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お嬢様の講義






「ジェニファーさん!やっほー!」



次の日の午後。ウィリアム様の馬車で『ブランシュ・ネージュ』を訪れる。


ウィリアム様は、今日は用事があるということで私をお店の前まで見送ると、屋敷に戻って行った。公爵家のご子息ともなればご多忙のことだろう。



「ごきげんよう、オルトゥー君」



私は徹夜をしたことで動きの悪い脳になんとか鞭を打って愛想笑いをオルトゥー君に向ける。手には研究所から持ち寄せた本があるが、いつもより重く感じるのはそういうことだろう。


きゃっきゃと明るいオルトゥー君の笑顔が今は眩しすぎて辛い。私は工房で作業をしていたらしい白雪の肌を持つ美青年のブライトさんに向き直ると、昨日言っていた通り目に良いとされるお茶葉の入った袋を手渡す。


ケイトが用意をしてくれたのだが、差し上げる相手がブライトさんだと聞くと「あのお綺麗な方ですね」と嬉しそうにーー茶葉割増でーー用意してくれた。


勝ち組の特権である。





「ありがとうございます、お嬢様」


「(ああ・・・・ブライトさんの笑顔も眩しい・・・・)」



オルトゥー君とは一味違った大人の微笑みだが、世の女性をうっとりさせるものに思わず手を目の前に翳す。その意味がわからないらしいブライトさんがきょとんとしていたけれど、勝ち組にはわからない感情だ。


ブライトさんの輝く笑みから逃げるように工房の脇に置かれた椅子の前に立つ。すぐ目の前に椅子があるのだから座りたいところだけど、この椅子はブライトさんがウィリアム様のために用意したものだ。さすがにそれがわかっているのに了承もなく座るのはよくない。


私はのっそりと動くと、椅子の近くに小さな丸テーブルがあるので、そこに手をついて一息つく。


すると、その様子をあどけない表情で見ていたオルトゥー君が歩み寄る。そしてあろうことか、私がなけなしのプライドで座らなかった椅子にどすんと腰をかける。


子どもだし、ウィリアム様の尊さがわかっていないとしても、少々驚く。すぐに立たせようか迷ったが、ブライトさんは何も言わないのでとりあえず黙っておく。




「お姉さん、俺にはお土産ないの?」


「・・・・オルトゥー君には、この本をお貸ししますよ」


「うぇ〜パスパス」


「・・・・・?・・・新聞配達をしているのに読み物が嫌いなんですか?」


「あれは仕事なだけ。好きでやってるんじゃないよ」




孤児院で育つオルトゥー君はまだ子どもだ。もしかしたらウィリアム様の妹さんとあまり年も変わらないのかもしれない。そんな子どもでは、働き口は少ないことだろう。


生きていくために好きでもない仕事をするオルトゥー君は、私よりも大人だと思う。もし私が職を探すなら、かなりの選り好みを繰り返した上で好条件のものしかやらないはずだから。


まだ幼いのに、苦労をしているのだろう。



「・・・・・・」



もしオルトゥー君が仕事に困ったら、使用人の仕事を紹介しようかと考える。


ケイトならきっとオルトゥー君を可愛がると思うし、執事長のジョージさんの横に並べばそれはそれは微笑ましい光景が見られるだろう。


もしものことがあったら、父と母に相談しよう。そう思いながら、私の本を『文字が嫌い』と言いながらも手に持ちぺらぺらと流し読みをしているらしいオルトゥー君へと視線を向ける。


その様子に、オルトゥー君は文字が読めるのだと知る。




「オルトゥー君は文字を読めるんですね」


「まぁちょっとは。でも難しい言葉はわかんないよ」


「・・・・文字が読めることは素晴らしいと思います」


「・・・・・・・」


「文字が読めれば本も読める、手紙も書ける。本はいいですよ、世界が広がります」




私は幼い頃から魔術や薬草の本に夢中になった。だからこそ今の私がある。


本を開くと途端にまるで別の世界に来たような気分になれる。今まで知らなかった事実を知ることができる。そうやって、一つ一つ意味を理解し、事実を意識するようになったことで喜びを感じるのはとても素敵だと思う。


