花氷の王女
永遠とも思える数秒ののち、リヒトは恭しく答えた。
「フィユ様にとってのデューン王子、と申し上げればご理解頂けるでしょうか」
「え……?」
大きく見開かれた瞳が揺れ、視界が滲む。
そう言われたところで、フィユには覚えがない。――いや、心当たりはある。フィユは火事前後の記憶が断片的に抜け落ちているのだから、もし彼の言葉通りの出来事があるとしたら、そのときなのだろうとは思う。けれど、フィユがデューン王子と同じことを彼にしたとして、それだけでただの孤児を王女に仕立て上げるなど信じられない。
リヒトは王家のためと言うが、本当にフィユが王女と認められては、王家の血はそこで途絶えてしまうのだから。
そのことにフィユが思い至ったことを察したリヒトが、笑みを深めてフィユの手に頬を寄せる。愛おしそうに、大事そうに。
「なにも心配いりません。王家も、フィユ様も、全て私が護って見せます」
フィユを見上げる目は、食事のときに見せるあの狂気を映した氷の瞳だった。リヒトがなぜこれほどまでに自分に執着するのか、フィユには僅かも理解出来ない。けれど彼は、言葉にしたことは全て実行してきた。国への忠誠も真実なのだろうと思う。だからこそ、フィユは彼が恐ろしくて仕方がなかった。
そして同時に、この心臓を冷たい手で握り締めるかのような恐ろしさから離れられなくなっている自分にも、気付いてしまっていた。
「……部屋に、戻るわ」
「畏まりました」
踵を返したフィユに続いて、リヒトも鏡の間をあとにする。地下を抜け廊下を進んで、すっかり馴染んだ寝室に入ると、なにも言わずとも鏡の前に立った。
「お召し替えを致します」
「ええ、お願い」
賓客を迎えるために作らせた豪奢なドレスをほどき、体を締め付けから解放していく。着替え終えたところでスツールに腰掛け、足先をリヒトに差し出した。靴もドレスと共に作らせたもので、甲の部分には大粒の宝玉があしらわれている。その靴を丁寧に脱がすと保管用の箱に収め、代わりに室内用のやわらかな靴を履かせた。
リヒトの手のひらにも収まる華奢な足で、フィユは王女として立っている。国のことをなにも知らない孤児だった少女は、いまや国の象徴として公務をこなすまでになった。
「ねえ、リヒト」
「はい、フィユ様」
いつまでも手の中にフィユの足を捕らえたまま降ろそうとしないリヒトを訝り、小さく名前を呼ぶ。顔を上げたリヒトの目の奥に恍惚とした闇が宿っているのを認め、フィユは泣きそうな顔で微笑んだ。
「ベッドまで運んで頂戴」
「畏まりました」
ふわりと横抱きに抱え上げられ、そっとベッドに降ろされる。まるで自分がひとひらの羽毛になったかのような、体重を感じさせない足運びだった。実際吹けば飛ぶような軽い命なのだ。ここにはもう、憐れな孤児はいない。きっとあの日の火事で焼け死んだのだと自分に言い聞かせ、跪くリヒトを見下ろした。
「一つ、訊いてもいいかしら」
「何なりと」
「もしわたしが国を欺いた罪人として裁かれるときが来たら、あなたはまた元の王女様に仕えることになるの?」
フィユを見上げるリヒトの目が、うっとりと細められて笑みの形を作った。そして形の良い唇は、普段と違わずフィユの望む言葉を紡ぐ。
「いいえ。そのようなことにはさせませんが、万一そのときが来たなら、私もフィユ様と共に焼かれましょう。私の主はフィユ様ただお一人です。フィユ様がお生まれになった、そのときから」
まさに模範解答としか言いようのない綺麗な答えを囁かれ、フィユはリヒトの頬に手を添えた。




