お嬢様に宣言
「・・・・・・・」
「・・・・ふふ」
「(心臓がもたない・・・・)」
ウィリアム様が私と同じ青空色のシャツに着替え終わり、甲板に戻ると皆で一度船の中を探検することになった。
夕暮れが近づく水平線が紺色の海をオレンジへと変えて行く。その様子をぼんやりと眺めているが、始終幸せそうににこにこと微笑んでいるウィリアム様にじっと見つめられ、心臓に穴が開くのではないかと胸を押さえることしかできない。
勇気を出して「お揃いがいい」と言ってみたけれど、その後のことをまるで考えていなかった。目に見えない感情を誰かに伝えると、余計に見えないものが重なって行くような気がする。だけどウィリアム様から向けられるものなら、受け入れたいと思うから不思議だ。
本当に、好きって不思議だ。
「ジェニファー」
「あ、・・・はい」
なんだか胸の中にぐにゅりと現れる『あいつ』以外に、ほわほわとするものがあるような気がして首を傾げる。これは何だろうか。また変なものが心に棲みついたのだろうか。これ以上混乱するのは御免だ。
ぼんやりと自分の胸に手を当てている私にウィリアム様が声をかける。その手に引かれ船首へと向かえば、夕暮れも近づいているということで人の姿のない、広い場所に出た。
帆柱から何本も縄が伸びていて、その上へ大きな帆が広がって行く。
オルトゥー君が珍しそうにそれを眺め、ブライトさんが兄のような優しい目を向ける。そこで自分の兄のことを今更ではあるが思い出す。船に乗り込んだところまでは見たが、それ以降は顔を見ていない。
部屋の番号は教えてもらっているので後で会いに行こうかな。と思いながら船首からどこまでも続く大海原へと視線を向ける。この大海原の先に、まだ見ぬエスプリ王国がある。
「・・・・・」
いったいどんな国なんだろうか。兄の話では食文化も宗教も違うようだ。私たちのように聖魔女ではなく、青竜を神とするエスプリは、魔術について関心が高く、私たち以上にその魔術を使用して生活を送っているらしい。
きっと、わくわくするに決まっている。
早くエスプリに着かないだろうか。そう思っていると自然と足が船首の先端へと向かう。それは私だけでなくオルトゥー君もなのか、一緒に手すりまで歩み寄るとそっと顔を乗り出して海へ視線を落とす。
「すごいよね!何もしてないのに船が進むんだから」
「ああ、それは帆が風を受けているからですよ。膨らんでいるでしょう?」
私は帆を指差しながらオルトゥー君へと視線を向ける。その私の指に釣られてオルトゥー君が大きく広がった帆を見上げた。
コールマン公爵の船にもとても大きな帆がついていたが、この連絡船は大人数の旅行客を乗せるからか帆の数がコールマン公爵のものよりも多い。まさに豪華客船と言うような姿に、オルトゥー君と私はキラキラとした目を向ける。
「膨らんでいる方とへこんでいる方で気圧に違いが出ます。そうすると、へこんでいる方に風が吸い寄せられるんだそうです。それが推進力となって・・・ああ、専門用語だと揚力と言うらしくてーーーー」
「ちょ、ま、待って待ってお姉さん。難しいよ」
「・・・風を受けて進むみたいです」
ぺらぺらと解説をするとオルトゥー君が眉を顰めながらこちらを睨む。もっと優しく伝えようと思ったけど、私もそこまで詳しくはないので簡潔に述べるとそれでよかったのか、オルトゥー君はこくこくと頷き風を受けるだけで進む不思議な船の様子をぼんやりと眺めた。
その可愛らしい横顔に自然と笑みを零しながら、私はもう一度船首へと顔を向けて手すりを掴む。
「お人形さん」
「・・・ウィリアム様」
そうしていると私とオルトゥー君の会話が終わるのを待ってくれていたようで、ウィリアム様が柔らかい笑みを浮かべて私の横に並ぶ。
潮風を受け前髪をふわふわと揺らし、ずっと先を眺めるウィリアム様の横顔はとても凛々しい。少しお痩せになったような気もするが、そういえば中央司令部でコンフィアンス様から体を鍛え方について教わっているとのことだったので、痩せたのではなく引き締まったのだろう。
あ、あれ?なんか格好いい。
ぼんやりとその美しい横顔を見ていると、視線を感じたのかウィリアム様が口元で弧を描き目を細める。まさに凶器とも思える微笑みに私がぼっと顔を赤くすれば、それが嬉しいのかウィリアム様が手すりに腕を乗せたままこちらへ一歩歩み寄った。
「どうした?」
「・・・・いいえ、何も・・・」
「ふふ・・・言えばいいのに」
「む・・・・・」
鼻を摘まれる。くすくすと無邪気に笑う様子を見ているだけでほわほわと不思議なものが胸に広がる。ウィリアム様を好きだと自覚したあたりから溢れてくる生温かい感情に胸を押さえる。ぐにゅりと『あいつ』が現れる時よりも痛みはないが、その代わりとても痺れるような気がした。
何なんだ、これは。
次から次へと変なものが生まれるなんて、私の体はやっぱりどこかおかしいのだろうか。それが嫌で鼻を摘むウィリアム様の手に触れると、そっと外してもらう。それから気を紛らわせようと、先ほど考えたことを伝えた。
「あ、あの・・・・ウィリアム様はコンフィアンス様を訪ねに中央司令部まで通われているんですか?」
「ああ・・・まぁ、そうだね」
なんとも歯切れの悪い返答をもらってしまう。あまり触れられたくない話なのだろうか。嫌なら言わなくていいし、こちらもウィリアム様が眉を顰める姿を見たくないから言わないでほしい。
しかし会話が思いつかないので困る。そうしていると私がおろおろとする姿を見てウィリアム様が困ったように眉を下げながら頭に手を置く。
「いや、構わないよ。ただ・・・あまり彼について話したくなくてね」
「・・・・・・」
「話せばきっとジェニファーはコンフィアンス殿に会いたいと思うだろうから」
「・・・・・」
会いたい、それはその通りだ。
あれからティミッドさんとモディリーさんの文通はうまくいっているのか気になるし。
それに、私の腕に染み付いている呪いとアントリューのことは気になる。こちらからお願いをしたわけでもないのに、自ら調べてくれるというコンフィアンス様にお礼をしっかりとしたいし、その際何か進捗はあったか聞きたいと思う。
だけど、私一人でアントリューについて調べるよりはウィリアム様と一緒に調べたいし。
そう思い、私はウィリアム様を見上げる。それからどうしてもウィリアム様の美しい顔をずっとは見ていられないので視線を逸らし、海を見ながら口を開いた。
「・・・・呪いのこともありますし、ウィリアム様と一緒にコンフィアンス様に話しを聞きに行きたいとは思います」
「・・・ジェニファー」
「・・・・隠し事はしないと決めましたから」
以前、一人で呪いを解決しようとしていたらウィリアム様にこっぴどく叱られた。ウィリアム様の怒った顔なんてあの時しか見ていない。父や母に叱られるよりも衝撃があったと今なら分かる。あの時は本当に胆が冷えた。
その際、ウィリアム様とは『隠し事をしない』と決めた。だからアントリューに関しては特にちゃんと伝えるようにしている。
なのでそのことを伝えれば、ウィリアム様が目を見張る。ウィリアム様はまさか自分の言いつけをきちんと守ろうとしている私に表しようのない仄暗い感情を抱いたようだが、私は海を眺めていたので気づくことはなかった。
ウィリアム様が私の後ろへと足を伸ばし、そのまま抱きしめる。手すりを握り締めていた私の腕ごと包み込み、そのまま首元に顔を埋める。その時ふんわりとウィリアム様がつけている柔らかい香りの香水が鼻に届いてどうしようもなく安心してしまう。
この匂い、すごく好きだ。
「そうだね、隠し事はよくないね」
「・・・・・でも言いづらいようでしたら」
「いいや、ただの私のエゴだから」
「エゴ・・・・?」
「・・・・ジェニファーは私の彼女だよ」
「・・・・・・」
「コンフィアンス殿に見せたくなかっただけ」
きゅ、と腕に力を込められる。ウィリアム様の顔は首元に埋まっているので分からないが、どんな表情を浮かべているのだろうか。気になるけど、今振り返ったらきっと心臓がはち切れそうになるのでじっと耐え忍ぶ。
すり、とウィリアム様の髪が頬に触れる。まるで甘えるような仕草にぷるぷると震える。なんだかウィリアム様が急に小動物のように見えてくる。
心の中で「あぁぁ」と叫んでいるとウィリアム様が少しだけ顔を上げてこちらを見る。それから私の肩に顎を乗せ、こてんと顔を傾けた。ゆるゆると口元で弧を描きほんのり頬を赤らめる姿に心が爆発しそうになる。
「ジェニファー」
「は、はい」
「好きだよ」
「ゔ・・・・・・」
「ふふ・・・・・」
殺す気なのか。と顔を真っ赤にしながらじとっとした目をウィリアム様に向ける。するとその表情がおかしいのか間近でウィリアム様がくすくすと笑った。確実に私が混乱している様子を見て楽しんでいる。
だけど言い返したところで賢いウィリアム様に言葉で勝てる気がしない。早く解放してくれないかな、と必死に手すりをぎゅうぎゅう握り締めていると、ウィリアム様がため息をつく。それから私と同じように海を眺め、薄い唇を開いた。
「コンフィアンス殿が提案してくれたんだ」
「・・・・・」
「アントリューの正体はまだ分からないけど、魔術に精通しているのは確かだ。ジェニファーに呪いをかけたこともそうだし、大砲を作り出すために精霊を使い人を操ることもできる人間なんてそういない」