うっとりと本を見つめながら言う。すると椅子に深く腰掛け、頭の後ろで腕を組んでいたオルトゥー君は何を思ったのか徐に立ち上がると私の横に立った。




「・・・・・・・・」


「・・・・・・・」




じっと見上げられ、言葉に詰まる。


オルトゥー君がたまにするこの仕草。何を意味しているのだろうか。何かを探るように私の若紫の目を見つめる姿は、どこか寂しげにも見える。




「オルトゥー君?」


「・・・・・お姉さんさ」


「は、はい」


「・・・・・・・」


「・・・・・・・・」


「恋とか一度もしたことなさそうだよね!」


「ぐっ、・・・・・・」


「オル君!お嬢様になんてことを言うんだ!」




特に隠していたわけではないが、真正面からそう言われると衝撃はある。


恋心など母の胎のに忘れてきてしまったので当然恋人などできたことは一度もない。というか、そういう方が欲しいと思ったことすらない。


少しムッとしたが、言われた私以上に怒っているブライトさんを見ていると自然と心も落ち着いてくる。



「・・・・・・・」



それから私は、特に悪びれる様子もなく、ケラケラと楽しそうにブライトさんの前ではしゃぐオルトゥー君を見る。


先ほど私をじっと見上げたことと、今の会話の間にできた『間』には何か共通点があるように感じる。しかし、私の実力ではオルトゥー君が何を言いたいのかはわからない。


今ここにウィリアム様がいてくだされば、何かわかったのだろうか。



「(いやいや、ウィリアム様を小間使いのように考えたらだめだ)」



相手は公爵家のご子息だぞ。そう思い直し、私は一つの本を手に取ると今だにはしゃいでいるオルトゥー君に向き直る。そろそろやめないとブライトさんに怒られるよ。



「オルトゥー君」


「ん?」


「これを一緒に見てくれますか」


「なになに」


「ここです」



本に描かれたイラストを示す。そこに描かれていたのは、一つの水滴のような形をした水晶だった。


イラストだが、しっかりと中に水が入っているのが分かる。これを作った魔術師に一度会いたいものだが、すでにこの本が出版されてから500年は過ぎているので、この世にはいないだろう。


しかし、500年経っても先人の思いや結果は続いている。ああ、なんてロマン溢れる状況だろう。




「お姉さん?」


「あ、・・・・すみません」



思わず思考の海に片足を沈めていた。慌ててオルトゥー君へと顔を向ければ怪訝な表情をされた。


私はひとつ咳払いをすると、本を丸テーブルに置き、カバンからノートとペンを取り出す。いつも私が愛用している研究ノートだ。その中身は乱雑な文字とイラストしかないが、私が分かればいいので何でもいい。


私は昨日徹夜をして調べた内容に目を通しながら、オルトゥー君に向かって口を開く。




「これは、『魔力の底しらべ』という道具です」


「魔力の底しらべ?」


「はい。この水晶の中には、特別な液体が入っています。無色透明ですが、大海亀の涙、眠れな草の露、流水樹の樹液など、様々な液体を使っているそうです」


「・・・・・ふーん」


「その液体同士は密度が異なるため何層にも分かれています。油と水が分離するのと同じ原理です。イラストにはありませんが、七層に分かれているそうです」


「うん・・・・・」


「また、魔力を感じると色も変わるとされていて、ああ色が変わる原理はーーー」


「ちょ、ちょっと待ってお姉さん」


「はい?」


「・・・・・ねぇブライトさん、ジェニファーお姉さんっていつもこんな感じなの?何言ってんのかわかんないんだけど」


「こら、失礼なことを言うんじゃない」


「・・・・・・・」




分かりやすいようにとイラストを指し示しながら説明していたのだが、オルトゥー君には難しかったらしい。渋い顔でブライトさんに文句を言うオルトゥー君に、私はぽかんとしてしまう。


