全ては愛する者のため
「……わたくしにとっても有用であるなら、黙っていて差し上げます。それにお兄さまの目が狂ってしまったわけではないとわかっただけでも安心しましたわ」
そう言うとメアはフィユを見下ろして、初めて怒りでも憎しみでもない、優しい表情を浮かべて見せた。
「あなた、わたくしのお兄さまに選ばれたのですから、お兄さまに恥をかかせないようにしてくださらないと困りますわ。今後とも婚約者として相応しい振る舞いをして頂戴」
「えっ……」
思わぬ言葉に、フィユが驚いてメアを見つめる。
嫌々黙らされたというのに、メアは誰よりも敬愛する兄と自分を結びつけようというのだろうかと恐れ多くも過ぎってしまい、フィユは自分の思考を振り払うように首を振る。それを否定の意思表示と取ったのか、メアが僅かに眉を寄せた。
「あら、なにか不服ですの? お兄さまほど婚約者として素晴らしい相手はいませんわ。武にも知にも優れ、カリスマ性もあり、なにより世のいかなる宝玉よりも美しいお方……いったい世界中の誰が、お兄さまと肩を並べることが出来ましょう。そんなお兄さまが、あなたに選ばせて差し上げると言っているのですから、光栄に想いこそすれ断る理由などないはずですわ」
うっとりとした表情で、メアは兄の素晴らしさを説いていく。
リヒトだけでなく、メアも協力して自分を王女にするつもりなのだとわかり、フィユは四面楚歌の中で身の置き所に迷っていた。とはいえ自分がなにを思っていようと、彼らは必ず元の王女を追い出してフィユを王女にするのだろうが。
冷たい荊の鎖がまた一歩、フィユを玉座に引き寄せたのを感じた。
「それとも本当に、お兄さまでは不服だと仰いますの?」
「いえ、その……まだ、二回しかお目にかかっていないので、ええと……すぐに婚約者としてお付き合いするのは、少し気が早いかと……」
「それもそうですわね。でしたら次こそはお兄さまと共に参りますわ。逢瀬を重ねれば、あなたもきっとお兄さまの素晴らしさが理解出来るでしょうから」
苦し紛れに絞り出した言葉も、メアにとってはなんてことのないそよ風同然だった。
却って、カイムと恋人のような時間を過ごすことをを約束されてしまい、自ら逃げ場をなくしたことを思い知る。決してカイムと二人で過ごすことが嫌なわけではないが、その先に婚約者という重い未来が待ち受けていることが問題なのだ。
(でも、カイムだってまだ本気で婚約するとは言っていないのだし……いまのわたしは、彼に試されているだけだもの)
心の中に無理矢理こじ開けたような逃げ場を作り、そっと息を吐く。
「そうと決まれば、国へ帰ってお兄さまの予定を確かめなければなりませんわね。今回は大切なブローチを取りに来ただけですのに、良い収穫でしたわ」
弾んだ声で言うと、メアはドレスを翻して踵を返し、扉へと向かった。そして扉の前で一度フィユたちを振り返るとカイムによく似た顔に笑みを乗せて見せ、
「わたくしが応援するからには、お兄さまと結ばれて頂きますわ。お覚悟なさいまし」
最後にとんでもない言葉を残して、軽やかな足取りで部屋を出て行ってしまった。
本当に、メアにとっては兄の存在とその意志だけが全てなのだと、この短い時間で魂に鋭利な短剣で以てしっかりと刻み込まれたような心地だった。敵意を向けられるよりはと思いつつ、次に会うときを思うと少しだけ気が重い。
だが、選ばなければならない期限は近い。
いつまでも記憶喪失の王女を盾に、逃げ続けるわけにはいかない。
「…………ねえ、リヒト」
足音が聞こえなくなった頃。フィユは傍らに跪いているリヒトを見つめて呟いた。
「あなた、気付いていたのよね」
フィユの畏怖を映した眼差しを受けた狂信の執事は、うっとりと微笑むだけで、なにも答えなかった。