「・・・・・」
「アントリューがジェニファーを狙っているのなら、ただ呪いを解除することだけを考えるんじゃなくて、『もしもの時』に戦えるようにしておいたほうがいいとコンフィアンス殿は私に提案した」
「なっ・・・・・」
ウィリアム様の言葉にバッと後ろを振り返る。だめだ、そんなこと。『もしも』なんて考えたらだめなのに。もう二度とアントリューと顔を合わせることがないようにウィリアム様と一緒に呪いについて調べるだけでいい。
もう、もうあんな思いは嫌だ。
囮になると言って走り出したウィリアム様を止められなかった。死んでしまうかもしれないと絶望した。私だけでなくケイトもブライトさんも顔を青ざめ、動くことができなかった。
眉を下げて「それ以上言うな」と目で訴える。私との間を少し開けたウィリアム様が両手を手すりに添えたままこちらを見下ろす。その表情は天使のようでも、可愛らしいものでもない。
ただ、真っ直ぐ深緑の瞳を向けた。
「アントリューにジェニファーを渡さない」
「・・・ウィリアム様」
「前に誓ったね、君は私にこれ以上詮索をするなと。だから誓った。だけど君にも誓ってもらったね」
「・・・・・・」
以前、呪いのことをウィリアム様に伝える代わり、もうこれ以上何もしないでくれと伝えた。ウィリアム様はその時渋々頷いてくれたが、『仲間』を思う優しいウィリアム様は、誓うだけでなく一つ条件をつけた。
『ジェニファーも私に誓って。私に君を守れるだけの機会を与えると』
まるで制約だ。誓いに誓いを重ねるなんて、普通の人間なら考えない。冷静に状況を把握し、物事を一つも二つも先読みできるウィリアムだからこその言葉に、今まさに打ちのめされる。
「思い出した?」
「・・・ですが、」
「私はアントリューを捕らえるために何も行動していないよ。ただ何があるか分からないから魔術に長けたコンフィアンス殿に手ほどきを受けているだけだ」
「・・・そんなの屁理屈ではありませんか」
「ふふ・・・そうかもね。でもこればかりは譲れないよ」
「・・・・・・・」
「・・・コンフィアンス殿がいなくとも始めていただろうから、彼を責めるのは違うからね」
そう言われ、少しだけコンフィアンス様の提案を恨んでいると気づかれていたと知る。でもそう思ってしまっても仕方ないじゃないか。もうこれ以上アントリューに関わりたくないのだ。私だってアントリューを目の前にしたら生きている心地がしなかった。
でも、ウィリアム様が言うように『もしもの時』が本当に来てしまったとして、私が少し魔術に詳しいからといってもあの魔力の前に立ち向かえるとは思えない。魔力が少ない私など、すぐに殺されてしまうだろう。
私と違って質が高く、量も多い魔力をお持ちのウィリアム様なら対等に戦えるのかもしれない。少しでもアントリューを捕らえることができる可能性をウィリアム様が感じているのなら、やはりご自身の身を守るためにもコンフィアンス様から手ほどきを受けることは重要だと思う。
「(思う・・・思うけど、・・・・っ)」
「・・・・・ジェニファー」
「・・・・・・」
ウィリアム様の手が私の頬へと伸びる。身を乗り出し、額をこつんと当てられる。間近に見える深緑の瞳がゆっくりと細められる。私はただその表情を見てワンピースの裾をぎゅうと握りしめることしかできない。
分かってるけど、分かりたくない。
「・・・・ふふ、・・・怒ってるね」
「・・・・怒ってなど・・・」
「嬉しいよ、私の身を案じてくれているんだろう?」
「・・・・・はい」
「安心して。一人で何かしようとは考えていないから。本当に何かあった時、君を守りたいだけなんだ」
「・・・・だったら私も」
「君はもう十分強いよ。君は魔術に詳しい。それだけで十分だ」
「・・・・・」
「お願いだジェニファー、私に君を守らせてくれ。・・・君がいれば私も強くなれる」
「・・・・ウィリアム様」
「だから傍にいてよ。ちゃんと私の傍にいて、私を抱きしめて」
そう言ってウィリアム様が手すりから手を離す。そして「おいで」と小さく呟く。この時ばかりは私も余裕がなくて何を考えることもなくその胸に飛び込む。私が傍にいることでウィリアム様が長く生きていられるのならいくらでもその大きな胸に飛び込む。
いなくならないで、と背中に腕を回してぎゅうと抱きしめる。
ウィリアム様がいなくなったら私はどうなってしまうのだろう。いつも通りの日常を送れるのだろうか。何も変わらず研究室に籠もって実験をしているのか。
「(いや、きっとできない)」
ウィリアム様の笑顔を思い出し、仕草を思い出し、この香水の香りにもう一度包まれたいと意味もなく街を歩いてしまう。いただいた手紙に残った香水の香りに、もう会えないのだと絶望して彩りのない世界を生きていくのだろう。
顔を押し付けてウィリアム様をぎゅうぎゅうと抱きしめる。そうしていないと泣いてしまいそうだから。そうしていないと、ウィリアム様がどこか遠くへ行ってしまいそうだから。
その様子をウィリアム様が柔らかい表情で受け入れる。どこにも行かないよ、と言うように力いっぱい抱きしめ返してくれる。
しかしウィリアム様は、どうしても愛おしさを感じると共に、どろりとした仄暗い感情が溢れてきてうっそりと微笑んだ。
「・・・・・・・」
こうやって言葉や仕草で私がどんどんウィリアム様に依存していく様子に、恍惚な表情を浮かべる。
ーーー捕まえたら、二度と離さない。
その言葉を伝えるつもりはないウィリアム様は私の頬に手を添えるとこちらを見るように促す。私はそれを嫌がってぽすんと再びウィリアム様の胸に顔を埋める。
拗ねているのかとウィリアム様がくすくす笑う。だけど私からこうやって抱きついてくることはとても貴重だと思い直したようで、そのまま頭の上に顎をおくと遠くの海を眺めた。
「・・・・ジェニファー」
「・・・・・」
「コンフィアンス殿からどんな手ほどきを受けているか気にならない?」
「・・・・・・・・」
「うん?」
「・・・・気になります・・・・」
「はは、そうだよね。君ならそう言うと思った」
「・・・・・・」
「体力づくりは軍人メニューと同じものにしてもらってる。走ったり、重りを持って筋力を高めたりしてるよ。・・・ああ、東洋の『禅』という精神を統一するメニューは面白いな。ただあぐらをかいて座ったまま目を閉じるんだ。瞑想と呼ばれるものらしくて、迷いが消えたり自分の魔力と対話することができる」
「た、・・・対話・・・・」
「そう。対話といっても本当に話しをするんじゃなくて、体内にある魔力を感じると言うべきかな」
「・・・・・・」
なんだそれ、おもしろそう。私は気になって少しだけ顔を上げる。そうすると嬉しそうに顔を綻ばせているウィリアム様と目があってゔ、と言葉を詰まらせる。やっとこっちを見たね、と言われて恥ずかしくなり顔を下へと向けるが、やっとそこで私はウィリアム様を全力で抱きしめていたことに気づく。
慌てて腕を離そうとするが、ウィリアム様の腕と脇腹に挟まれてしまって抜き出すことができない。ウィリアム様も私が正気に戻ったと気づいているのか、ただただにっこりと微笑んでこてんと首を傾げた。こ、この方わざと力を入れている。
「・・・・・・・」
「・・・・ふふ・・・」
がっちりホールドしながらウィリアム様が片方の口角だけを上げる。ま、まずい。この表情をしている時は私にとって良いことなどないのだ。そう思い必死に腕を引くが離れない。
ウィリアム様がそのまま私に寄りかかって手すりに押し付ける。それから天使のように微笑むと続きを話そうと薄い唇を開いた。
「魔術はね、私の得意属性を伝えたから光属性に関連する文献や本から、使えそうな陣形について教えてもらってる」
「なんと!・・・・あ、・・・ゔ・・・そ、そうですか」
「はは、うん。今は五つくらい陣形を使えるようになったかな。光なら水や火、風も使えるから最近はそっちも教えてもらってる」
「(すごい・・・陣形を使える人は本当に限られるのに・・・)」
陣形は円の中に三角や四角形を用いて光や風の意味を持たせる。そしてその中に聖魔女が生きていた遥か昔に使われていた文字を記す。それだけでも十分強力な魔術を使うことができるが、さらにそこへ精霊の名前を加えると精霊自体を召喚したり、精霊の力を借りることができる。
もうほとんど魔術師様じゃないですか。
驚いてウィリアム様を真っ赤な顔のまま見上げる。やはり神は天使を贔屓にしすぎだ。二物も三物も、いやもっと授けている。もともと素質があったのだとは思うが、何でも器用にこなしてしまうウィリアム様がもう天使というか神と同等に見える。
「(もしウィリアム様に『あの日』がなかったら魔術師様になっていたのかな)」
お母様の顔を焼いてしまった過去がなければ、ウィリアム様は私の知っているウィリアム様ではなかったのかもしれない。コンフィアンス様と肩を並べ国や民を守る尊い方になっていたかもしれない。
なんだか遠く感じてしまうな。
ウィリアム様の才能に自分を重ねてしまい嫌になる。私は頭でっかちなだけで、魔力が伴わない。思わずいいなぁ、と俯くとどうしてもウィリアム様の胸に額を当ててしまい死にそうになった。わ、忘れていた。今抱きついていたんだった。