そうか、難しいか。


そういえばケイトも私が意気揚々と魔術の解説をすると眉を顰めて小難しい顔をよくしていた。最近は魔術にお詳しいウィリアム様や理解の早いブライトさんに説明をしていたので忘れていたが、相手によっては伝え方に気をつけないといけないのか。


男性と違い、寄宿学校に通うこともない私は幼い頃から女性の家庭教師に教養教育などを受けた。ダンスのレッスンも行ってくれるのだが、その授業が嫌いすぎてよく抜け出し怒られたものだ。


ともかく、恩師といえる人はその方しかいない。その家庭教師以外の教師を見たことがないので比べられるか不明だが、あの方はなかなか教えるのが上手だったと思う。


簡単に教育を行っているように見えて、実は相手の年齢に合わせて話し方を変えていたのだろうか。


ふむ、やはり世界が広がるとわからないことも増える。しかし、悪くない。




「オルトゥー君、もう一度説明させてもらえますか?今度はもっと分かりやすく教えます」


「え、まだ続くのぉ?」


「オル君、それ以上お嬢様に失礼な態度を取ったら店から放り出すよ」


「だってさぁ・・・・」




口を尖らせてオルトゥー君が少し拗ねる。しかしブライトさんも子爵のお嬢様に対し、不躾な態度を取るオルトゥー君に美しい漆黒の瞳を吊り上げるので、なんとか押し黙った。


特に気にしていない、と言うべきかとも思ったが、私は新たな課題を与えられた子どものように胸を弾ませながらノートにペンを走らせる。こうやって、一つ一つ課題をクリアしていくのは楽しい。できることが増えるのと同じだから。




「例えば、グラスの中に、オルトゥー君と私とブライトさんが入ることになったとします」


「よりによって何で俺たちが例え話になるの、しかもなんでグラスの中に入んの」


「む・・・・・・」


「オル君・・・・?言ったよね?」


「ごめんってば。ごめんなさい。どうぞ続けて、お姉さん」


「・・・・・ありがとうございます。一番下が私、次にブライトさん、オルトゥー君だったとします。私たちは人間なので、混ざり合うことがない。グラスの中にそれぞれ部屋を設けます。1階は私、2階はブライトさん、オルトゥー君は3階です。」


「うん」


「オルトゥー君は、確か相性の良い属性は火属性でしたよね?」


「そうだよ」


「では、そのグラスの前にウィリアム様が現れたとします。とある理由で魔術を使うことになったウィリアム様がグラスの外から火属性の魔力を使ったら、オルトゥー君は手をあげることにしましょう。ブライトさん、ブライトさんの得意属性は?」


「水です」


「では、ブライトさんは同じ流れで水属性の魔力を受けたら手をあげます。私は風属性の魔力を受けたら手をあげます」




ノートに、大きなグラスを描く。そこに楕円を三つ描き足し、それぞれ楕円の枠から線を一本伸ばして、その先にオルトゥー君、ブライトさん、そして私の名前を書く。歪だが要は伝わればいいのだ、絵心なんてもの私に求めないでもらいたい。


その様子をオルトゥー君がじっと見つめる。気になるのかブライトさんも身を乗り出してノートを覗き込んでいる。


例えは悪かったようだが、先ほどよりもオルトゥー君は理解ができるのか、顎に手をおいて私の話をうんうんと頷きながら聞いてくれる。その表情がなんとなく嬉しい。




「ウィリアム様の得意属性は光属性なので、その魔力を放出したとします。ああ、オルトゥー君は、光属性に含まれる属性をご存知ですか?」


「んー、わかんない。あれだよね、光属性は火とか水とかの上位属性なんでしょ?」


「詳しいですね、ほぼ正解です。含まれる属性は主に三つと言われますが、応用属性なども含めると十にも増えるとされています」


「・・・・・・」


「えぇと、・・・それについてはまた今度。今は火、水、風の三つで考えます。ウィリアム様は光属性なので、グラスの中のオルトゥー君、ブライトさん、私は魔力にそれぞれ反応をして手をあげます」


