お嬢様の首元
ティミッドさんを先頭に別の赤煉瓦の施設へと入る。そこは宿舎のように部屋がいくつも設けられてはおらず、中に入った瞬間に人が横に四人並んでも余裕のある大きな黒いドアがあるだけだった。
とても重そうなドアだ。ティミッドさんも大きな体ではあるが、そのティミッドさんが両手でドアノブを持ち、体をのけぞるようにしなければ開かないほどだった。
それだけ、中にあるものが危険だということでもある。
ドアが開かれると、むわ、と獣の匂いが鼻に届く。ついで鉄格子が錆びたような匂いに私は思わず顔へ手を伸ばす。部屋の中は必要最低限の光しか用意されておらずとても薄暗い。その薄暗い奥から唸り声が聞こえてくる。
「(いる・・・・確実に)」
以前、魔狼に襲われたことを思い出して鳥肌が立った。言葉の通じない相手が敵意を向けてくるほど恐怖を感じる瞬間はない。ごくり、と唾を飲み込みながらティミッドさんの後ろをついて行く。ティミッドさんも気になるのかこちらをチラチラ振り返りながらゆっくりと進む。
そして、一際大きな鉄格子の前に立つ。鉄格子の周りは分厚い煉瓦が覆われており、余程中にいるものを外に出したくないのだと思わせる。
ティミッドさんがこほん、と咳払いをしながら振り返る。そして私の目は見ずにぼそりと呟いた。
「・・・この区画は夜に活動する魔獣が体を休めるスペースです。奥で魔虎が寝てるんですけど、見えますか?」
「魔虎・・・・」
「はい。雷属性の魔力を体内に含む大きな虎です。西にいる象と同じくらいの大きさで、精霊に近いっすね。・・・・今寝てるんであまり近づくと機嫌悪くするかもしれないから気をつけてください」
「は、はい・・・・」
父の友人が西の国を訪問した際、象を絵にして贈ってくれたがあの巨大な姿と同じだけの虎がこの世にいるのか。み、見てみたい。ぜひともその姿をしっかりと。
ぐい、と鉄格子に身を寄せる。しかしそれを見たティミッドさんが慌てた様子で私の肩を掴んだ。いやいいんだ、気にしないでくれ。これで死んでも本望だ。
そんな目をティミッドさんに向けると、急に顔を真っ赤にして後退りをした。コンフィアンス様の言う通り、照れ屋なのだろう。魔獣使いなどこの世に数人しかいないだろうに、しかしその本人は照れ屋な一面を持つ。
あわあわと手を震わせながら私をじっと見る。だけど見ていられなくてそっぽを向く。しかし気になるからチラチラとこちらへ視線を送る。なんと忙しない様子か。
ティミッドさんの仕草に後ろで眺めていたコンフィアンス様がけらけらと笑う。そして片眉を上げながらニッと笑うと、その肩をぽんぽんと叩いた。
「ティミッド君、あんた好きな女がいるくせに目移り激しいんじゃないの?」
「あ、兄貴・・・・」
「俺の!俺のジェニファーちゃんだから。分かる?俺の!じろじろ見んな!」
「いってぇ!」
ばし、と背中を叩かれる。ティミッドさんが悔しそうに目に涙を溜めながら、それでも目を吊り上げてコンフィアンス様を睨む。そして顔をさらに真っ赤にして叫んだ。
「す、好きな女なんて俺はいないっすよ!」
「あぁん?俺知ってんだぞ、使用人のモディリーちゃんの尻追っかけてるって」
「しっ!しっ!尻なんて追っかけてないっす!」
「わざわざ遠回りして王宮に一番近い庭まで魔獣連れて散歩してるじゃん」
「違う!あ、あれは魔虎の子どもを走り回らせてやりたいだけで!」
「なんだっていいんだよ!俺のジェニファーちゃんじろじろ見るなっつってんの!」
「見てないっすよぉ〜・・・・・!」
「見てただろうが!」
よく分からないが、どうやらティミッドさんには思い人がいるらしい。しかし認めたくないようで両手をぶんぶん振るとコンフィアンス様に弁明をしている。やはりその様子は男の子が好きな子を皆に知られて恥ずかしがっているようにしか見えなかった。
