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お嬢様は兎




翌日、屋敷の執事に手紙を届けてもらったこともあり、昼前にはウィリアム様から返事があった。


私の『思い出の品々を見せてもらいながら、昔を振り返ってもらうのはどうか』という、荒療治ともとれるような内容に、ウィリアム様も少し思うところはあるような文が続いたが、それでも何かあれば助力はするというお言葉もあり、早速今日にでもトレゾールさんに会いに行こうということになった。


これからウィリアム様が来る、ということもあり今日も張り切って専属使用人のケイトが私を綺麗に飾っていく。


今日は春色のピンクのワンピースにするらしい。裾にはフリルがついていて、少し足を動かすだけでふわふわと揺れる。それが歩きづらいと思う私だけれど、ケイトが楽しそうに腰についたリボンを結ぶ姿をみると何も言えなくなる。


白色のカーディガンを羽織り、最後に兎の形をした銀のイアリングをつけたところで完成らしい。どうにも可憐なお嬢様が完成したわけだが、私はピンクよりは青色の方が好きだ。


グレーの髪も、ハーフアップにした上でサイドの髪をぐるりとねじ曲げ、頭の上にちょこんと二つ置いた。鏡の前に立つと、それが耳に見えなくもない。あまりにもこてこてに可愛らしいお嬢様にされたような気がして思わず遠い目をしてしまう。



「もうすぐスプリングフェスタですからねっ、スプリングと言えば兎です!」


「・・・・・・」


「兎のように可愛らしいお嬢様を追いかけるウィリアム様がそのか細い体を抱きしめて、優しいお声で言うんですよ、「ふふ、捕まえた」って・・・・・キャーッ!胸が高鳴ります!」


「(どういうことかよく分からない・・・・・)」


「ささっ、一緒にお外まで行きましょう。あっ、フィーリウス様への贈り物もこちらに」


「はい、ありがとうございます・・・・・」



今日も脳内お花畑のケイトと共にエントランスへと向かう。するとすでにウィリアム様の馬車が到着していたのか、執事長のジョージさんがドアを開けて待っていた。


ケイトが最後の微調整、と腰についたリボンを入念に整える。それから顔にかかった髪を耳にかけると、とびっきりの笑顔で送り出してくれた。



「お人形さん」



私の姿が見えたところで、ウィリアム様が一度馬車から降りる。その長い足が地面につくと、私だけでなくケイトやジョージさんも丁寧にお辞儀をした。それを受けてウィリアム様も胸に手を当てお辞儀をする。それから、私の姿を下から上まで眺めると嬉しそうにはにかんだ。



「可愛らしい兎だね」


「あ、ありがとうございます。ケイトが頑張りました」


「今日も君がセットしたのか」


「はいっ!ウィリアム様に可愛いお嬢様をお見せしたくて!」


「いつも上手だね。ジェニーの魅力をうまく引き立てていると思う」


「はいっ!はいっ!ケイトも自分の腕を褒めてやりたいです!」


「うん、褒めてあげて」


「はぁい!」



語尾に熱烈な好意が含まれていたような気がして、乾いた笑いが出た。


ウィリアム様も気づいたのか、ぽりと頬を一度掻くと私へと深緑の瞳を落とす。それからうっとりと私の顔を眺めながら、頭の上にある二つの耳のような形をした髪に触れた。



「可愛いね」


「あ、ありがとう・・・・ございます」


「一度回って見せてよ」


「え・・・・・?」



回れとは、ここで一回転をしろということか。そんなことをしたらフリルつきのワンピースが遠心力で円状に膨れ上がるような気がする。裾は長いので下着が見えることはないにしても、それでは綺麗なお洋服を着たお嬢様がここぞとばかりに可愛げを見せるような仕草をするだけだ。


正直、ケイトのように使用人服があれば毎日楽なのに、もしくはいつもの商人の息子のような格好が一番楽なのに、と思う私としては今日の格好はあまりにもこてこての可憐なお嬢様なので、回るとかそういうことはしたくない。