「え、それウィリアムさん?」


「・・・・・絵については今は触れないでいいです」



グラスの横に垂れ目の棒人間を描く。なかなか特徴を捉えていると思うが、確かに公爵家のご子息を棒人間で描くのはよくなかったかもしれない。実物は眠たげな瞼の下に転がる宝石のような深緑の瞳を持つ、麗しい天使だし。


このイラストは絶対にウィリアム様に見せないほうがいい。


なんとなくそう思いながらも、話が進まないので続きを描く。新しく足した棒人間の顔には疑問符を浮かべた。




「この方は誰でもいいのですが、例えば風と水属性の魔力を得意としています。なので私とブライトさんだけ手をあげます」


「うん」


「また別の方は火のみ得意としています。この場合は?」


「俺だけ手をあげるね」


「はい。では、魔力の底しらべに話を戻します。この中に入っている液体も、魔力によって手をあげる液体がそれぞれ違うんです。まぁ、手をあげるのではなく、色を変化させるのですが」


「へー、なるほど」


「その色は魔力の質によって濃度が・・・・色が濃くなったり、薄くなったりするんです。今では出生直後に火を近づけたり水を浴びせたりすることで人為的に得意属性を定めることもあるようですが、大体の方は幼い頃に自覚しますよね?私は風の強い日にそれを感じました」


「あ、そうそう。俺もマッチつけたときに感じた。この痣が熱くなった」


「ブライトさんはどうですか?」


「私もそうですね、水を飲んだときに感じました」


「・・・・・今から500年ほど前は『自然理解』という概念がなかったようで、魔力の底しらべのような魔術具を用いて得意属性を特定する方法を取っていたようです」


「へー、そうなんだ」


「・・・・・・・・」




これは話すつもりはないが、本にはその道具の暗い過去についても書かれていた。


魔力の底しらべは、人間の魔力に優劣をつけるために生まれたものだと著書は述べている。その濃度や反応色によって階級に分けられ、劣悪とみなされた人々は街に入ることも許されず、草木も育たないような辺鄙な場所での生活を強いられたらしい。


そういった過去もあり、今では使われなくなった道具だとオルトゥー君が知ったら、どんな顔をするだろうか。




「でも、これが俺とロレーヌ様の親子関係をどうやって調べられるの?」


「・・・・・得意属性は父や母から受け継がれる部分が強いです。私の父は土属性、母は風属性です。私は風の次に土属性との相性がいいですし、兄は父の土属性を強く受け継ぎ、得意としています。その魔力の質も親から受け継がれるとのことです。そういう継承を『遺伝』というらしいです」


「あ、まだ続くんだ・・・・・しかもめっちゃ難しい」


「オル君・・・・・・?」


「はい、どうぞつづけてクダサイ」


「・・・特に属性を思い浮かべず魔力を放出すると、相性の良い属性の魔力が混ざります。それが一番その人の本質に近い魔力と言えます。おそらく、その方法で私が魔力を使うと風と土属性の魔力が放出されるでしょう」


「ふーん・・・・・」


「ではここでオルトゥー君に問題です。オルトゥー君とロレーヌ様の共通点は?」


「え・・・・?あ!ロレーヌ様の手にも()()()がある!」


「正解です」



バッと服の袖を捲ってオルトゥー君が痣を見せてくれる。


言い方が悪いかもしれないが、炎が燃えるような痣は、火属性が得意だというオルトゥー君にぴったりなものだ、その炎のように見える痣は、ロレーヌ様にもあるとオルトゥー君は言っていた。