ふぅん、そうなんだ。くらいにしか思わない私は、それよりも魔虎の子どもという言葉に反応する。子猫のように小さくはないのだろうが、きっと可愛いに決まっている。見たい。ぜひ見たい。そしてあわよくば屋敷に連れて帰りたい。
ぎゃいぎゃいと騒いでいるティミッドさんへと歩み寄る。そしてずいっと顔を寄せる。するとティミッドさんは顔を両腕で覆って一歩下がった。コンフィアンス様がまた背中をばしんと叩いた。痛そうだからやめたほうがいいと思う。
「ティミッドさん」
「(な、なんでこの子無表情なんだよ・・・)」
「その魔虎の子どもというのは、ここにいますか?」
「子ども・・・・っすか?い、いますけど」
「ぜひ、見せていただきたく」
「・・・・・・」
「見せていただけないでしょうか」
「わっ、分かりました・・・・・!」
どうぞ、とティミッドさんが大きな鉄格子の前から離れて奥へと進む。私も急いで後を追いかける。すると、その奥に小さな黒いドアがあった。ドアの先は今いた場所よりもとても明るく、新鮮な風も入るようになっている。
私は、その部屋に入った瞬間口を手で押さえてくぐもった声を漏らす。
「(こ、ここは天国か何かか・・・・・っ)」
緑の絨毯の上に高さ一メートルほどの鉄柵が立てられ、その先に魔虎と魔狼の子どもが身を寄せ合って寝ていたのだ。
その光景に眉を顰めて漏れそうになる声をなんとか堪える。可愛い。ぷるぷると震える私にコンフィアンス様も同じように震えていた。しかしどうでもいいというか見えていない私は一歩鉄柵へと近づき、その柵を握り締めながら感嘆の声を漏らす。
どうやら魔虎は大人になると象ほどの大きさになるようで、まだ子どもの魔虎は両手で力強く抱き抱えればなんとか持ち上げられる、およそ十歳の子どもくらいの大きさだった。
ぐうすかと魔狼の隣で眠っている姿は、よく屋敷に現れる野良猫と変わらない。その愛らしい姿に正直鼻息が荒くなりそうだ。必死に口と鼻を押さえて堪える。
そんな私の様子に、顔を赤らめながらもティミッドさんが目を細める。そして頬をぽりぽり掻きながら魔虎へと視線を向けた。
「まだ生まれて半月にもならないんですけど、小さい頃から人間に慣らすために昼寝の時間は母親から離すんです。昼寝が終わったらさっきの部屋に戻します」
「そうなんですね・・・・」
「雷属性の魔獣なんで、親離れしたら『雷鳴の森』に放って成長を見守ります」
「雷鳴の森・・・・」
「雷属性の精霊が好んで生息する森っす」
「(き、聞いているだけで胸が躍る・・・・っ)」
「そこで約百年くらいかな、じっくりと体内に雷属性の魔力を溜め込んでいくと、あの母魔虎くらいの大きさまで成長します」
「なんと!百年も・・・・・!」
驚きすぎてバッとティミッドさんを見上げる。するとすぐに視線を逸らされ、照れ臭そうに鼻頭をぽりと掻きながら呟く。
百年でやっと象ほどの大きさになるのか。そ、それは先が長い。私もあの魔虎の子どもが大きくなる頃までは生きていられる自信がない。せっかく屋敷に連れ帰り、大きくなるまでその成長を観察しようと思っていたのに。
そんなことを考えながら鉄柵を掴みため息をつく。その様子にティミッドさんがくすくすと笑う。
「魔獣なんてそんなもんすよ。少しずつ大きくなっていくんです。そんで精霊になる。精霊になれば人の言葉を理解することもできるし、契約すれば力を貸してくれる。あの子どもたちが大きくなったら後々の魔獣使いが契約できる。そのために今の俺たちが頑張ってるんすわ」
「・・・・・・」
「人に懐いていれば契約時に戦う必要もなくなるんで」
「・・・・・・」