その様子をウィリアム様が幸せそうに眺める。そして腕に力を入れ私の頭にキスを落とした。
「今度見せてあげるよ。君が喜ぶと思って、いろいろ自分なりに調べた魔術もあるんだ」
「・・・・・・」
「気にならない?」
「・・・・・・」
「・・・・残念だな、火属性の陣形で不死鳥を作り出すことができようになったのに」
「なんですって!?」
「く、ははっ・・・・!」
「あ”・・・・・」
ウィリアム様の言葉に思わずバッと顔を上げる。火属性の魔術の中でも魔力に形を与え、攻撃をしたり防御を行う高等魔術を使えるようになったと聞いてはそうせざるを得ない。
以前、バーバラさんを襲おうとした魔狼に向けてウィリアム様は湖一帯を覆うほどの炎を放ったことがあるが、あれには形がなかった。それは魔力の量こそ異なるが、日常的に暖炉に火をつけるために魔力を注ぐものと同じ簡単な魔術だ。
だけど陣形を用い、魔力に精霊の力を加えたウィリアム様は形を持たせることができるようになった。形を作り出すには強靭な精神力と魔力を練り上げるための才能がなければできない。
それができるようになったとこの方は言ったのだ。私を喜ばせるためと文献を読んだだけでできるようになってしまったのだ。
もう神を疑いたくなってきた。
私が突然の言葉に驚いて顔を上げ、やっぱり上げるんじゃなかったと拗ねているとウィリアム様が笑いすぎて目に涙を溜めながらこちらを見下ろす。そして首元に顔を埋め体を左右に揺らした。抱きしめられている私も一緒に揺れてしまう。
「はぁ・・・っおかしいなぁ、・・・本当可愛いから困る」
「・・・・もうからかわないでください」
「今の顔はよかったよ・・・っ・・・『なんですって』は面白かった」
「・・・・っ、仕方ないです。ウィリアム様の才能が尋常じゃないのがいけないんです」
「それって褒めてるの?」
「・・・・そうですよ、簡単に陣形を覚えたり魔力に形を持たせたりすることも普通すぐにはできません。魔術師様だって会得するのに時間がかかると本で読んだことがあります」
「あぁ・・・だから最近当たりが強くなったのか・・・分かりやすい人だな」
「え?」
「いや、こっちの話。・・・・あ、それとティミッドさんから君に言伝があるよ。この前はありがとうと言っていた。それから手紙を君に書くって。モディリーさんとは毎日手紙を送り合っているようだよ」
「そうですか・・・・・」
よかった、うまくいっているんだ。魔力の使いすぎで倒れその後連絡を取っていなかったので気になっていた。ウィリアム様の言葉に安堵すると、体から力を抜いた。
久しぶりにティミッドさんに会いたい。それからディーアさんにも、エナマティさんやベティーヌさんにも。そして、なんだかんだ言っても最後は必ず助けてくれるコンフィアンス様にも。
魔力の相性が良いからと私を女の子扱いするコンフィアンス様が懐かしい。ウィリアム様とは反りが合わないみたいだけど、男友達だからそれで良いのだろう。
思わずくすくすと笑うとウィリアム様が片眉を上げてにこりと微笑む。その笑顔に顔を真っ赤にさせながら逃げようとするがどこにも逃げ場などなかった。そ、そろそろ解放していただけないだろうか。
「うん?どうした?」
「い、いえ・・・なんでも・・・」
「・・・・うん?」
「・・・・いえ、その・・・お会いしたいなと」
「・・・・・誰に?」
「ティミッドさんやコンフィアンス様にです」
「・・・ティミッドさんからは手紙が届くからそれでいいんじゃないかな。コンフィアンス殿については私から教えてあげるから会う必要はないよ」
「ですが・・・お礼もちゃんと伝えられていませんし」
「私から伝えておく」
「・・・・面と向かってお礼を伝えるべきかと」
「だめだよ」
ムッとした表情でウィリアム様が私を見る。なんだか大事な玩具を誰かが取ろうとしているから今にも癇癪を起こしそうなあどけない表情で見つめられる。私は無駄に『か、可愛い』と震える。なんだろう、ウィリアム様を好きだと自覚してから無性に可愛く見えるのはなぜだ。
ぐっと身を乗り出して顔を寄せられる。そうするとどうしてもぐにゅりと『あいつ』が現れる。それが嫌で顔を背けると気に障ったのかすり、と頬に頬を寄せられた。
「私が司令部に一人で行っている意味ちゃんと分かってる?」
「・・・・あ、あの・・・」
「私の可愛い彼女を見せたくないからだよ」
「・・・あっ!あの!」
「君が恥じらって顔を赤らめているところなんて見せたくない。特にコンフィアンス殿には」
「ウィ、ウィリアム様・・・ど、どうか」
「君は私だけ見ていればいいのに。私だけじゃ足りないかい?」
「・・・た、足りています。足りています」
「本当に?君が私のものになってくれないから気が気じゃないよ」
「(・・・し、死ぬ・・・)」
悩ましいと眉を下げこちらを見る婀娜やかなウィリアム様の色気にあてられて顔に熱が集まる。左頬に手を添えながら、右頬に唇が寄せられる。そのまま食まれるといろんな意味で召し上がられてしまうとどきどきする。
右頬から離れた唇がそのまま首元へと下がる。だけどそこに今朝馬車の中でつけた痕がないのに気づくと、ウィリアム様が顔を傾けて反対側の首元へと寄せる。
「あ・・・・ちゃんと残ってるね」
「・・・ま、待っ・・・」
「消えないようにしないと」
「ふ・・・・、・・・」
唇ではない別の熱いものが首に触れる。そのままず、と吸われると同時に小さな痛みが走る。ご満悦と言うような表情でウィリアム様が顔を上げる。そしてわざと私のワンピースの襟と指にかけると、少し力を入れてずらしてしまう。
そのまま露わになった肌へ指を這わせると、それだけでは物足りないと別の指も襟の中に入れて鎖骨をぐりと触った。
意味の分からない感覚が触れられている部分を中心に広がっていく。声が漏れないように口を手で覆って耐え忍ぶ。それでも指の間から浅く繰り返し吐息が溢れているのを確認すると、ウィリアム様が前髪の間から深緑の瞳を覗かせ、うっそりと細める。
ぐり、ぐりとされる度に呻く。こ、こそばゆい。
「ふふ・・・ジェニファーって鎖骨弱いよね。前触った時も同じ顔してた」
「な、なんでそんなこと知って・・・・」
「覚えてない?スプリングフェスタの時、私の部屋でコンフィアンス殿に会う前服を着替えただろう?」
「・・・・・っ」
ま、まずい。すっかり忘れていたのに、あの時のことを思い出してしまう。グロート卿にお借りした男物の服ではコンフィアンス様に会うのは失礼だからとウィリアム様の自室で着替えたんだ。その時ウィリアム様の香水の香りに打ちのめされた私を見てウィリアム様がそういう雰囲気になって、それから、それからーーーー
そうだ、あの時も鎖骨をぐりぐりと触りながらキスをされた。
「思い出しちゃうね?」
「・・・・・・っ」
あの時もウィリアム様はそう言った。まるで思い出しなよと言うように呟くウィリアム様が憎たらしい。その言葉を言われてしまうと、グロート卿の客室でベッドに寝転びキスをされた時のことまで思い出してしまう。
だってあの時の『思い出しちゃうね』とは、その時のことを言っていたのだから。
二重で暗示をかけるように私の耳に唇を寄せて言う。私はかぁぁぁと顔を赤くすると必死に腕を引いてウィリアム様から離れようとする。だけど手すりに阻まれて身動きが取れない。それを良いことにウィリアム様が耳に寄せた唇から吐息を零す。近すぎて香水の香りが強い。
やばい。
「いいよ、私にだけ聞かせて」
「・・・・っ〜・・・ウィリアム様!」
「・・・・・・」
「・・・ぅ・・・、・・・く、くすぐったいです」
「ふふ・・・・それくすぐったいんじゃないよ」
「・・・・っ・・・」
ぐり、と一際強く鎖骨を擦られて肩が跳ねる。その時小さく「あ」と声を零すとウィリアム様が頬を上気させながらニヒルに笑う。
ぐちぐちと瞳の色を深緑から若紫へと変えていく。まるで見せつけるようにゆっくりと色を濁らせていく状況に言葉を失う。い、嫌だ。その行為をされると受け止めきれないものを刻まれるような気がするから。
私の体内を侵食されるような気がしてしまうから。
もうやめてくれ、とウィリアム様を見上げる。顔を真っ赤にしながら眉を下げ、目に涙を浮かべる私を見てウィリアム様が上擦ったように高い声でくつくつと笑う。ま、まるで悪魔だ。
「・・・・っ〜・・ウィリアム様!」
「ん?」
「お、おやめください・・・・」
「・・・・・うん」
「(や、やめてくれない・・・!)」
何度かお願いをすればいつもはパッと離れてくれるのに今日はどうしてか解放してくれない。私の足と足の間に膝を入れ、太腿を広げられる。だけどワンピースが邪魔して大きくは開かれない私の足にウィリアム様が眉を顰める。
それから熱を帯びた若紫の瞳を向け、ゆるゆると口元で弧を描いた。
「・・・・邪魔だな・・・・」
「・・・・・・」
「ジェニファーもそう思わない?」
「(思いません思いません)」
「・・・・そう、残念だ」
「・・・・・・」
「じゃあここでーーーー」
「思いますっ!すごくそう思いました今すごく!」
それ以上言わせない、と混乱したままぺらぺらと喋る。すると婀娜やかな表情を浮かべていたウィリアム様が一瞬ぽかんとする。だけど私から言質が取れたと無理やり解釈したらしく、片眉を上げながらニッと笑う。まるでフォーさんのようだ。