「もし、ロレーヌ様が火属性を得意としていると仮定して、魔力の底しらべで確認したところ、オルトゥー君の濃淡や発色と類似する部分が多い、つまり一致していた場合」


「俺のお母さんだ・・・・・」


「はい。なので、この魔術具を手に入れられれば調べられるかなと」




まぁ、完全に一致するかはわからない。そもそも昔の道具すぎて実物を見たことがないので、本当に存在するのかも怪しい。


しかし、そこまで実験が行えれば何かしらの結果が出ると私は思う。どのような結果が出たとしても、オルトゥー君も納得してくれるのではないだろうか。


私は講義終了、と言わんばかりにノートを閉じるとペンと一緒にカバンに入れてしまう。なかなかうまく説明するというのも難しいものだ。これはオルトゥー君には悪いが、別の実験考察を説明するときは相手をしてもらうのもいいかもしれない。


ぼんやりと、そんなことを考える。



「ん?」



すると近くで物音がした。ゆっくりと音のした方へと顔を向けると、勢いよく椅子から立ち上がったらしいオルトゥー君がこちらを見ていた。


どこか震えているようにも見えるが、どうしたのだろうか。まさか昨日男に蹴られた腹部が痛み出したのだろうか。


気になりオルトゥー君へと歩み寄る。すると、突然オルトゥー君がバッと顔を上げた。




「・・・・・・・お姉さん」


「はい?」


「お姉さん天才だよ!!すごすぎ!!」


「・・・っ・・・・・」


「えー!すごすぎ!何それ!ほとんどわかんなかったけど、お姉さんがすごいことはわかった!」


「オ、オルトゥー君」


「魔力のなんたらとかいう道具とか、のーたんとかよくわからないけどすごい!」


「魔力の底しらべです。のーたんじゃないです、濃淡です」



というか、苦しいです。


ケイトがせっかく新調した焦げ茶色のワンピースがぎゅうと押しつぶされ皺ができている。腰に回された腕は子どもにしては強い。オルトゥー君に両手も一緒に拘束されてしまっているので身動きが取れないし、結構辛い。


どうしたものか。まさか少年とはいえ男性に抱擁されるとは思っていなかったので戸惑う。


しかし、きゃっきゃと顔を綻ばせ笑顔を見せるオルトゥー君の表情を見ていると、振り払う気持ちも生まれない。


もし、弟がいたらこんな感じなんだろうか。




「俺お姉さんのこと見直した!愛想笑いも下手だし奥手っぽいし何より変人だけど、今のは格好よかった!」


「(下手・・・・変人・・・・)」



まぁ、間違ってはいないから怒ったりしないけれど、誰かに言われると意外と心にくるものだな。私は内心涙を流しながらオルトゥー君を見る。そんな楽しげなオルトゥー君は、目をキラキラさせて私に抱きついたまま見上げる。


そして、予想もしない言葉を叫ぶ。




「俺、結婚するならお姉さんみたいな人がいい!格好いいもん!」


「ええっ」


「オル君!」



私は仰天、ブライトさんは焦ったような声でオルトゥー君の名前を呼ぶ。


おそらくオルトゥー君は私が子爵のお嬢様だということを忘れている。一応、貴族なんてものに分類される私は、領民との結婚は大大大恋愛でもないかぎり許されない。それも、駆け落ち覚悟の捨て身をやってのけなくてはいけない。


オルトゥー君には悪いが、領民の、しかも孤児院育ちの少年とは結婚などできるはずもない。だいたい、ウィリアム様との関係を強く願い画策する父と母が認めないだろう。ケイトとジョージさんもか。