先のことまで考えて魔虎や魔狼の世話をしているティミッドさんに感心する。それは、数少ない魔獣使いの責務なのかもしれない。そうやって、後世に技術や知恵を遺していくのだろう。
照れ屋で人間味のあるティミッドさんではあるが、その仕事はとても尊いものだ。
思わず尊敬の眼差しを向けていれば、コンフィアンス様が嫌そうに眉を顰めながらティミッドさんの脇腹をぎゅうと抓る。そしてニッと笑いながらこちらを見た。
「こいつが狙ってるモディリーちゃんがさ、大の猫好きらしくて。そんでわざわざこっから遠い庭まで散歩してんのよ。魔虎も見た目は猫だからモディリーちゃんが振り向かないかなって」
「兄貴ぃ!」
「でもモディリーちゃん、かなり奥手らしくてぜんぜん進展ないんだわ」
「ふむ・・・・・」
照れ屋なティミッドさんと奥手なモディリーさんなら微笑ましい光景を目にすることもできるだろう。なんとなく、頭を掻きながら俯いてティミッドさんが話しかけ、モディリーさんが目を細めながらにっこりと微笑んでいる姿が目に浮かぶ。
しかし、それをなぜ私に報告するのか。
残念ながら私は恋の相談など乗れるような立場にいない。身を余している人間だ。そういう話ならケイトや母の方が役に立てるだろう。
無表情のままコンフィアンス様を見上げる。じっと見つめられたコンフィアンス様は嬉しそうに顔を綻ばせると、ティミッドさんの肩に手を置いた。
「だからねジェニファーちゃん、こいつがじろじろ見てもそういうつもりはないから気にすんなよ」
「・・・・はぁ・・・・」
「(・・・もしかしてジェニファーちゃんって相当鈍い子なのか?)」
ばちっとウィンクをしながらコンフィアンス様に言われるが、私は中身のない声を漏らすだけだ。その様子にコンフィアンス様が無表情のまま考え込む。
しかし、何かを思いついたのか急に明るい表情になると、私に一歩近づいた。
「ジェニファーちゃんさ、ここは一つ俺と一緒にティミッドの恋叶えてやりません?」
「え”・・・・・」
「こいつ見てると焦ったいんだわ。いつまでたっても声すらかけやしないし」
「・・・・・」
「モディリーちゃんだっていつまで使用人の仕事するか分からないだろ?そのうち他の男に取られちゃうかもしれないからさ。ジェニファーちゃんも、他の男よかティミッドの方がいいと思いません?」
「それは・・・思いますが・・・・」
きっと素敵な夫婦になると思う。フォーさんとジャンティーさんのような。
しかし、私では役に立てないとも思う。なのでコンフィアンス様に対して歯切れの良い返事ができない。その私の表情に、コンフィアンス様は銀髪を耳にかけると一度ウィリアム様へと視線を向けた。
今まで黙ったまま後ろに控えていたウィリアム様がコンフィアンス様ににこりと微笑む。コンフィアンス様もニッと歯を見せて笑うと、私の肩を引き寄せて言った。
「ウィリアム君も虫が一匹減ると思えば分かってくれるっしょ?俺とジェニファーちゃんが仲良く協力してティミッドの手伝いすんの」
「・・・・どうでしょう。ジェニファーに聞いてみては」
「あ”ぁん?俺はウィリアム君に聞いてるんだけど?」
「ジェニファーが手伝いたいのか、それが重要かと」
「・・・・だってよジェニファーちゃん、手伝う?」
「・・・・・・」
手伝いたくはない。というか、手伝えるだけの実力がないので役に立てない。そう思うがコンフィアンス様はこちらをにこにこと微笑みながら見つめてくる。その表情には、あまり拒否権が用意されていないようにも思う。
ちら、とティミッドさんを見る。視線を向けられたティミッドさんは照れ臭そうに頭を掻いてそっぽを向いた。先ほどまであれほど騒いでいたが、コンフィアンス様が『手伝う』と言い出した途端大人しくなったので、本人としても手伝ってもらえるのならありがたいのだろう。それこそ、魔虎の手も借りたいといった具合に。いや、違うか。