ピンクのワンピースに似合うようなベージュの靴をじっと見つめる。嫌だな、でもしないとウィリアム様が何か言いそうだ。そんなことを考えながらおろおろとする私にウィリアム様とケイトがぷるぷるしていたそうだが、知る由もない。



「お嬢様っ、頑張って」


「うぅ・・・・・」


「ひらりと可憐に舞うだけですから!」


「(それが嫌なんだ・・・・・!)」


「・・・っんもういじらしい!ケイトが回して差し上げます!」


「やっ・・・・」



ケイトが私の手を取って、一緒に回る。最後はその手も離れて、一人で半回転くらいする。そうすると、想像通り遠心力とそのワンピースの重みにより、ふわりとフリルが舞った。


すぐにそれを手で押さえて俯く。もういいだろうか、これでいいだろうか。そう思いながら、ちらとウィリアム様を見上げる。ウィリアム様は口元を手で押さえてぷるぷると震えていた。なぜ震えるのか。


よく分からないままウィリアム様を見ていると、その長い腕が私へと伸ばされる。そしてそのまま正面から抱きしめられた。



「ウィ、ウィリアム様・・・・」


「はは、・・・ごめんね、ありがとう」


「(謝られて感謝された・・・・・)」


「せっかく見つけた兎が誰かに奪われないようしっかり見ておかないとね」


「・・・・・・」


「お人形さんも、私から決して離れるんじゃないよ」



眠たげな瞼の下に転がる宝石のような深緑の瞳が、ゆっくりと細められる。それから二つの耳のような髪を避けるように、前髪にキスを落とされる。そうするとどうしてもぐにゅりと『あいつ』が現れる。胸を押さえてウィリアム様から離れれば、美しく片方の口角だけを上げられた。その艶やかな表情にケイトが鼻を押さえてエントランスのドアに身を寄せる。



「離れないようにと今言ったばかりじゃないか」


「ゔ・・・・・・」



手の甲にキスをし、ウィリアム様がゆっくりと馬車へ案内してくれる。ケイトが後ろで何か叫んでいるが、もう知らない。


馬車に乗り込み、ブライトさんのお店『ブランシュ・ネージュ』へと向かう。その道中、ウィリアム様はにこにことご機嫌だった。ああ、本当にそろそろ胸の痛みの原因を病院で調べてもらったほうがいいだろうか。しかしそれを理性が拒絶する。


それからしばらく馬を走らせ、街へと到着した私とウィリアム様はいつも通り街の外れで馬車を降り、ブライトさんのお店へと向かう。


その途中、間近と迫ったのかスプリングフェスタの準備をしている人々がいた。造花や赤い木の実のついた木々を縄に通して吊るし、それを自宅の屋根から向かいの家の屋根まで伸ばす、いわゆるフラッグガーラントと呼ばれるものを取り付けているようだった。


街の掲示板にも、フェスティバルに関する宣伝広告が貼られている。ちょうど今週の土日で行われるらしい。これだけ大々的に宣伝し、準備をしているのだからきっと当日はそれはそれは素晴らしいフェスティバルが行われるのだろう。


ウィリアム様も連れて行ってくれると言っていたし、せっかくならブライトさんとオルトゥー君も誘って参加してみたい。


思わず頭上に広がったフラッグガーラントを眺めて顔を綻ばせる。すると、ウィリアム様もそれに気づいたのか同じように上を向いて歩いた。



「父や私もスプリングフェスタには資金援助をしているからかな、他人事には思えないんだ。フェスティバルの委員会は街の人々で構成されているんだけど、催し物について書かれた申請書を屋敷に持ち寄せる皆の顔を見ていると、私も楽しみで仕方ないよ」


「ええ、きっと楽しいのでしょうね・・・・」


「ああ・・・そのリストに、魔術師によるショーが行われると書いてあったよ」


「そっ、それは・・・・すごいですね!」



魔術師は、国から認められた人物しか名乗れない役職だ。主に軍に属しており、災害や事件が起こった際、その魔術を使って作業を行うとされている。私のような質の低い、そして量の少ない魔力を持っている魔術師など一人もおらず、しかも陣形や詠唱も行えるので一部の魔術マニアからすると神のような存在である。


そんな魔術師がこの街にやってくると言うのか。それは、それはぜひ見たい!