そう思う私だけど、オルトゥー君はそんな世間のルールなど気にも止めていないのか、興奮した様子で私の腹部に顔を埋めるときゃっきゃと叫ぶ。




「ジェニファーさん彼氏いないんだろ?俺がなってやるよ!俺がロレーヌ様の息子だったら、俺も男爵の息子だし、ちゃんと婚約もできる!」


「(あ、ちゃんと世間のルール知ってた)」


「歳の差なんて関係ないよね?俺ちゃんとお姉さんを養うよ」


「い、いやいやいや・・・・・オルトゥー君」




そんなハンカチを拾ってくれたから結婚しましょう、みたいなノリで言わないでほしい。


私はいよいよ困惑し顔が引きつってくる。どうしようか、どうしたらこのおませな少年を止められるのだろうか。


押しのけたら怪我にさわってしまうかもしれないし、怒鳴るなんて私の性分じゃない。かといって今のオルトゥー君に私の説得は通用しなさそうだし。


ううん、と唸ることしかできない。


ちょっと腕を動かそうものなら、反射的にぎゅうと腕に力を込められるし、これは詰みだろうか。


悶悶と目を瞑ってこの場をしのぐ方法を考える。ここは仕方ない、ブライトさんに助けを求めようか。そう思い、ブライトさんへと視線を向ける。するとブライトさんはどこか遠くを何とも言えない顔で見ていた。



「養うには、それ相応の覚悟が必要だよ」



そこに、この場にいるオルトゥー君でもブライトさんでもない声が響く。低くもなく、高すぎもしない心地よいその声は柔らかく、ケイトや母がうっとりとし腰が砕ける甘いもの。


そんな、声だけで人を妊娠させられそうな方を私は一人しかいない。



「ウィリアム様」


「なんだか楽しそうなことになってるね」



にっこり、と深緑の瞳を細める絵画から抜け出した天使。本日も本当に人間ですかと思ってしまうほどお美しいウィリアム様が優雅に現れる。ああ、眩しい。徹夜明けの脳には刺激が強すぎる。


ウィリアム様は私に目配せをしたあと、ゆっくりと上着を脱ぐ。懐中時計でも入っているのか、チェーンが焦げ茶色のベストに伸びている。


それを工房のテーブルに乗せ、長い足をこちらに向けるとゆっくりとした動作で私に手を伸ばした。



「あ!」


「返してもらうよ」



ひょい、とオルトゥー君の手を取り、私から剥がす。


それからすぐに私の腹部に手を回すと後ろから抱き竦められた。私のお腹の前にウィリアム様の両腕が回っているという、他のお嬢様なら確実に赤面すること間違いない状況に、私は無表情でビシッと固まる。それでこそ私だ。


しかし、それでウィリアム様は満足する様子はなく、私の首に石膏像から取り出したのかと思うくらい整った鼻を近づける。本当に触れるか触れないかというくらいの隙間しかないと思うけれど、私にはそれを確認する勇気はない。



「ちょっと!お姉さん取らないでよ!」


「取ったんじゃない、返してもらったんだよ」


「ウィリアムさんのじゃないでしょ!」



ぷんぷんと腕を組んで怒るオルトゥー君。返して返してと駄々をこねる姿はあどけない。


こういう姿を見るとウィリアム様も優しい言葉をかけそうなものだ。ウィリアム様もオルトゥー君を気に入っているようだし。


そう思う私だったが、そんなオルトゥー君にウィリアム様は目を細めて口に弧を描く。



()()そうじゃないだけだよ」



私の位置からは全く見えなかったが、その表情はまるで天使とは程遠く、人間の魂を貪り永遠の命を得る婀娜やかな悪魔そのものだったらしく、オルトゥー君の年齢にはまだ刺激が強すぎたみたいで真っ赤な顔でぽかんと口を開けたまま固まり、傍にいたブライトさんは頭を抱えていた。



「ね?お人形さん」



そう言うウィリアム様の唇が不意に首筋に触れる。突然触れたものにびくっと体を強張らせると、その動きがウィリアム様に伝わったのか腹部に回された腕に少し力が入った。



「ふふ」


「(む、む、向けない。そっち向けない)」



ニコニコと至近距離で柔らかく微笑んでいるウィリアム様など見ることはできない。


よかった、ここに父や母がいなくて。二人がいたら絶対にガッツポーズをしていることだろう。


そんな私の様子にもちろん気づいているウィリアム様は、うっとりとした瞳を私に向ける。




それからしばらくして、我に返ったオルトゥー君が「ウィリアムさんには敵わない!」と拗ねて騒ぎ出すまでウィリアム様はそのまま私を抱き竦めた。


ウィリアム様も悪いお方だ。



.

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