「(・・・・だけど私では・・・・・)」
どうしようか、と口を開いたり閉じたり繰り返す。そうしていると、ウィリアム様が一歩こちらに歩み寄ったのが横目に見えた。こういうことになるとすぐ頼りたくなる私の悪い癖が出そうになる。
ウィリアム様の長い腕がこちらへと伸ばされる。しかしその腕が私の手に触れるか触れないかのところで、ベティーヌさんが「そういえば」と声を漏らした。
皆がベティーヌさんへと顔を向ける。そして、機嫌が悪そうなウィリアム様と目が合うとすぐに視線を逸らした。
「いや、ははは・・・えっと、なんか手伝う手伝わないは置いといて参考になるかは分かんないけど、この前王宮に用事があって行った時に多分モディリーさんのことを使用人たちが話してるの偶然聞いたんすわ」
「えっ、な、なに聞いたんだ?」
「ははっ、ティミッド意識しすぎ!多分だからまだ分かんねぇけど、モディリーさん小さい頃から御伽噺が好きらしくてさ、告白されるならこういうシチュエーションがいいっていうのがあるらしいよ」
「な、なんでお前が知ってんだよ!」
「たまたま聞いたって言ったろ!王宮の使用人たちって暇さえあれば無駄話してるから!」
「仕事ついでに嫁探しでもしてたんだろ!」
「しちゃ悪いかよ!」
がみがみと喧嘩を始めたティミッドさんとベティーヌさんにコンフィアンス様が頭を抱える。そして二人の頭を叩くと「続きを話せ」と伝えた。
頭を押さえながらベティーヌさんが話す。まだモディリーさん本人の話か定かではないようだが、その話ではモディリーさんはある御伽噺に描かれていた素敵な告白シーンが頭から離れないとのことだった。
宙に浮いた石階段の先にふわふわと揺れる塔があって、その塔には入り口がない。窓枠から囚われの姫が顔を出し、手を差し出す。しかし王子の手は届かない。そこに魔術師が現れ、石階段をそっと塔へと寄せる。二人の手が初めて触れ合い、そして王子が言う。『私と結婚してください』と。
姫はきらきらと輝く涙を流しながら頷き、窓枠から王子へ向かって身を投げる。魔術師によって動かせるようになった石階段にそのまま二人で乗って、二人は塔から離れる。そして王子の城に戻った二人は幸せに暮らしましたとさ。
「(・・・よくある御伽噺だな・・・・)」
会話の全てを聞いていたらしいベティーヌさんがぺらぺらと喋る。その内容をティミッドさんが真剣な眼差しで聞く。おそらくティミッドさんは、モディリーさんの望むシチュエーションで告白をしようと考えているのだろう。
しかし、石階段を浮かせ、そこから人を二人乗せて動かすことは魔術を使っても結構難しいと思う。もし魔術を使うなら風属性の魔術だろうが、風属性はむらがあるので石階段を固定するのも難しいし、そのあと二人を乗せて浮遊するのは至難の技だ。最悪二人を高いところから落としかねない。
魔術師様ならできるだろうか、と思いコンフィアンス様を見上げるが私と同じような表情をしていた。魔術師様は私や国民のように生きるために魔術を使うのではなく、国民を守り、時には戦うために魔術を使う。つまり、操作性の高い魔術ではなく攻撃性、もしくは防御に長けた魔術を専門にしている。
「・・・・ふむ・・・・」
しかし、私としては恋の手助けをするよりも格段に相談に乗りやすい内容だ。魔術に関してなら、何か役に立てるかもしれない。まだどうすればそのシチュエーションを作り出せるかは分からないが、これならーーー
「・・・・ティミッドさん」
「は、はい」
「・・・・モディリーさんに、告白されたいですか?」
告白したいのなら、力になれるかもしれない。コンフィアンス様には中央司令部を見学させていただいたお礼もあるし、ティミッドさんにも素敵な魔虎の子どもを見せてもらった。