「いいの?」
「な、なにがですか」
「了承と取るからね」
「・・・・・ハッ・・・!」
「ああやっとジェニファーが私としーーーー」
「わ、わぁぁ・・・・っ」
「・・・・・・」
「・・・・・」
「私と寝ーーーー」
「わぁぁぁ・・・・っ」
「・・・・・ジェニファー」
じとっとした目をウィリアム様がこちらに向ける。だけど私は『言わせない』と全力で抵抗する。い、今のは言葉の綾だ。ウィリアム様がこれ以上破廉恥なことを言わないように伝えた感情の入っていない言葉だ。だから気にしないでほしい。
わたわたとする私にウィリアム様が乱れた前髪を掻き上げながらため息をつく。それからムッとした表情を浮かべると、腰に手を置いて『怒ってますよ』と表現する。
だけど私も今回ばかりは折れたら負けなので必死にワンピースを握りしめると『ご容赦を』と目で訴えた。す、好きだけどそういうことはもう少し待ってほしい。じゃないと多分私は酸欠で死ぬ。というか、好きだと自覚する前からキスしている時点で段階を間違えていると今更気づいた。
「・・・・・」
「・・・・・・・」
無言の睨み合いが始まる。すっかり日が沈んでお互いの顔が仄暗く見える。
だけどそこに救いの声、いや、断末魔のような声が私たちの耳に届く。驚いて声のした方へと顔を向ければ、両頬をぐっと掴みながら顔を青ざめている私の兄がいた。
よろよろとこちらへ歩いてくる兄の口から「あぁぁぁ」と弱々しい声が漏れている。い、一体なにがあったんですか。
私も兄へと駆け寄ると、すぐに腕を掴まれ引き寄せられた。
「ジェニファー・・・・兄さんすぐに助けに行こうと思ったんだ・・・」
「お、お兄様・・・・?」
「だけどケイトに邪魔されて。むしろお前が邪魔だから今はあっちに行くなと・・・・」
「・・・・・・」
そこで、一緒に船首を探検しに来ていた面々が近くにいないことに気づく。私とウィリアム様の雰囲気から邪魔になると思ってそうしたのだろう。いたらいたで困るけど、いてくれないとウィリアム様を止める人がいないから困るとも思った。
兄が肩を震わせて私の後ろでにこにこと微笑んでいるウィリアム様を睨む。それからビシッとウィリアム様を指差すと、今にも泣きそうな顔で叫んだ。
「む、娘は絶対にやらないからなっ・・・・!」
「・・・・?ラーク殿は兄では・・・・?」
「(ウィリアム様が不思議な生物を見るような目をしてる・・・)」
「ぼ、僕が娘のように思いながら大事に育ててきたんだっ・・・・僕と同じように才能溢れる子だから大事にっ」
「・・・・お兄様・・・・」
「それがっ・・・・王宮勤めになってしばらく顔を見れなくなった隙にこ、こんな悪魔に娘を奪われるなんて・・・・」
「お兄様・・・私はお兄様の妹です」
「っ・・・もし欲しければ僕の屍を超えていけ」
「ラーク殿、よく分からないです」
あまりつっこみを入れないウィリアム様が珍しくきっぱりとそう言う。すると兄はぐっと言葉を詰まらせてウィリアム様を睨んだ。それから酷く混乱しているようできょろきょろとあたりを眺めると再びウィリアム様をビシッと指差した。
「酒で勝負だ!」
「は・・・・・・」
「男たるもの、酒に溺れるようであればジェニファーの夫になる資格はない!いつなん時もジェニファーのささやかな仕草や表情から行動を予測し、ほしい言葉や思いを伝えられてこそジェニファーを妻に娶る男としてふさわしい!」
「・・・お、お兄様・・・あの、夫という表現は・・・」
「ジェニファーは表情が少ないんだ。だけどしっかり考えている。僕はジェニファーの顔を見ればどうしてほしいのか何でも分かる!」
「(いや、分かるならもうそれ以上言わないでください)」
「酒に溺れ、欲情のままに女を抱き、己の快楽を優先するような貴族を僕はいくらでも見てきた。女性を物のように扱い、貴族の娘だからとその名前だけ欲しがるような男をいくらでも見てきた。そんな男たちに、貴族の男にジェニファーは渡さない!」
「・・・・・・・」
「だから僕はーーーー」
「心外だな・・・・」
「・・・・・は?」
捲し立てるように兄がぺらぺらと叫んでいると、ウィリアム様の雰囲気ががらっと変わったことに気づく。はぁ、とため息をつきながら前髪を掻き上げる仕草は普段通りの色っぽいお姿だけど、その柳の葉のように美しい眉にくっきりと皺が寄っている。
すたすた、と兄に向かってウィリアム様が歩み寄る。遠くからなら感じないが、近くまで来るとどうしても見上げる形になってしまう兄がそのウィリアム様の表情と言い知れぬ怒気の含んだ雰囲気にぐっと言葉を詰まらせる。
「いつ私がジェニファーに対してそのような態度を取りましたか?」
「ど、どの口が言うんだ。現にさっきーーー」
「彼女にキスして何が悪いのでしょうか。可愛がって何が悪いのですか?彼氏なら彼女を思いやるのが普通だと私は思いますが」
「なっ・・・・・!」
「それから・・・ジェニファーが子爵のお嬢様だから近づいたとでも仰りたいのでしょうか?私が公爵家の息子だから、立場的に弱いジェニファーは抵抗せずに私へ身を委ねるので好きにするとでも言いたいのですか?」
「・・・・・」
「彼女が抵抗しなかったら婚約だってとうにできています」
「ゔっ・・・・・」
「私が何度その話を持ち出しても、スペンサー殿と奥様にご支援いただいてもジェニファーがその気にならないので私も我慢してきました。それでも私はジェニファーを物扱いしていますか」
「(・・・痛い・・・言葉が刺さる・・・)」
ビシッとウィリアム様に痛いところを突かれて私が言葉を失う。兄はただわなわなと唇を震わせてウィリアム様の脅威に怯える。やっぱり、普段怒らない方が怒ると怖いんだな、と他所で思った。
腰に手を当ててウィリアム様がぐっと兄の顔を覗き込む。その美しいお顔に兄もほんのりと頬を赤らめると悔しそうに歯を食いしばる。天使なのか悪魔なのか聖なる断罪者なのかよく分からないが、曇りなき深緑の瞳に見つめられると言葉が出てこないようだった。
「ラーク殿が私と酒を飲むことでジェニファーとの付き合いを認めてくださるならいくらでも飲みましょう」
「・・・・言、言ったな・・・僕は仕事柄酒の付き合いが多いんだ。負けるのは目に見えているぞ」
「どうぞ、お好きな酒を選んでください。お付き合いします」
「・・・・・行くぞ!ほらジェニファーも!」
「・・・・お兄様、あまりこういうのは」
「兄さんが守ってやるからな!」
「(聞いちゃくれない・・・・)」
兄に引っ張られるがまま船首から離れると甲板へと向かう。するとそこには待機をしていたのかケイトやブライトさんの姿があった。
私を見たケイトがにやにやとしている。きっとウィリアム様と何があったのか話を聞き出そうとでも考えているのだろう。だけど兄に腕を引かれて歩いている姿を見ると、すぐに顔色を変えてこちらに駆け寄ってくる。
「お、お嬢様っ・・・何があったんですか!?」
「ケイト・・・お兄様を止めてください・・・・」
「や、やだぁ!もしかしてさっき邪魔するなと言ったから拗ねて今から帰ろうとでも!?」
「(ケイトも一枚噛んでるからな・・・もし本当にそうなったら絶対に一緒に帰ってやる)」
「なになに!?ジェニファーお姉さんこれから何かあるの?!」
「オ、オルトゥー君・・・・」
「(ウィリアム兄さん何かやらかしたんだな、良い気味だ・・・・)」
「お嬢様、ウィリアム様のご様子がいつもと違いますが何かあったんですか」
「いやもうなぜみんな私に聞くんですか・・・・兄に聞いてください」
「(怒ってるようだったな・・・何か気に障ること言われたのか?)」
皆思い思いの言葉を心の中で呟く。その先頭を兄が歩き、レストランとバーが隣接している大きな広間まで向かう。すでに夕飯時ということもあってレストランは大勢の旅行客がいるが、私たちはそちらではなくバーへと直行する。
以前、船長のマークさんの屋敷で、荒れたフォーさんに付き合わされワインボトルを飲んだことを思い出す。あの時は空きっ腹で大量の酒を飲んでしまい、酔いが回ってその後酷い頭痛に悩まされた。今回も同じような状況なので、私はケイトにお願いをするとバーのスタッフにいくつか食事を用意してもらうことにした。
兄は酒の付き合いがあると言っていたが、あまり酒に強い人ではない。
私も兄と同じでそこまで強くはないが、酔いは脳内で引き起こされる化学反応だと思っているから難しい話を思い浮かべていると自然と落ち着いてくる。だけど兄はそれをしない。というか、多分私が特殊だと思う。
「(ウィリアム様がどれくらい飲めるのか分からないけど、晩餐会の時もマークさんの屋敷でもあんまり飲んでいなかったような・・・・)」
バーのカウンターに並んで座った二人をぼんやり見ながら大丈夫だろうか、と考える。そうしているとケイトが戻ってきて、すぐに用意してもらえたのか塩漬けにされたオリーブの種と、サラダを両手に乗せていた。
お二人の横に皿を並べる。兄はそれを受け取ると、シャツのボタンを一つ外してマスターに視線を向けた。ウィリアム様もカウンターに両腕を乗せ、にこりとマスターに微笑みかける。その天使のような笑顔にマスターはどばどばとグラスにブランデーを注ぎ、二人の前に置いた。
