機構の国の人形伯
「シャグラン伯爵がいらっしゃいました」
そうして、何組目かも知れない貴族への挨拶を終えたところへ、案内役のメイドの声がした。会場がざわつき、視線が入口へと集まる。
「ご機嫌よう、王女様」
そこにいたのは、繊細な滝のような水色の長い髪を持った、線の細い男性だった。瞳も青く、更に服も白を基調に僅かな青の差し色が入ったものを纏っているため、水の魔素が青年の姿を取ったかのように見える。なにより目を引くのは、顔の右半分を多う仮面だ。特別な舞踏会で用いるようなそれを身につけ、手袋をしている彼は、肌の露出が会場内の淑女たちより少ない。
彼は広間に足を踏み入れるとフィユの姿を認め、真っ直ぐに歩み寄ってきた。そして、フィユの正面に跪くと、挨拶というにはあまりにも甘やかに手の甲へ口づけをした。
「ああ……ようやく、ようやく、シェルフィーユ王女……あなた様にお目にかかることが出来ました……この日をどれほど待ち侘びていたことか……」
「え……と、いらしてくださって、ありがとう、シャグラン伯爵」
他の貴族にしたように挨拶をすると、シャグラン伯爵は目を細めてフィユを見上げた。
「その名は、いまでは兄のものです。どうかロゼとお呼びください。私も末端とはいえ、王女様の婚約者……初対面ではありますが、他人行儀では少々寂しいのです」
「そう……そうね。会えてうれしいわ、ロゼ」
フィユが名を呼べば、ロゼはそれだけでしあわせそうに笑みを深める。
その様子を、まるで信じられないものでも見るかのような目で、他の貴族たちが眺めている。それもそのはず。記憶喪失前の王女は、ヴォルフラート王国を含めその領地全てを見るに堪えない田舎と罵り、領内の貴族を一切の区別なく田舎貴族と言って会うことすらしなかった。婚約者候補であるロゼのことも同様に、歯牙にもかけずにいたのだ。
この場にいる誰よりも背が高いロゼが立ち上がると、小柄なフィユは思い切り首を上に向けなければ顔を見ることが出来ない。だが約五十センチの身長差があるにも関わらず、ロゼより数センチ低いカイムに向き合ったときのような、強い圧力は感じなかった。
「愛らしい、花のような方ですね……叶うならずっと跪いてお側にいたいくらいです」
音もなく降り注ぐ霧雨のような声と眼差しが、胸の奥深くまで染みてくる心地だった。気付かないうちに全身が濡れていく、あのしっとりとしたやわらかな雨。ロゼの雰囲気はまさに無音の糸雨そのものだった。
「そんな……それより、飲み物はいかが? ロゼの好きなものがあると良いのだけれど」
頬を染めて話を逸らしたフィユを見つめる眼差しも、変わらず優しい。ロゼはフィユの案内を受け、メイドから細いグラスを一つ受け取った。それは、フィユが好きなベリーを使った果実酒だ。深い緋色と程よい酸味、そしてなにより果実が持つ甘さが特徴の、この国では城以外だと城下町にある高級な宿屋などでしか飲めない代物だ。
「この国を象徴する果実を、一度味わってみたかったんです」
そう言ってロゼは果実酒を一口、喉へ通した。白い喉が上下して、薄い唇がグラスからそっと離れる。
「とても……良い香りですね」
緊張しながら見守るフィユに微笑みかけ、ロゼは残りを一息に飲み干した。空になったグラスをメイドに預けると、歓談するふりをして二人を見守っていた周囲の貴族たちへと密やかに視線を巡らせる。
他の貴族はどうか知らないが、シャグラン家にとってフィユは利用価値のある存在だ。領地での革命運動により心身ともに傷を負い、素顔を晒すことすら出来なくなった抑々の原因は両親にあるが、その償いで王女との婚姻を薦められたのは、ある意味僥倖だった。顔に傷のある男など、誰も相手にしたがらない。別の領地を治めている貴族令嬢が茶会で笑いものにしていたことも知っている。
シャグラン家は没落してもおかしくないほど追い詰められていたのに、ロゼをある種の身売りに出すことで、変わらぬ地位を維持することが出来ているのだから。なんとしても気に入られ、選ばれなければならない。シャグラン家の忠実な傀儡として最低限の役割を果たせなければ、存在している意味がないのだから。
フィユを見つめるロゼの目に宿る妖しげな光に、リヒトとレダだけが気付いていた。