なので、本当に告白をしたいのならちゃんと言葉にしてほしい。もし少しでも気持ちが後ろ向きになっているのなら、人生に関わることだから無理強いはしない。
告白をする、という行為そのものに共感はできないが、それでもティミッドさんとモディリーさんが幸せになるのなら。これも何かの縁だ。
じっとティミッドさんを見上げる。私の視線にティミッドさんがゔ、と言葉を詰まらせる。それでもぐっと拳を握ると、私をまっすぐな瞳で見下ろした。
「・・・・・はい!」
「・・・・そうですか」
そこまで聞いて、さっそくそのシチュエーションを作るための方法を考える。腕を組んでぼんやりと佇む私の様子に、コンフィアンス様が嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ジェニファーちゃん!手伝う気になった感じ?」
「そうですね・・・・ですがそのシチュエーションを作り出せるか微妙です」
「俺ら魔術師だから何でも言ってよ。いくらでも手伝うから」
「・・・・・・」
そう言ってくれるコンフィアンス様をじっと見上げる。コンフィアンス様は急に見つめられたのでどきっとしたらしく、乙女のように胸に手をあてて頬を赤らめた。
しかしその様子など全く気に留めず、私はコンフィアンス様の得意属性について考える。コンフィアンス様は月属性を得意属性としている。その魔術はまだ未解明な部分も多いが、影を操ったり幻覚を見せることができるとされている。
「(幻覚を見せることができれば、そのシチュエーションにも近づけられるかもしれない)」
「(めっちゃ見てくるんですけど・・・・・!)」
「・・・・・はい、ぜひコンフィアンス様のお力をお借りしたく」
「お、・・・・おう!任せろ!ジェニファーちゃんのこと受付所に言っておくから、いつでも入れるようにしとく」
「ありがとうございます」
コンフィアンス様がぐっと拳を握って歓喜の表情を浮かべる。コンフィアンス様の部下の面々が「よかったっすねぇ」と拍手をしていた。
私はその間顎に手をおいて物思いに耽る。しかし大事なことに気づきハッと顔をあげる。この司令部まではウィリアム様の馬車で運んでもらった。私が軍人の娘であれば父を訪ねに司令部を足繁く通うことができるだろうが、子爵のお嬢様が一人で司令部に何度も足を運ぶと悪目立ちする。最悪コンフィアンス様たちに迷惑がかかるだろう。
それに国家に関わるような依頼ではなく、あくまでもティミッドさんの恋愛補助をするから毎日通わせてくださいと言うこともできない。
「(ウィリアム様にお願いするべきだよな・・・・)」
しかしウィリアム様も公爵家のご子息として、毎日お忙しそうにしていらっしゃる。コールマン公爵の屋敷から王都までは往復三時間くらいはかかる。馬車は自分で用意するとしても、ウィリアム様の貴重な時間を割いていただくなど、無礼だ。
伝えづらいが、すでに協力すると言ってしまった。私はできるだけ穏便に、かつ誠心誠意お願いをしようとウィリアム様へと歩み寄る。
日の光が当たらない場所でウィリアム様がぼんやりと佇む。壁に寄り掛かり、腕を交差させて肘を掴んでいるその姿は、なんとも言えない冷え冷えとした雰囲気があった。
それでも私は目の前まで歩み寄って、ウィリアム様を見上げる。そして、天使のような微笑みが目の前にあるのに、ぞっとした。
「・・・・・・・・」
「・・・・・」
「どうした?」
「・・・・・・・」
薄く目を開いたまま、ウィリアム様がこちらを見る。柔らかい笑みを唇だけで浮かべじっとこちらを見下ろすその深緑の瞳は、影が差しているからか真っ黒に、どこまでも光など届かない暗闇のように見えた。