「・・・・逃げるなよ」
「はい、どうぞ始めてください」
そう言って二人が飲み始める。それを私たちも同じようにカウンターに座って眺める。
マスターが気を遣って私たちにも酒を出してくれる。この意味の分からない状況に私も酒を煽ると一気に飲み干した。その間に二人はすでに二杯目を空けていた。は、早すぎる。
オルトゥー君はまだ飲めないのでオレンジジュースをもらっているが、それには手をつけずにウィリアム様を凝視している。きっと心配なのだろう、と私は思っていたのだが、すでに事態を理解したオルトゥー君は必死に『ウィリアムさん負けろ』と唱えていたらしい。
どんっと兄がグラスを置く。まだ余裕な顔をしているが、味に変化が欲しいのかオリーブの種に手をつける。ウィリアム様は優雅にグラスを傾け、遅れてグラスを置く。その様子にバーで酒を飲んでいるお嬢様たちがきゃっきゃと言っていた。
それに私とケイトが気づく。なんだか嫌な予感がするな、とケイトへ視線を向けるとにやにやしていた。
「私の彼氏は見せ物じゃないのよ、こっち見ないで・・・ってお嬢様が言わないと!」
「・・・・・ケイトがこっちを見ないでください」
「まぁっ、ひどい・・・・」
「(まぁ、じゃない・・・・)」
ケイトの言葉などまるで聞こえないマスターが再びグラスへブランデーを注ぐ。それを二人が飲む。もう何度それを繰り返しているだろうか。そろそろお腹に溜まってくる頃なのでは、と兄の横顔を見れば少し辛そうにしている。ブランデーよりもオリーブに手をつける回数の方が増えている気がする。
ウィリアム様も爽やかな顔をしていらっしゃるが、遅れてオリーブに手をつけ始める。もうやめたほうがいいのでは、と思うが二人ともすごく真剣な顔をしているので声をかけづらい。
「・・・・・」
もとはと言えば、私がさっさとウィリアム様との婚約を認めなかったからこのような事態になったのだろう。本来なら公爵家のご子息から婚約を申し込まれたり、好きとか愛してるとか言われている時点で子爵の娘など『はい喜んで』と言うのが普通だ。
だけど私は誰かを好きになったこともなかったし、そういうものは母の胎の中に忘れてきたとばかり思い込んでいたので、むしろ煙たがっていた。
兄はそれでいいと言う。兄は本当に私が普通のお嬢様ではなく、せっかく持って生まれた才能があるのならそれを使ってほしいと思っている。それはとても嬉しい。そう思ってくれる人が一人いるだけで、私は幸せ者だと思う。
だってこの時代、女が男より出世するなんてあってはならないことだから。
だからこそ、兄の気持ちもウィリアム様の気持ちも蔑ろにはできない。兄は私の才能を買ってくれている、ウィリアム様は私に必要な感情を与えてくれる。どっちも大事だ。
どっちが負けても、私は喜べない。
「お、お嬢様・・・・っ」
「・・・・・・」
ケイトの言葉にはっと我に返ってウィリアム様と兄を見る。すると兄はすでにつぶれているのか、カウンターに突っ伏していた。少しだけ見える横顔が青ざめている。
私はすぐに兄へと駆け寄ると、両頬を挟んで顔をこちらに向ける。し、白目だ。口から魂のように魔力がこぽこぽと溢れている。その様子にケイトが「ひぃぃぃ」と叫んだ。
「(ウィリアム様は無、事・・・か・・・・)」
これはまずいとマスターに水を用意してもらいながら、ウィリアム様は無事かと顔を向けた瞬間、私は固まった。それはもう、月属性の精霊である『メデューサ』を前にし、間違って目を見て石にされたかの如く。
ま、まずい。
ウィリアム様の頬がほんのりと赤く上気し、とろんとした深緑の瞳をこちらに向けている。酒を飲んで暑くなったのかシャツのボタンを一つ、二つと外していく姿に、バーにいた女性陣だけでなくレストランのお嬢様たちまでもが口元を手で押さえて必死に声を押し殺していた。
「・・・・はぁ・・・・」
邪魔くさい、と前髪を掻き上げる。その時どこかから歓声が上がった。歓声というかこの世のものとは思えない美しさと婀娜やかさを見せつけられ悲鳴を上げる。ケイトが隣でカウンターのテーブルをばしばしと叩いて悶えている。
私もぷるぷると震えながら、意味もなくウィリアム様へと手を伸ばす。するとそれに気づいたウィリアム様がうっとりと目を細めながら私の名前を読んだ。
「ジェニファー」
「ウィ、ウィリアム様」
「・・・ふふ・・・」
「(ウィリアム様、色気がだだ漏れしています・・・・)」
掴まれた手をそのままに、私は額を押さえて俯く。
だけど、その間にウィリアム様へと歩み寄る複数人の女性がいることに気づいた。これだけの色気だ、『食べちゃいたい』とお嬢様が思うのも無理はない。
ウィリアム様へ手を伸ばそうとする。他のお嬢様もきゃっきゃと胸の前で手を合わせながらウィリアム様へと歩み寄っていく。
「・・・・・・」
『本当によろしいんですか?ウィリアム様を誰かに奪われても』と言うケイトの顔を思い出す。
あの時はそんなことを言われてもと思っていた。だけど、先ほど船首でウィリアム様がアントリューに対抗できるだけの力を得ようとしていると知って、そのお優しさと覚悟に胸を打たれた。
危険に晒されるかもしれないのに、今できるだけのことをしてくれるウィリアム様にただ守られているだけでいいと言われ、胸を打たれるだけでなく、どうしようもなく悔しかった。
私だって、ウィリアム様を守りたい。
「ほら、勇気出してっ・・・・」
「押さないでっ・・・・・あ、あの・・・・」
「ん?」
「(・・・・か、格好いい・・・!)」
私とは反対側の席からお嬢様二人がウィリアム様に声をかける。振り返ったウィリアム様の上気した頬を見てお嬢様が胸の前に置いている手をぐっと握りぷるぷると震える。
片方のお嬢様がそっとウィリアム様に手を伸ばす。そのままぐっと腕を引き寄せようと力を入れると、ウィリアム様が愛想の良い笑みを浮かべてお嬢様を見上げた。
「何でしょうか?」
「あ・・・あの、よかったらあちらで飲み直しませんか?」
「ああ、・・・・・」
ウィリアム様がそう言うと、了承と取ったのかお嬢様お二人がぱぁと花を咲かせるように笑顔を見せる。私はその表情をちら、と見てしまい眉を顰める。待って、待ってください。
あなたたちに、ウィリアム様を守れるんですか。
私がゆっくりとウィリアム様へと歩み寄る。その様子を今まで白目を向いていた兄と、兄を介抱していたケイトが驚いたように目を見張って眺める。
「・・・・・・」
ぐにゅりと現れた『あいつ』がきゃっきゃと嬉しそうに私の心臓の中で蠢く。時折ふわふわしたものも背中を撫で回すように動くからどうしようもなく居心地が悪い。だけど居心地が悪いと私が思い困惑している間にウィリアム様が誰かに奪われるのなら、優先すべきはウィリアム様だ。
支え合うって、決めた。
「・・・・・あの・・・」
ウィリアム様のシャツの袖を摘む。それからお嬢様の顔を見るために、ひょいと体を少し傾ける。居心地が悪いのですぐに顔を背けるが、決して離すまいとシャツを強く握りしめる。そうするとお嬢様がびく、と肩を震わせた。
私とウィリアム様が同じ色のシャツを着ていることにも気づいた片方のお嬢様がぐっと言葉を詰まらせながらこちらを睨む。そしてヴェートマンさんによって血色の良い唇を見せる私を見て、そっと視線を逸らした。
「なによ、もういるんじゃない・・・・」
「・・・・・・」
「ほら、行きましょ」
「で、でも」
「勝てないわよ、あんなお洒落なお嬢様なんか」
「・・・・・・!」
そそくさとお嬢様お二人がその場を後にする。だけど私はお嬢様が呟いた言葉に驚いて体を動かすことができない。ヴェートマンさんが用意してくれたワンピースと口紅の色を見ただけで、お嬢様が去っていった。なんという力を持っているのだろうか。
思わず自分の唇へと指をあて、俯く。その様子をとろんとした瞳でウィリアム様がぼんやりと見て、ふわりと微笑む。そしてシャツを掴む私の手に指を添えた。
「お人形さん」
「・・・・・・」
「どうした?」
「・・・・・・」
ウィリアム様が眉を下げてこちらを心配そうに見上げる。その表情を見ていると、どうしても私も眉を下げてしまう。
そのままウィリアム様の左隣に座る。そしてカウンターに腕を置き、じっとテーブルの木目を眺めてグッと拳を握って目を閉じる。強く、強く目を閉じる。
私、変わってきているんだ。
ヴェートマンさんに服選びや化粧について手ほどきを受けてよかった。ヴェートマンさんが言うように、箱入り娘のままでいなくてよかった。変わりたいと思わせてくれたヴェートマンさんに感謝してもしきれない。
ウィリアム様を誰かに奪われたら、もう私は傍にいられないのだから。
「・・・・ジェニー?」
「・・・・頑張ろうと、すごく思いました。服も・・・それ以外も」
「・・・・・・」
「もっと頑張ります。頑張って、ウィリアム様を守れるようになりたいと思いました」
「ジェニファー・・・・」
「私だって、ウィリアム様を守りたいです。守れるだけの努力をしたいです」
「・・・・・・」
「私にウィリアム様を守れるだけの機会を与えてください」
ヴェートマンさんのお店に連れて行ってくれなかったら、そう思うことはなかった。エスプリに一人で向かおうとした私に付き添ってくれなかったら、ウィリアム様が陣形を会得しようとしていることも気づけなかった。