わくわくが止まらない。ああ、早く土曜日にならないだろうか。あと何回寝たら土曜日だったか。是が非でも当日はメモを持って見に行こう。あわよくば握手と、いくつか質問をさせていただこう。



「・・・・・ふふ」



思わず胸の前で手を合わせ遠くを眺めていた私に、ウィリアム様が優しく笑いかける。目を細め、にこりと微笑む姿は聖魔女のようだ。左に並ぶ私へと腰を曲げてウィリアム様が覗き込んだからか、黒髪がさらりと揺れて、その頬を少しだけ隠す。


あまりにも幸せそうな表情に、私は言葉に詰まると今までの興奮した自分が恥ずかしくなって俯いた。


この時、魔術師を呼ぼうと街の人に提案したのは実はウィリアム様本人で、以前フォーさんの事件で知り合った王都軍西駐屯地所属のブラーヴさんと連絡を取り、わざわざ魔術師をお招きされたらしい。コールマン公爵もそのことを知っており、快く承諾したそうだ。


そして想像通りの表情を浮かべた私に幸せを噛み締めていたなど、言われていないので気づくはずもない。



「楽しみだね」


「は、はい・・・・・」


「・・・ふふ・・・・・」



私以上に楽しみだと言わんばかりの笑顔に、私はぐにゅりと現れた憎き『あいつ』の駆除をするため胸を押さえながら、ブライトさんのお店へと向かう。


すると、その店先でオルトゥー君が花壇に水をあげているところに出会す。オルトゥー君に声をかけると、バケツを地面に置いて嬉しそうにこちらへと歩み寄ってくれた。



「ジェニファーお姉さん!」


「オルトゥー君、こんにちは」


「こんにちはっ・・・・あれ、なんか今日のお姉さん、可愛いね。女の子みたい。いつも女の子だけど」


「そ、そうですか・・・・」


「こう、なんていうの?いつもはシャキッとしてる女の子なんだけど、今日はゆるっとしててふわっとしてる女の子って感じ」


「・・・・?・・・・どんな感じなんでしょうか」


「つまり可愛いってこと!」


「わっ」


「いえーい!俺のとっけーん!」



きゃっきゃと言いながら抱きつくオルトゥー君に眉を下げながら笑いかける。スキンシップの多いウィリアム様を見ているからか、オルトゥー君も多いように思う。オルトゥー君が大きくなったら、それはそれは女性に優しい紳士になるのではないだろうか。


ウィリアム様がにこにこしながら私の腕の中にいるオルトゥー君の頭を撫でる。二人とも何か目で会話をしているようだが、あまり気にしないでいいだろうか。


そうこうしていると、ブライトさんがクスクス微笑みながら店先へと現れる。すでに出かける準備はできていたのか、手にはお店の鍵が握られている。



「ウィリアム様、お嬢様、ごきげんよう」


「ああ」


「ごきげんよう、ブライトさん」


「ウィリアム様からお話はうかがっています。まずはフィーリウスさんに会いに行かれますか?」


「そうですね。お礼の品もお届けしたいですし」


「分かりました。オル君、店の鍵の閉め方はもう覚えたかい?」


「うん!」


「じゃあお願いできるかな」


「はーい」



まるで兄弟のように会話をするブライトさんとオルトゥー君に自然と笑みが溢れる。すっかりブライトさんの助手も板についてきたようで、最近では店頭にオルトゥー君の作品も並べられるようになったとのことだ。まだ小さな兎や猫などの置物だけらしいが、それでもブライトさんのような素晴らしい技術を持つ方から店に出してもいいと言われたということは、そういうことだ。