ウィリアム様の長い腕が伸び、すり、と頬を指で撫でられる。初めてされる仕草に私は目を見張ったまま固まる。長い指が顎を掬う。そしてぐっと身を乗り出してウィリアム様が真上から覗き込む。
薄く開かれた唇が、やけに艶やかに影の中で光った。
「見学は一回きりだと思ったから我慢していたのにな」
「・・・・・・」
「依頼を受けたら何度も来ないといけないね?」
こてん、と首を傾げてウィリアム様がニヒルに微笑む。そして顎に添えていた手をするすると下げて首に触れる。手の甲でそこを撫でられる。その手が裏返しになると、そっと優しく掴まれる。それから親指と人差し指の腹で軽く握られる。苦しいと思うことはないが、その指に私の脈が移っていく。
どく、どくといつもより早い脈をウィリアム様が確認するように手を止める。もう片方の手が右腰に添えられる。いや、腰というより脇腹だ。脇腹を撫でられ、思わず変な声が出そうになり口を抑える。その様子をうっそりと見つめながらウィリアム様は脇腹を撫でる手を上へと伸ばした。
私の体のラインに合わせて手が上がっていく。するすると伸びたその手が、脇の下まで来たところでぐっと力を込められる。そうするとどうしても胸元に多少の圧迫感がある。い、いや、触れてはいない。触れてはいないが際どい。
思わず顔を赤くしながらウィリアム様の手を外そうと腕に力を入れる。しかしそれよりも前に脇を撫で、肩へ移った手が腕から肘、そして手首まで下がっていく。その手首には腕輪がついている。
グロート卿からいただいた腕輪には、呪術を抑えるために水晶がついている。その水晶を眺め、変色している様子にウィリアム様がにこりと笑う。
「・・・・腕輪、また少し黒くなったね」
「・・・・・・」
「依頼より、呪いについて調べる方が良いとは思わない?」
「・・・そ、それは・・・・」
「私はそうしたいな?」
「・・・・・・」
ウィリアム様のおっしゃる通りだ。見学はもちろん楽しみにしたけれど、中央司令部の横には王宮図書館がある。そこで呪いについて調べようとウィリアム様は以前提案してくれた。だから一緒に来てくれたのだ。
依頼どころではないだろう、とウィリアム様の目が言う。首に添えられた指に力が込められる。掌が首を圧迫する。眉を下げてウィリアム様を見上げれば、なぜか嬉しそうに目を細めて笑いかけられた。
その仄暗い瞳に指先が冷える。しかしなぜか『あいつ』がきゃっきゃと喜んだ。こんなに冷え冷えとした瞳を向けるウィリアム様にどうして『あいつ』が反応するのか分からない。
「ウィ、ウィリアム様・・・・・」
「うん?」
「お、お手を・・・・」
「・・・・ジェニファーが悪いんだよ?」
「・・・・・っ」
にこり、と再び微笑んでウィリアム様が顔を寄せる。その美しいお顔が首元に埋まる。ついで、小さな痛みがあったような気がして身動ぎをすれば、その痛みの上をウィリアム様の薄い唇が包むように食んだ。
リップ音を残してウィリアム様の顔が離れる。私は驚いて自分の首に手を当てる。血でも出ているのではないかと思ったからだ。だけどそれを嫌うようにウィリアム様が手を掴む。そして甲にキスを落とす。
「だめだよ、消したら意味がない」
「・・・・・・」
「・・・・ふふ、・・・毎日つけてあげようか?」
「なっ・・・・・」
その言葉に何をされたのかようやく気づく。顔を真っ赤にしたままウィリアム様を見上げれば、うっそりとやはり影の中で微笑んだ。まるで太陽の光のような温かさはない。
「あ、あのジェニファーさん」
そこに事情を知らないティミッドさんが現れる。私は信じられないくらい肩を揺らして振り返ると、ティミッドさんも驚いたのか両手を胸の前へ上げた。しかしすぐに表情を戻すと、顔を赤らめながら頭をぽり、と掻く。
「あの、すみませんなんか手伝ってもらっちゃって」
「あ・・・・・いえ・・・・」