全てが繋がっているのだとしたら、もうそれは偶然ではなく必然だろう。
ウィリアム様をじっと見上げる。その強い眼差しに、ウィリアム様も目を見張りながらこちらをじっと見つめる。だけどすぐに困ったように眉を下げると、長い腕を伸ばし私を力一杯抱きしめた。
「うん、そうだね」
「・・・・・・」
「支え合おう。私は魔力で、君は知識で補えばいい」
「・・・・・・」
「私を守れるのはジェニファーだけだよ」
「・・・・ウィリアム様」
「ジェニファーを守れるのも、私だけだ」
ウィリアム様が私の手を握る。そしてご自身の頬に添えると、首を傾け目を閉じた。
長い睫毛が頬に影を落とし弱々しく口元で弧を描く姿に、私はウィリアム様の肩に額を当てて同じように目を閉じる。それを見たウィリアム様が、こてんと私に頭を寄せると幸せを溢れさせるようにため息をついた。
「・・・さっき、私から他のお嬢様を遠ざけようとしてくれたよね」
「・・・・・・」
「嬉しかったよ。君を放ってどこかへ行くわけないけど、嬉しかった」
「・・・・・・」
「どこにも行かないよ」
「・・・・・そうしてください」
「ふふ・・・・うん、約束する」
頬に触れるだけのキスを落とす。それから私の頬に手を添えると、親指の腹で目尻をなぞった。こそばゆくて片目を瞑る。そうすると仕草がおかしいのかくすくすと微笑みながらウィリアム様がぐっと身を乗り出してこちらを見下ろす。
ニッと片方の口角だけを上げてウィリアム様が笑う。その表情に『何かされる』と分かったけれど、今はどうしてもウィリアム様から視線を逸らすことができなかった。
兄とケイトがこちらをじっと見つめる。兄は悔しそうに歯を食いしばっているが、私が先ほどウィリアム様を守るような態度を取ったことと、『ウィリアム様を守りたい』という言葉を聞いた手前、ただ拳を握ることしかできないようだった。
「ジェニファー」
「・・・・・」
「好きだよ」
「(・・・・私もです・・・)」
「ふふ・・・そこまで見つめられると照れるな・・・」
「・・・・あ、あの・・・」
「照れるし・・・・目眩がしてくる・・・・」
「・・・・・!」
こてん、と私の肩に額を当てたウィリアム様がその後何も言わなくなる。今更ではあるが、酒を飲みすぎて気分を悪くしていることに気づく。
バッと振り返ってケイトへと視線を向ける。ケイトもすぐに私へと駆け寄ると、ブライトさんを呼ぶ。オルトゥー君も慌てた様子でこちらへと走り、ウィリアム様の腕を掴んだ。
「はい撤収〜!お姉さん、この鍵で先にウィリアムさんの部屋向かって!」
「は、はいっ」
「お嬢様、私もご一緒します!」
「お願いします」
ブライトさんがウィリアム様の肩を掴んで立たせる。だけど本当に目眩がするのかウィリアム様は目を覆うとふらふらと歩いていた。オルトゥー君が兄の腕を引いて早く行こうと伝えるが、兄も兄でふらふらと歩く。あそこまで兄がつぶれたところを見たことがない。おそらくしばらくは部屋から出て来られないのではないだろうか。
「(無茶しないでください・・・・)」
マスターが空になったボトルを二つ手にしながらひらひらとこちらに手を振って見送る。いやもう、どれだけ飲んだんですか。気になるけど、今は早く介抱の準備をしたほうがいいのでぱたぱたと足音を立てながら廊下を進む。
階段を上がり、貴族の中でも尊い立場の方しか入ることができないフロアへと出れば、煌びやかな装飾のされた壁が一面に広がっている。だけどどれも今は目に入らない。
「お嬢様っ、こちらです!」
「はい」
見えてきたドアへぶつかるように手を触れると、そのまま鍵を差し込んで部屋へと入る。スイッチを押し明かりをつけ、ドアのないベッドルームへ駆け寄ればキングサイズのベッドが一つ置かれている。
シーツを外し、すぐに倒れ込んでもいいようにケイトと共に整えると私は水を用意しようとリビングの棚に備え付けられている氷属性の魔術が施された木箱を開ける。そこに水が入った硝子瓶があるのを見つけると、すぐにグラスへと注いでいく。
「お姉さーん!」
「はいっ」
オルトゥー君がドアを開いて中へ入ってくる。そのあとウィリアム様が顔色を悪くしながらブライトさんの肩に掴まってふらふらとこちらへ向かってくる。どれだけの量を飲んだのか分からないが、確実に他の動物だったら致死量だと思われるアルコールを一気に摂取したはず。
ウィリアム様が頭を押さえながらソファへ座る。ブライトさんがテーブルの上に水の入ったグラスがあることに気づくと、眉を下げながらふっと微笑んだ。
「ウィリアム様があれほど酒を煽るところを初めて見ましたよ」
「・・・ラーク殿に言われては断れないだろう」
「でも一応先につぶれたのはラーク様なので、ウィリアム様の勝ちでは?」
「・・・・その点については負けたと思ってない・・・・」
「はは、必死ですね」
「・・・必死にもなるだろ・・・・私の義兄になる人に認めてもらうためなんだから」
「・・・・だそうですよ、お嬢様」
「(そこで話を振らないでください・・・・)」
ソファの横で待機をしていた私にブライトさんが片眉を上げながら言う。なのですぐにパッと顔を背けるが、『私の義兄になる人』と兄のことを言うウィリアム様に両頬を手で押さえぼっと顔を赤くさせる。
くすくすとブライトさんが笑う。その声に項垂れていたウィリアム様も顔を上げ、私を見上げると弱々しく微笑んだ。
「・・・情けないな、こんなところを君に見せるなんて」
「・・・・ウィリアム様」
「でも、これでラーク殿には分かってもらえたと思う」
「・・・・・」
「勝ったし」
「(ウィリアム様って意外と負けず嫌いなんだな・・・)」
その負けず嫌いは誰に限ってのことなのかまるで分かっていない私は顔色の悪いウィリアム様へと歩み寄り、肘掛けの横へ向かってそのまま見下ろす。
混乱する兄がウィリアム様をどのような方なのか分かっていない上で暴言を吐いたのだから、公爵家のご子息として凛々しく罰していただいてもよかったような気もする。まぁ、兄は私のことを思って言ってくれたようなので、そうならなくてよかったけれど。
だけどウィリアム様はそうはせず、兄の言葉に真正面から応えようとしてくれた。それは兄の妹としても嬉しい。嬉しいが、もう無茶はしないでほしい。
「・・・・・・」
そっと膝を曲げ、肘掛けに手をついたまま屈み込む。その様子をソファの背もたれに寄り掛かったままウィリアム様が眺める。重たい体を少しだけこちらへ動かし、腕を組むと背もたれに頭を寄せながら目を細めた。
「ふふ・・・どうした?」
「・・・・もうあのようなことはしないでください」
「・・・・ああしなかったら君をお兄さんに取られてしまうからね」
「・・・・・・でもしないでください」
「ジェニファーは私に負けてほしかったの?」
「・・・・それは・・・・」
「うん?飲まずに負ければよかったのかな」
「・・・・それはその、・・・・違います」
「じゃあ勝って嬉しいかい?」
「・・・・・・・・」
「・・・・お人形さん」
「う、嬉しいと言いますか・・・・その・・・・」
恥ずかしくなって肘掛けに頭を押し付ける。そうするとウィリアム様がブライトさんと目を見合わせてくすくすと微笑んだ。
その声が届いて私はバッと顔を上げると、こほんと咳払いをしてじとっとウィリアム様を見た。
「と、とにかく、もうあのようなことはしないでください。結果、兄もウィリアム様も具合が悪くなっています。これからエスプリに向かうのに船出の初日から体調を崩されてしまっては困ります」
「ジェニファー・・・・」
「ボトルを二つも空けたんです。とても危険なんですよ。アルコールを多量に摂取すると体内で分解できずに麻痺し、呼吸不全となり死んでしまうケースだって事例として存在しています。意識混濁だけで済んでも後遺症が残る可能性だってあります。それにーーー」
「はは、待って待ってジェニファー」
「・・・・・・」
ぽん、と私の頭に手を置きながらウィリアム様がけらけらと笑う。それからブライトさんへと目配せをすると、その視線を受けたブライトさんが片眉を上げてソファから離れる。
なんだろうか、とそちらを見ていればブライトさんがケイトに何か言っていた。ケイトもこくこくと頷いて一度部屋を出て行ってしまう。え、どうして出て行くの。
気になり立ち上がろうとする私の頭をぽんとウィリアム様が押さえる。そしてくすくすと微笑むと、ソファの背もたれに頭を寄せたままこちらをじっと見つめた。
「はい、ごめんなさい」
「・・・・・・」
「反省しています。二度としません」
「・・・・本当ですか」
「本当ですよ。私の彼女はとても博識で頼りになるなとも思いました」
「ゔ・・・・か、からかわないでください」
「からかってなど。とても幸せだと感じています」
「・・・〜っ、ウィリアム様っ敬語を使わないでください」
「でもジェニファーはいつも私に敬語を使っているよね」
「・・・・・私は誰にでも使います」
「ふふ・・・そうだね」
ぽんぽん、と頭を撫でるウィリアム様はとても幸せそうだ。目を細めてゆるゆると微笑む姿に、私はアメリーちゃんやアニエスちゃんを前にした時のような気持ちになる。
か、可愛い。