今度オルトゥー君の作品を買おうかな。と思いながら鍵をしっかり閉められたオルトゥー君の頭を撫で、病院へと向かう。


オルトゥー君が早く、早くと私の手を引いて歩く。よたよたとしながらも一緒に駆け出せば、頭の上の髪がふわふわと揺れた。


その様子をウィリアム様とブライトさんがにこにことしながら眺めていた。



「ケイトさんがセットしたんですかね」


「そのようだよ」


「ああいうお姿を見ると、お嬢様のまた違った可愛らしさを知れたような気がします」


「そうだな」


「お嬢様ご本人は自覚がないところが心配ですが」


「・・・・そうだな・・・」


「ウィリアム様に出会ってから一段とお美しくなっているようにも思いますし、きっとお嬢様に向けたお手紙や招待状も増えているのではないでしょうか」


「・・・・どうしてそう不安を煽るようなことを言うかな、ブライトは」


「・・・・私も、今度お茶に誘ってみようかな」


「・・・・・・・」


「はは、冗談ですよ。半分は・・・・というのも冗談ですが、多分。ふふ、嘘です」


「やめてくれ笑えない冗談は。ブライトが相手だとやりづらいし、勝てるか分からない」


「何をおっしゃいますか。あなたに敵うものなどいないでしょう」


「その顔で言うか」


「ウィリアム様こそ」



そんな会話をしているとも知らず、私とオルトゥー君が先に病院へと到着する。オルトゥー君は慣れたもので近くの看護師を呼ぶと、フィーリウスさんに公爵家のご子息が会いたいとわざとウィリアム様の名前を告げずに伝える。そうすると尊いお立場が来たとすぐに分かったのか、パタパタと足音を立てて走って行った。


その間、オルトゥー君と一緒に待合席に座ってフィーリウスさんがやって来るのを待つ。その間オルトゥー君との会話はと言えば、最近作った硝子細工や、スプリングフェスタについてなどとても楽しいものだった。やはりオルトゥー君といるととても元気をもらえると思う。



「やぁやぁオルトゥー君。それにジェニファー様も」


「こんにちは先生!」


「ごきげんよう、フィーリウス様」



今日も脱ぎかけの白衣を慌てて着直しながらフィーリウスさんが走り寄ってくる。そんなフィーリウスさんが目の前まで来ると、私はフリルつきのピンクのワンピースを掴んで、膝を曲げ会釈をする。オルトゥー君も、ハンチング帽を外して優雅にお辞儀をした。本当にどこで覚えたのだろうか。可愛らしい。



「今日はどうしたんです?また診察室でお話ししますか?」


「よろしいでしょうか」


「ええ、ええもちろんですとも。ジェニファー様とのお話はとても愉快ですからね」


「ふふ・・・・あ、そうだ、エギーユちゃんですが、その後いかがですか?」



かねてから聞きたかったエギーユちゃんのその後について聞いてみる。するとフィーリウスさんもまさに話したかったところなのか、ぽんと手を叩くと嬉しそうにはにかんだ。


どうやら、血清の投与も落ち着いてきたとのことで、つい先日うっすらと目を覚ましたらしい。その様子にバーバラさんが泣いて喜んだそうだ。エリザベッタさんがその場にいなかったことが、少し寂しいような気もするが、目を覚ましたならよかった。私もホッと胸を撫で下ろす。