「ウィリアムさんも、ありがとうございます」
「はい?」
「え?」
今の今でその話はやめてほしい、と思っているところへティミッドさんが何気なくウィリアム様にもお礼を言う。するといつもより低い声を出す。いつものウィリアム様なら「いいえ」などと返事をしていたと思うが、わざと聞こえなかったからもう一度言ってくれないかというような言葉を伝えた。
ティミッドさんはウィリアム様の様子に首を傾げながらも、頭から鼻へと手を移しぽり、と掻く。
「いや、だってジェニファーさんが来るならウィリアムさんも一緒だと思うし。ど、どういう関係か知らないっすけど、一緒に来たってことは・・・そ、そういう関係なんですよね?」
「・・・・・・」
そういう関係とはどういう関係だ。抽象的すぎて返答がしづらい質問に私はぐっと言葉を詰まらせる。おろおろとティミッドさんにどう答えようか考えていると、ウィリアム様の長い腕が伸び、後ろから手を回される。
胸の前で腕がクロスする。ぴたり、とウィリアム様のシャツが背中にくっつく。私はそのままピシッと石のように固まる。ティミッドさんがこれ以上ないというくらい顔を赤くした。
そのティミッドさんをにっこりと微笑みながらウィリアム様が薄い唇を開く。
「そうですよ、そういう関係です」
「・・・・・!」
「あ、や、やっぱり・・・!兄貴も可哀想だな・・・・」
「ふふ・・・・」
「・・・・・・・・」
私が答えづらいことを、さらりと言ってのけるウィリアム様に呆然とする。ティミッドさんに訂正を入れようかと思ったが、胸の前でクロスする腕がそれを嫌がるように引き寄せる。シャツだけでなく、体温さえ感じるほどに近づく。
私が慌てる様子を見てウィリアム様が微笑む。そして私とウィリアム様を見てティミッドさんが混乱したのか意味もなく自分の腕をばしばし叩いた。
「そ、そうっすよね。あの、なんでその・・・ありがとうございます。俺、多分手伝ってもらわなかったらずっと告白もできないままだったと思うので・・・・」
「・・・・・・」
「俺、モディリーさんのこと好きだって自覚するまで時間かかって・・・気づいたの最近なんですよ。それまでは気になるだけで何となく目で追うくらいだったんですけど、そうしているうちに何でモディリーさんばっかり見てるんだろって不思議に思って。そう思ったら好きだからなんだって気づいたんす」
「・・・・・」
「・・・・・・・」
私とウィリアム様がもじもじとするティミッドさんを前に言葉を失う。なんだろうか、ティミッドさんが急に乙女に見えてきた。指をつんつんと突きながらぼそぼそ喋る姿はまさに乙女だ。
コンフィアンス様たちもティミッドさんがおろおろしているのに気づいたのか、こちらへとやってくる。そして私とウィリアム様を見て両頬を押さえ、顔を青ざめた。
「ジ、ジェニファーちゃーーーー」
「俺、こんなに誰かのこと好きになるの初めてで、どうしたらいいのか本当困っちゃってたんすよ」
「(ティミッドぉぉぉ!邪魔すんな!)」
「だから、ジェニファーさんに手伝ってもらえるって言ってもらえて本当助かりました」
「・・・・そ、そうですか」
「ウィリアム様もありがとうございます。そ、その・・・お二人すごくお似合いです」
「(俺の味方じゃないのかよ!)」
もじもじと言うティミッドさんに後ろでコンフィアンス様がすごい顔で悶えている。今にもティミッドさんに掴みかかりそうなコンフィアンス様を、部下の面々が必死に止める。
そんなコンフィアンス様を、ウィリアム様がにこりと眺める。コンフィアンス様もそれに気付き、眉を顰め歯を強く食いしばりながら食い入るように睨む。
「・・・・・・」
ウィリアム様が黙ったままティミッドさんを見る。そのお美しい天使のような表情にぼっと頬を赤らめる。そしてもじもじと再び下を向いた。