ウィリアム様が肘掛けに乗せている私の手を掴む。そしてもう片方の手を広げる。なんとなくまだ酔っているのかなと思いながら眺めていると、私がなかなか動かないからかムッと子どものように眉を顰めてこちらを睨む。
「ジェニファー」
「は、はい」
「ほら、おいで」
「・・・・・・・」
「今動けないんだ、君から来てくれないと抱きしめられない」
「だ、だったら今すぐ横になった方が・・・・」
「その前に抱きしめたい。君に包まれたい」
「・・・・・・・」
「ほらおいで、私を守るんだろう?」
「・・・・・ウィリアム様」
「君が傍にいてくれないと、私は強くなれないよ」
「・・・・・」
「強くなりたい。強くさせて、お願いだから」
そう、背もたれに頭を寄せるウィリアム様が呟く。前髪がソファのせいで乱れているのにそれを気に留める様子もなく、ウィリアム様はうっそりと微笑むと私に腕を伸ばし続ける。
強くなりたい。そう言われてしまうと私もどうにも抗えない。もうこれ以上強くならなくったっていいのに、それでもウィリアム様は強くなりたいと言う。だから傍にいたい。いなくなったら困るから、会えなくなったら困るから。
そっと立ち上がり、回り込んでソファに上がる。ウィリアム様も右膝をソファの上に乗せるとその間に私を入れて抱き寄せる。
「ふふ・・・・捕まえた」
「・・・・・・」
「もう離してやらないよ。・・・・私だけの可愛いジェニファーだから」
「ウィ、ウィリアム様」
「他のお嬢様なら離れて行けばいいと思うけど、君はだめだよ。ずっと傍にいて」
「・・・・酔っていらっしゃいますか」
「ふふ・・・・はい、そうかもしれません」
「・・・・・・」
「とても幸せなので」
こんなに可愛らしく微笑むウィリアム様が見られるなら酒を注ぎ込みたいと思ってしまいそうになる。だけどそれでは他のお嬢様と同じだ。私はもっとウィリアム様の近いところで見守りたい。私が今まで得てきた知識を使って最大限のサポートをしたい。
その役目を、他の人にくれてやるつもりなんてない。
私だって幸せだ。ウィリアム様の香水の香りをこんなに近くで感じられるのだから。その気持ちが溢れてきゅ、とウィリアム様の背中に腕を回す。そうするとウィリアム様も嬉しいのか、私の背中に腕を回すとぎゅうと抱きしめる。
「心から君が私を好きになってくれて幸せだと思っているよ」
「・・・・・・」
「ずっと君から抱きしめてもらえる日を待ち望んでいた。だからこうやって君が傍にいると思うだけで嬉しい」
「ウィリアム様・・・・」
「寂しかったよ、何を言っても君は私を受け入れてくれなかったから。嬉しいと思うより、驚いたり困惑したりしていたよね」
「(気づかれてる・・・・)」
「誰かを追いかけるなんて初めてだったけど、報われてよかったな」
「・・・ウィリアム様、あの」
「ジェニファー、愛してる」
ウィリアム様の唇が首元に触れる。そのまま強く抱き寄せて、背中と後頭部に手を添える。乱れた前髪の間から深緑の瞳がしっかりとこちらへ向けられると、体が一気に硬直して動けない。
そんな私をうっそりとした瞳でウィリアム様が見下ろす。
「一生分の愛を注いだつもりだし、これからもそれ以上に君を想うから」
「・・・ウィ、・・・あ、の!待っ・・・・」
「だから、覚悟してください?」
こてん、と首を傾げてウィリアム様がにっこりと微笑む。か、覚悟とは何についてなのか。抽象的すぎて答えが出ないが、少なくとも『婚約を覚悟しろ』と言われたのは間違いなさそうなので、気が早いとマイペースすぎて皆が待ちぼうけをくらっている中私が慌てる。
す、好きだと自覚しただけで死にそうなのに婚約なんてした日には破滅する。
「ま、待って・・・・お、お待ちください!」
「ううん、待たない」
「どうか・・・どうかお願いします!」
「え・・・・どうしようかな」
「・・・・・・」
「覚悟しろって言ったよね?」
「・・・・い、今この状況で、ですか」
「うん。だってこれから寝ーーーー」
「わぁぁぁぁ・・・・」
「・・・・ジェニファー」
いや、だってそれを言わせてしまったら全てが終わるような気がするのだ。まさに数多の戦を耐え凌いできた城がついに陥落するような状況だ。我が牙城は何人たりとも攻め入ることができない鉄壁で構えているというのに、ウィリアム様が何度も攻め込んでくるから今はもうひび割れている。
待って、待ってくれ。いや、だってまだブライトさんたちもいるし、こんなところでそういう話をさせるわけにはいかない。と、ドアの方へ顔を向ければなぜか誰もいなくなっていた。
あ、あれ?
先ほどまでブライトさんたちがいたはずなのに、誰もいない。ただ、ドアの前に紙袋が置かれているだけだった。あ、あの紙袋は何だ。
「(ま、まさか・・・・・!)」
先ほどブライトさんがケイトに何かを伝え、急いでケイトはどこかへと走り去って行った。何か酔い覚めに良いものを貰って来るのかと思っていたが、まさかあの紙袋の中には私の服一式が入っているのではないだろうか。
このまま、ウィリアム様の部屋に泊めるために。
「ジェニファー?」
「は、はい・・・?い、いやあの、ちょっと・・・・」
私が急に顔を背けてドアの方を向いているのが気に食わないのか、ウィリアム様がじとっとした目でこちらを睨んでくる。そのままぐっと私へ体重を乗せると、ソファに手をついて真上から覗き込んでくる。
だけどすぐに眉を下げると、「敵わないな」と呟きながら頭にキスを落とす。そして、表情を改めるように眠たげな瞼の下に転がる宝石のような深緑の瞳を細めた。
とても、とても強い眼差しだった。
「ジェニファー」
「は、はい・・・・・」
「先に君には伝えておこうと思う。ご両親には旅行から戻ったら伝えるよ」
「・・・・な、何を・・・・」
「・・・・・・・・」
「・・・・・あの、」
「・・・・・・ジェニファー」
「・・・・・・」
「君に婚約を申し込む」
「・・・、・・・・」
あまりに衝撃的な言葉をウィリアム様が唐突に口にしたので、ぽかんとしてしまう。その表情に、より一層強い眼差しをこちらへ向け、ウィリアム様が私の頬に手を添える。
本当に、心から愛おしいと伝えるような柔らかい深緑の瞳を向けながら。
「言っておくけど、酔ってるから言ってるんじゃないよ」
「・・・・・・」
「君が私を好きになってくれたし、私を守りたいと言ってくれた。こうやって抱きしめてもくれる」
「・・・・・」
「私だって同じだ。同じ気持ちなら、もうこれ以上の機会はないと思った」
「・・・ウィリアム様」
「もう待たないと言ったろう?時間切れだよ」
そう言ってウィリアム様が私の頭にキスを落とす。
思わず両頬を押さえたまま固まる。その私の様子にウィリアム様は眉を下げ、そっと私から離れ立ち上がる。ウィリアム様ほどの魔力があれば、短時間でご自身を治癒魔術で癒すことも可能だろう。本当にもう酔っていないのか、先ほどのようにふらふらとはしていなかった。
だからこそ、先ほどの『婚約を申し込む』という言葉に重みを感じた。
足取りの軽いウィリアム様がドアへと進む。そしてドアの前に置かれた紙袋の中を軽く確認し、それを小脇に抱えてこちらを振り返った。
「ジェニファー」
装飾のされた壁に寄り掛かり、ウィリアム様がニヤリともうっとりとも何とでも呼べそうな難しい笑みを浮かべて私の名前を呼ぶ。
そして向かいの壁に備え付けられたドアを指差すと、ドアノブを回して開いた。
「先にシャワー浴びておいで」
「・・・・・!」
思わずワンピースをぎゅう、と握り締めて石のように固まる。ま、待ってくれ。待ってください。私は何も覚悟なんてできていない。婚約も、そ、そういうこともまだ何も覚悟できていない。
助けてください、と眉を下げてウィリアム様を見つめる。その必死な表情にウィリアム様は口元を拳で隠しくすくすと笑う。
そして片方の口角だけを上げると、片眉も上げた。まるでフォーさんのようだった。
「私はただ寝るなら先にシャワー浴びたらいいと思っただけだよ」
「・・・・は・・・」
「もう夜も遅いし、私も眠いからね。空腹だとは感じるけどそれ以上に眠い。ジェニファーもそろそろ寝たほうがいいんじゃないかな。・・・ああ、でもお腹が空いているなら何か用意してもらうけど」
「・・・・・・・」
「・・・・あれ?ジェニファーもしかして、期待した?」
「っ・・・・お先にいただきます!ただ寝るだけなので!」
「はい、どうぞ」
ウィリアム様の意地悪な言葉に私はバッと立ち上がるとウィリアム様が小脇に抱えている紙袋を引ったくる。そしてシャワールームへと入り、すぐにドアを閉めて紙袋の中を確認した。
「(ケイトめぇぇぇ・・・・・!)」
明日の服だけでなく、ネグリジェと香水まで入っている紙袋をぐしゃ、と握り潰す。私は怒りからすぐにワンピースを破る勢いで脱ぐと、さっさとシャワーを浴びることにした。
シャワーを浴びたらすぐに戻ってやる。そしてケイトにわざとらしく言ってやるんだ、ウィリアム様はお優しいからシャワーを貸してくれましたよ。と。
そう考えながら頭をがしがし洗っていると、ウィリアム様がコンコンとシャワールームのドアをノックする。それに思わず胸の前へ手を寄せて隠す。い、いや、ウィリアム様は何もしないと言ったじゃないか。