「最近では喋る元気も出てきたようで、バーバラさんに何かと質問をしているようですよ」


「そうですか・・・・・」


「今度ぜひ顔を見に行ってあげてください。最近は週に一回程度しか見舞いに来ないようですが、バーバラさんもジェニファー様に会いたがっていましたよ」


「・・・・・考えておきます」


「まぁそうですよねぇ・・・・はは・・・・」


「・・・・・・」



それから、遅れてやってきた美青年お二人とも合流し、診察室へと向かう。その間、ウィリアム様とブライトさんのお姿に、看護師だけでなく患者たちまでもがうっとりと目を細めた。目の保養、というやつだろうか。それで傷の治りが早くなるなら、ぜひともお二人には毎日病院内を闊歩していただきたいものだ。


診察室へと入り、いつものようにオルトゥー君が患者用の椅子に座る。それからフィーリウスさんが椅子に腰をかけたところで、私はウィリアム様とお互いにお金を出して購入したお菓子の入った包みを手渡す。



「お嬢様?これは?」


「いつもフィーリウス様にはお世話になっているので、お礼を差し上げたいと思いまして」


「おやおや、そんないいのに。・・・・開けても?」


「はい、ぜひ」



口ではそう言っても、やはり貰えるものは嬉しいのかフィーリウスさんがにこにこ笑いながらこちらへと視線を向ける。私とウィリアム様も自然と笑みを溢しながら頷く。


包みを丁寧に開いていく。その手先の器用さから、やはりこの人は医者なんだなと思った。そう言えばオルトゥー君が大人数人に腹部を蹴られた時、その治療を行っていたと言うが、その際に余った時間で切り絵を見せてくれたのだったか。


どうやらその包みをまた切り絵に使うつもりらしく、丁寧に折るとデスクの引き出しにしまっていた。きっと治りの遅い病気にかかった子どもに渡すつもりなのだろう。お優しい人だ。


包みを外すと、そこからワインレッド色の缶と、小さな紙箱が出てくる。それをまじまじと見つめ、フィーリウスさんが嬉しそうに声を張り上げた。



「どれどれ・・・・おぉっ!これはクッキー!それから紅茶も!」


「お口に合えばいいのですが」


「合わない口など私は持ち合わせておりませんよっ!ありがとうございます!」


「クッキーは私から、紅茶はウィリアム様からです」


「ウィリアム様もありがとうございます!さすがは高貴なお方!クッキーに合う茶葉を選ばれていますなぁ」


「ああ、茶葉はジェニファーが選びました。私はそこまで詳しくないので」


「・・・・ウィリアム様もお選びになっていたでしょう、私は二つのうちどちらがいいかと聞かれただけです」


「でも最終的には君が決めたじゃないか」


「む・・・・そうですが、ウィリアム様もしっかり吟味されているように思いました」



せっかくフィーリウスさんに贈るのだから店の中でも一番良いものを選ぼうと結構時間をかけた記憶がある。私に手柄を渡そうとするウィリアム様に、そうはいかないと声をかけるがにこりと微笑まれてしまうと言い返せない。


思わずムッとしていると、その様子を間近で見ていたフィーリウスさんがケラケラと笑った。



「ははぁ、見ないうちに随分と仲良くなられたようですなぁ」


「い、いいえ・・・・」


「はい」


「はははっ!いいなぁいいなぁ!お二人を見ていると、無性に妻に会いたくなりますよ」



正反対の回答をする私とウィリアム様へ耐え切れないとばかりにフィーリウスさんがケラケラ笑う。私もそう笑われると恥ずかしくなって俯いてしまう。隣ではウィリアム様が両手の肘を交差した手で押さえながら、困ったように笑っている。なんだか経験値の差を感じた気がした。


一頻り笑ったフィーリウスさんが、その缶と紙箱をデスクに置いて、膝に手をつきながらこちらを見上げる。その様子に、私も雰囲気を変えると早速トレゾールさんの話をしようと口を開く。



