良かったのですか…」
空を見上げたまま、マルガは呟く。
「私には、何も無かった。何もかも、奪われた。だから、思い出に縋るしか無かった…」
「…マルガレーテ」
「…戻りたかった。やり直したかった。何も知らなかったあの頃に…」
マルガの目から涙が零れる。
千年の間、一度も流すことの無かった涙が。
「たった四人で魔王に挑んだ旅。自殺行為と嗤われ、魔道士だと恐れられ、いつも命懸けだった旅…」
「………」
「…でも、私にとっては、あの旅が人生で一番幸せだった。旅の末路も知らず、毎日を精一杯生きることが出来た、あの日々が…」
「………」
ゲオルクは静かにしゃがみ込み、マルガの肩に触れる。
「…帰ろう、マルガレーテ。今まで待たせて、すまなかった」
「……………うん」
小さく笑みを浮かべ、マルガの身体は完全に崩壊した。
最後に浮かべたその笑みは恐ろしい魔女ではなく、ゲオルクの見慣れた聖女の笑みだった。
「…やれやれ、俺には何の一言も無しか。悪役は辛ェな」
「ごめんね。でもきっと、彼女も君には感謝していたと思うよ」
「…感謝か。ハッ、それは嬉しいね」
皮肉気に笑うエルケーニヒの前で、ゲオルクの身体に亀裂が広がる。
もう時間が残されていないことを悟り、ゲオルクは顔をエルケーニヒへ向けた。
「それじゃあ、またね。魔王」
「二度と会いたくねェよ。英雄」
最後にそう言葉を交わし、ゲオルクは砂へと変わった。
エルケーニヒの魔法が解け、再びゲオルクは死者へ戻ったのだ。
「え、エルケー! 戦いはどうなった…!」
「…エリーゼか。もう終わったよ」
「間に合わなかったか…でも、勝ったんだね」
「ああ」
駆け付けたエリーゼにそう言いながら、エルケーニヒは複雑そうにマルガだった砂の山を見つめる。
「…だから俺は言ったんだ。諦めて俺の物になる方が、まだ幸せだと」
「…エルケー?」
「…何でも無い。帰ろう、エリーゼ」
エルケーニヒは砂の山に背を向け、歩き出す。
そして二度と振り返ることは無かった。