「ジェニファー、私は一度食事を貰ってくるからそのまま部屋にいて」
「・・・・・・」
「ああ、今から戻ってもきっと君の使用人は部屋に入れてくれないだろうから無駄だよ」
「(読まれてる・・・・!)」
「戻ってきたら私もシャワーを浴びるから」
「・・・・っ・・・」
「もしその頃になってもシャワールームから出て来てなかったら、期待通りのことをするよ」
「・・・もう上がります。食事を持ってきていただきたく」
「ふふ・・・・はい、分かりました」
ウィリアム様が部屋を出ていく音が聞こえる。私はすぐにシャワーを頭から浴びると、烏の行水のように済ませてバスローブを手にし、頭を風属性の魔力でぶぉぉと乾かす。
それから明日の服を着込み、ソファに座る。な、なぜ軟禁状態なんだ。
ぼんやりと「私には味方がいないんだなぁ」と黄昏ているとウィリアム様が果物を手に持って戻って来る。ちょこん、と居心地が悪そうに座っている私にウィリアム様がくすくすと笑う。そして果物を手渡すと、なぜかシャワールームではなくベッドルームへと向かう。
何をしているのだろうか、と見ていればトランクから白いシャツを取り出した。絹で作られているのか、とても滑らかな生地だと遠目でもわかる。
「明日の服だろう?今から着たら皺になるよ。これ使っていいから」
「・・・・でもそれはウィリアム様のものでは・・・」
「・・・・紙袋には別のものも入っていたような気がするなぁ」
「お、お借りしますっ」
「ふふ・・・・はい、どうぞ」
ウィリアム様はご機嫌良さそうに私へシャツを手渡し、にこりと笑うとシャワールームへ向かった。
まさかウィリアム様の前でネグリジェなんて着ることはできない私は、ウィリアム様がシャワールームに入ったのを確認し、急いでお借りしたシャツに着替える。あれ、でもシャツだけだと足下がすうっとしてしまうのだが。
明日の服もワンピースだし、下から着ることはできない。あれ、結局私はあまりよろしくない状況にいるだけではないだろうか。
「(なんかどんどん展開がおかしなことになってる・・・・)」
ウィリアム様も早く寝たいのか、すぐにシャワールームから出てくる。だけど私のように服を着替えることはせず、バスローブの姿で戻ってくるから私は内心「いやぁぁ」と叫びながらバッと顔を手で隠す。それはもう力強く目を押さえた。
そうするとウィリアム様がケラケラと笑うものだから恥ずかしくて耳まで赤くする。も、もう嫌だ。私はソファの上で俯いて必死に顔を隠す。
「ジェニファー」
「・・・・・・・・」
「こっち向いて」
「だっ、だめです・・・!」
「なんで?」
「・・・・ふ、服を・・・・服を着てください・・・!」
「着てるよ」
「バスローブは服とは呼べませんっ」
「はは・・・・そっか、もう着替えたから大丈夫だよ」
「・・・・・・本当ですか」
「うん、確認してごらん」
「・・・・・・・」
ウィリアム様がソファに座ったのか、すこしだけ揺れる。
私は本当だな、と疑いながらも指の間からちら、とウィリアム様を見る。するとそこには、胸元がはだけたままこちらを見ているウィリアム様がいた。う、嘘だ。そんな、そんな。
「い、いやぁぁ・・・・ごめんなさい・・・っ」
「ははっ・・・・っ、・・・・く・・・」
み、見てしまった。ウィリアム様の肌を見てしまった。ああ、なんて罪深いことをしてしまったのだろうか。神が丹念に作り込んだ天使の肌を、瑞々しい肌を見てしまった。
意地悪だ。着替えたと言ったじゃないか。私は恥ずかしさと怒りと悔しさから顔を隠したまま涙ぐむ。そうするとやりすぎたか、とウィリアム様が呟きながら私に腕を伸ばして抱きしめた。
い、いやもう肌が頬に当たるからやめてください。
「っごめんごめん、意地悪だったね」
「・・・・もうウィリアム様の言葉は信用しません」
「困ったな・・・・可愛いジェニファーが悪いんだよ」
「どう考えてもウィリアム様が悪いと思います!」
「ははっ・・・元気があってよろしい」
「からかわないでください・・・・っ」
もう混乱しすぎてぼろぼろと泣いてしまう。目を押さえてはいるがその間から溢れてウィリアム様の瑞々しい肌に少しだけ伝ってしまう。
そうするとウィリアム様もぎょっとして私を見下ろした。慌てたように腕に力を込めると左右に揺れながら抱きしめる。だけどおかしいのかケラケラ笑っているようだった。
「ごめん、ごめんジェニファー。っ・・・く、・・・な、泣かないで。あぁ可愛い」
「泣いていません」
「・・・っ、・・はぁ・・・そんなに怒らないでよ」
「・・・・っ怒りたくて怒っているんじゃないです」
「そうだね、私が悪かったよ。ほら、ブドウを貰って来たから食べて」
「む・・・・・」
体を離したウィリアム様が手で覆っていない私の口元にブドウを運ぶ。私も怒っているからなのか、それとも本当にお腹が空いているのか分からないまま口に入れてもぐもぐと咀嚼する。
まるで餌付けされているような気になり、ウィリアム様にそうされるのが嫌でバッと離れテーブルに置かれた果物に手を伸ばしてぱくぱくと口へ運ぶ。
その様子を親鳥のような目で眺めるウィリアム様は濡れた髪をご自身で乾かしていく。本当にこの方は眠いのか、眠いのだったらさっさと寝たらいいのに。
じとっとした目をウィリアム様に向ける。も、もちろん頭より下には目を向けずに。すると私の頬に泣いた跡でもついているのか、目尻を拭うとテーブルへと視線を移し、一つブドウを口に入れにっこりと微笑んだ。
「美味しいね」
「・・・・・・・」
「はは、拗ねないでよ」
「拗ねてません。と、というか早く着替えてください」
「え・・・でも今日の寝巻きは君に貸してしまったからなぁ」
「だったらこちらを着てくださいっ」
「・・・・脱がしていいの?」
「違います!なんでそうなるんですかっ!?」
「はは・・・ごめん。ジェニファーのころころ変わる表情は見ていて飽きないなぁ」
「(からかってやがる・・・・!)」
もうこれ以上からかわれたくない私はバッと立ち上がると歯を磨くためにシャワールームへと向かう。どしどしと足音を立てているからか、立ち上がったウィリアム様がけらけらと笑った。腹が立つ!
「・・・・お腹はいっぱいになったかい?」
「はい・・・・・あの・・・私はソファで寝ます」
「じゃあ私もそうしよう」
「・・・・ベッドで寝てください」
「ならジェニファーも一緒だね」
「・・・・・・・」
「・・・・・もう観念したら?」
「・・・・・・」
「何もしないよ、ただ一緒に寝るだけだから」
「・・・・・」
「ラーク殿に言った手前、酒を飲んだ日に何かしたら意味ないからね」
「・・・・・」
しゃこしゃこと歯を磨き、口をゆすぐ。ウィリアム様も隣でにこにこと歯を磨き終わると口をゆすいで嬉しそうに私を見る。
それから私の肩に手を置くと、少しだけ屈み込みそのまま横抱きにしてしまう。私が驚いてウィリアム様へと視線を向ければ、片眉を上げながらニヤリと笑われた。
「君がいいならするけど」
「だ、だめです」
「じゃあ言うことを聞いて」
「・・・・・・」
「はは、私の可愛い彼女は全く言うことを聞いてくれないなぁ」
ぱちん、とスイッチを肩で押して部屋を暗くしてしまう。そして私を横抱きにしたままウィリアム様はベッドに入った。
硬直する私の体に腕を回す。お互い足下は何も着ていないので、少し触れるだけで体温を感じてしまうから死にそうになった。だというのに、ウィリアム様はわざと私のふくらはぎの間に足を入れる。
「ふふ・・・・今日は良い夢が見られそうだな」
「(私は寝られる気がしませんが・・・・!)」
「おやすみ」
ウィリアム様に背中を向けている私の首元に腕を通し、その上で抱き寄せる。より密着をするとウィリアム様の瑞々しい肌を思い出してしまい内心「あぁぁぁ」と叫んだ。
頭にキスを落とし、真後ろで幸せそうな声を出しウィリアム様がもう一度「おやすみ」と言う。
「(寝られない・・・絶対に・・・・)」
これは徹夜必至だ。
私はどきどきと煩い心臓を押さえながら、必死に目を瞑ってフィーリウスさんの顔を思い浮かべた。あの丸々とした顎を思い出すと、なんだか冷静になれる気がするから。ごめんなさい。
「・・・・・・」
とく、と背中にウィリアム様の心音が届く。その音は少しだけ速いような気がして、もしかしたらウィリアム様も緊張しているのかなと思ったら死ぬほど顔に熱が集まった。
そんなわけない、そんなわけない。
ぷるぷると震えながら必死にフィーリウスさんを一人ずつ数える。そうしていると少しだけ気持ちが楽になった。今度本物のフィーリウスさんに会ったらお礼の品を贈ろうと思った。
「・・・・・・」
そんな私の背中を眺め、ウィリアム様がほんのりと頬を赤らめ悩ましい表情を浮かべていたらしい。
軽く拷問だな。と内心呟いたとか、そうでないとか。
とにかく私は、明日起きたらすぐにケイトを懲らしめると決めた。そしてこのような状況を作り出した兄に文句を言ってやると硬く誓ったのだった。
「(・・・フィーリウスさんが二十七人、フィーリウスさんが二十八人・・・・)」
「(・・・・・困ったな・・・・)」
二人きりの夜は、まだ長い。
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