その様子に、ウィリアム様が「ふむ」と小さく呟く。
ティミッドさんは心からモディリーさんのことを好きなのだと表情と言葉で表現する。そしてウィリアム様に対して協力的だ。初心なティミッドさんの姿に何か思うところがあるようで顎に手を添えると一度どこかを眺める。
そして、ティミッドさんではなくコンフィアンス様を見つめた。
その視線に、初心なティミッドさんに感化され私の無自覚で鈍感でこじらせている感情を触発させようとウィリアム様が企んでいることに気づいたらしいコンフィアンス様がバッと手を伸ばす。
「(彼は使えるかな・・・・)」
「(使わせねぇ!)」
「よ、よろしくお願いします!ジェニファーさん、ウィリアムさん!」
「・・・・・ええ、私も喜んで協力しますよ」
「ぐっ・・・・・!」
「え・・・・・・?」
「あ、ありがとうございます!」
一歩間に合わず、コンフィアンス様が腕を伸ばしたまま固まる。ウィリアム様はその様子ににっこりと微笑むと、ティミッドさんに視線を落とす。ティミッドさんもウィリアム様にそう言われて嬉しいのかぐっと拳を握ってお礼を言う。
私は、先ほどまで依頼を受けるなと言っていたウィリアム様が急に協力的になったことに驚く。
「・・・・ウィリアム様?」
「・・・・彼のために依頼を受けるんだろう?いつもどおり協力するよ」
「あ、・・・ありがとうございます」
いいのだろうか。ウィリアム様が何を考えているのか分からないので、眉を下げたままウィリアム様を見上げる。そうすると、じんわりと広がっていた体温が少しだけ離れた。
「ああ・・・・でもその代わり」
胸の前で腕をクロスしたまま、ウィリアム様がうっそりと真上から見下ろす。そのまま顔を近づけ、ぐちりと瞳の色を若紫に変える。瞼へキスと同時に魔力を込められる。
『君は私のもの、私は君のもの』
言わずとも伝わる行動に身動ぎをする私の頬へすり、と自らの頬を寄せ、そのまま薄い唇を開く。唇と唇が触れあう。それは軽く触れるだけのものだったけれど、最後に下唇を食まれて引っ張られた。
「その代わり、ここまではさせて」
「・・・・っ・・・・」
「ここまでなら、いつもしてるからね?」
「なっ・・・・・!」
「こんのっ・・・・・!」
「きゃーっ!ウィリアムさんそれ俺もモディリーさんにやりたいっす!」
「やべー!ウィリアムさんかっこいいー!!」
「兄貴ぃ!後手に回ってます!」
各々が別々の反応を示す。そのそれぞれの反応を見てウィリアム様が小悪魔のように笑みを浮かべた。いや、小悪魔なんて可愛いものではなかった。
それから、魔虎と魔狼の子どもたちが大人の騒がしい声に唸ったことで本日はお開きとなった。
コンフィアンス様が帰りに期間限定の入館許可証を私とウィリアム様の二人分用意してくれた。何か言いたげなコンフィアンス様に、ウィリアム様はただただご機嫌が良さそうに笑う。
コンフィアンス様はその笑みに頬を引きつらせると、最後に私の頭をぐしゃぐしゃと撫で、大きな足音を立てながら宿舎へと戻って行く。
「今日はもう遅いし、王宮の図書館には寄らずに帰ろうか」
「は、はい・・・・・」
ウィリアム様と一緒に馬車に乗り込む。そして薄暗くなった窓の外をぼんやりと、いや、先ほどの出来事に呆然としながら屋敷まで戻る。
屋敷に到着し、ウィリアム様が「次の予定は手紙で伝える」と言って屋敷を出て行く。ぼんやりとその馬車を見送っている私の様子がおかしいと母とケイトが歩み寄る。
「・・・・・っ・・・・」
「・・っ・・・・・・!」
そして、首元の痕を見つけ、絶叫した。
その日の夕食は、いつもより豪華だった。
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