天上の花の世界
「……いけない、通り過ぎてしまうところだった」
ぼんやりと考え事をしながら歩いていたせいで部屋を通り過ぎかけた。ヴァルトは一人呟くと、目的の扉の前まで戻って足を止めた。
「フィユ、いるかい? 入ってもいいかな」
豪奢な両開きの扉の片方をノックし、声をかける。暫くすると、扉が中から開かれた。メイドは下がったあとなのか、フィユが重たい扉を引き開けているのを見て、慌てて手を貸し、室内へ入る。
「フィユ、応えてくれるだけでいいんだよ。重かっただろう?」
「あ……ごめんなさい……」
「なにも謝ることじゃないさ。そうか……ここでの生活も覚えていないんだね」
覚えていない。そう言われる度に、フィユの胸が痛む。覚えていないのではなくなにも知らないのだと、人違いだと言ってしまえたらどんなに楽になるだろう。
ヴァルトにエスコートされてフィユがベッドに腰掛けると、ヴァルトはベッドの傍らの椅子に腰を下ろした。
「フィユは、なにか覚えていることはあるかい?」
ヴァルトの優しい問いに、フィユは苦しげな面持ちで首を横に振った。
覚えていないと、はっきり口に出すことが出来ない。言葉にしてしまえば、明確に嘘をついたことになってしまうからと口を噤む、卑怯な自分にも嫌気が差す。
「……わかった。それなら、もしかしたらなにか思い出せるかも知れないし、少し話してあげよう。つらかったら止めるから、言うんだよ」
そう前置いて、ヴァルトは王女が城を飛び出してからの経緯を話して聞かせた。
「殆ど覚えていないなら、父王殿が病に臥せっておられることも覚えていないのかい」
「え……病気、だったのですか……?」
「ああ。半年ほど前からね」
ヴァルトは遠くを見る目でそう言うと、静かに続けた。
国王が病に臥せってからというもの、この国は落ち着かない日々の連続だった。元より自分中心でないと気が済まない王女は、誰もが国王第一で動く生活に耐えられなかった。
国王が隠られてからでは遅いと、早急に王女に婿を迎えなければという話が出るのに、そう時間はかからなかった。それすらも彼女にとっては他人の意志で自分のことを勝手に決められるという、数ある気に食わない出来事の一つでしかなかった。国の危機よりも、父親の病よりも、自分が一番気にかけられなければ赦せなかったのだ。
あるとき王女は、警備の目を盗んで城を抜け出した。その際、婚姻の証として相手へと送る指輪を持ち出したことで、事態はより深刻なものへと変わっていった。万が一指輪を紛失したり、賊の手に渡ったりした場合、国はどうなってしまうことか。
「だから、騎士団長殿自ら捜索に向かってくれたんだ」
「…………そんな、ことが……」
フィユにとっては全く身に覚えの無いことだ。いま首に提げている指輪だって、唐突に押しつけられただけのもので、返せるものならいますぐ返してしまいたいくらいだった。しかし、いまの話を聞くに、この指輪は王女が大事に保持していなければならないものであって、更に誤解のせいでいまこの場での王女はフィユとなってしまっている。
結婚を嫌がって城から逃げ出す気持ちは、今日を生きるだけでも必死だったフィユには到底理解出来ないことだった。ましてや、父が病で大変なときに城を抜け出して、なにをしようというのか。
「お父様のお薬を探しに行ったわけでは、ないのですよね……」
「残念だけど、メイドが聞いた言葉から察するに、そうではなさそうだったよ」
「…………言葉……?」
「自由になりたい、と」
正確には『古臭くてくだらないしきたりに縛られて生きるなんてごめんだわ。それに、私にはもっと相応しい人がいるのに、よりにもよってあのヘタレだなんて冗談じゃない。他の候補もろくでもないのばかり。うんざりだわ』と言っていた。当然メイドがヴァルト本人に告げ口したわけではなく、彼女らの噂が巡り巡って薄められた状態で偶然彼の耳に届いただけなのだが。
「……自由に……」
王女の言う自由とはなにを指すのだろうか。少なくともフィユにとって、城での生活は着るものも寝る場所もあって、恐らくは食べるものにも困らないように見えた。それでも不自由を感じるくらいの、想像もつかないなにかがあるのだろうか。
「わたしには、わからない……」
俯き、誰にということもなく小さく呟く。あまりにも住む世界が違いすぎて、想像することも出来ない。ここでの生活や周囲の人間に対しても、知ったふりも出来ないだろう。そういう意味で、記憶喪失という嘘は大きな救済になりそうだ。