名もなき花の名
少女は、すっかり俯いてしまっていたために気付かなかったが、そんな彼女を見下ろすヴァルトの眼差しは、どこか思案深げな色を帯びていた。しかしそれもすぐに笑みの形に緩められ、優しい声でこう告げた。
「名前が記憶に通じるかも知れないのならば、これからもフィユと呼ぼう。皆にも、そう伝えておくよ」
「え……? で、でも……」
「気にすることはないさ。君が心穏やかに過ごせることが第一なのだからね」
その言葉と共に足が止まり、近くにいたメイドがサッと扉を開けて控え、頭を垂れた。扉の中は浴室となっていて、奥から湯気と共に花の香りが漂ってくる。
指示を出すまでもなく、近くにいたメイドが二人駆け寄り傍に控えた。扉を開けた中年メイドとまだ年若い二人のメイドが並んでヴァルトの指示を待っている。
「君たち、フィユを頼むよ。どうやら記憶を無くされているようだから、仕草が覚束ないこともあるかも知れない」
「畏まりました」
メイドに告げると、ヴァルトはフィユを室内に下ろした。
「身を清めたら部屋まで案内してもらえるから、ゆっくり休むといい。私は皆に報告したあと改めて会いに行くよ」
「は……はい、ありがとうございます……」
恐縮してお礼を言うフィユを見て、背後にいたメイド三人が互いに顔を見合わせた。
メイドたちの怪訝な表情を目にしたヴァルトはそれを咎めることなく、最後に「では、また後ほど」とフィユに告げて退室した。
「あの……」
取り残されたフィユはメイドたちのほうを振り向くと、顔色を窺うようにしながら口を開いた。
「わたしは、どうすれば良いのでしょう……?」
その言葉を聞いて、先ほど同様、メイドたちは無言のまま顔を見合わせた。だがすぐに一番年上のメイドが笑顔を繕い、一歩進み出る。
「王女様はなにもなさらなくてよろしいのですよ。全て私たちにお任せくださいませ」
「は、はい……」
街の裏路地で騎士と出会ってからというもの、出会う人全てに同じことを言われている気がして、フィユは妙なむず痒さと居辛さを覚えた。
言葉通り、メイドたちはフィユがなにもしなくとも全身を手際よく清めていく。全身にこびりついていた汚れが全て落ちると、細かい傷跡や痣などが良く見えるようになる。
年長のメイドはこの傷跡が数日程度でつくものではないことに気付いたが、それを口にするということは騎士団長やヴァルトにもの申すことに等しい。彼らがなにを思いなにを成そうとしているのかなど末端の人間には関わりのないことだと見なかったことにして、やわらかなドレスで真実を覆い隠した。
「王女様、だいぶ見違えましたよ。如何でございましょう」
年長のメイドがそう言うと、若いメイドのうち一人が鏡をフィユの前に置いた。
煤まみれでボサボサだった髪は綺麗に整えられ、まばらな長さも切り揃えられている。栄養不足で荒れ放題だった肌にも、湯に触れることで僅かながら血色が戻り、枝のように細い体が、先ほどよりも人間味を帯びたように見える。フィユ自身、自分が金髪であるということは商人の言葉で知ってはいたが、あの場で見た王女のような輝く金色ではないと思っていた。だが目の前にある鏡に映っている姿は、病気かなにかで痩せ衰えた王女だと言われたらそうかも知れないと思ってしまいそうなほど、よく似ていた。
本物の王女が果たしてそこまで見抜いていたかは不明だが、この状態なら少しのあいだくらいは誤魔化せるのではないかと、恐れ多くも錯覚してしまうほどだ。
「あ……ありがとう、ございます。汚くて大変でしたよね……」
「いいえ、これがお仕事ですもの。それに高貴なお方を汚いだなんて、とんでもないことですわ」
裾の長いドレスに合わせて、ささやかながら髪飾もつけてもらうと、格好だけならこの城にいても然程違和感がない姿となった。