「フィーリウス様、先日お話ししたトレゾールさんについてなのですが」


「はいはい、あの声の出なくなった方ですね」


「はい。お医者様と、フィーリウス様のお見立て通り、私も心因性のものだと考えています」


「そうですなぁ・・・・おそらくそれが一番可能性があると思いますよ」


「はい・・・・そうなると魔術ではどうにもできないのですが、それでも何か役に立てたらと思っています」


「なるほどなるほど」


「例えばの話なのですが、トレゾールさんと奥様に深い繋がりのある、思い出の詰まったものや話をしていただくというのは、いかがなものでしょうか」


「トレゾールさんに思い出話をしてもらうってことですか?」


「はい・・・・思い出の中に、奥様への愛情も含まれていると思うのです。今は深く悲しまれていますが、昔を思い出して、その時のことを考えていただければ何か起爆剤になるのではと・・・・」


「うぅ〜ん、確かにそれはいい案かもしれない・・・ですが、無理に思い出を引き出せば、奥さんをより近くに感じて、今は亡くなり傍にいない事実を受け止められず、重症化する可能性もありますね」


「はい・・・・・・」


「私は外科・・・・というか全般的に診療をしますが、心療内科については専門外なのでなんとも言えないんですよ」


「・・・そうですよね」



やはり、危険だろうか。渋い顔をするフィーリウスさんに、私も声を落とす。だが、このまま何もしなければトレゾールさんは一生塞ぎ込んだまま、声を出せずに苦しんでしまうかもしれない。ただ寄り添うだけでもいい、話し相手がいれば自然と声も戻るかもしれない。


その時に、奥様の存在が、きっと頼りになると思うのだ。


私は恋愛感情には疎いが、父と母の仲睦まじい姿はよく目にしている。あの二人は私から見ても仲がいいと思う。夕食の席で父の口についたソースを拭っている母は、とても幸せそうだ。そして父も、そんな母を心底愛しているのだと思う。


だからこそ、父が悲しんだ時、もしその場にもう母がいなくても、勇気や元気を与えるのは母だと思う。


私の考えは間違っているのだろうか。間違っているのなら、答えが欲しい。そんな気持ちでフィーリウスさんへと視線を向ける。フィーリウスさんも、デスクに並べられた医術書をぺらぺらと捲りながら、顎に手をおいて考えているようだった。


そして、何か覚悟を決めたようにぽんと膝を叩くと、私へ優しく笑いかけた。



「まずは始めてみないと、何も起こりませんよね」


「・・・・フィーリウス様」


「私も心療内科の先生にアドバイスを聞いてみます。できればトレゾールさんに私も会ってみたいのですが、いかがでしょう?」


「ありがとうございますっ・・・・フィーリウス様さえよろしければ、ぜひ一緒にトレゾールさんのお店へ行っていただきたいと考えておりました」


「はは、それはよかった。じゃあ、早速今日にでも行きましょうか?夕方には仕事も終わるので、それからでもよかったら」


「ええ、ぜひお願いしたく」


「はいはい。じゃあまた夕方に。ブライトさんのお店で待ち合わせでよろしいですかな」


「はい!」



ありがとうございます。と胸の前で手を合わせる。その様子にフィーリウスさんがケラケラと笑った。


よかった。フィーリウスさんがいれば百人力だ。オルトゥー君も嬉しいのか、後ろに立っているブライトさんを振り返り、ニッと歯を見せて笑う。


ーーーまずは、一歩前進だ。


私たちはフィーリウスさんの診察室を出ると、一度お店に戻ることにした。行きよりも幾分か足取りも軽い。るんるん、と今にもスキップをしたい気持ちになっていれば、オルトゥー君もそうなのか行きと同じように私の手を引っ張って駆け出す。



「オ、オルトゥー君。急に走ると危ないです」


「大丈夫だよ!俺がちゃんと手を握ってるもん!」


「そ、そうですが・・・・・」



ケラケラと笑うオルトゥー君に、私も自然と笑みを零す。


しかしその引かれる右腕が妙に重たいと感じ、笑みはすぐに消えた。




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