惑いの夜明け
翌日、まだ夜明け間際に目覚めたフィユは、ぼんやりする頭でベッドを降りると窓際へ近付いた。薄明かりが空を染め、庭園をほのかに浮かび上がらせているのが遠く見える。
「あれは……アドニス?」
ふと下を見ると、庭師のアドニスが仕事を始めている姿が見えた。朝の静かな時間なら人の気配もなく、人目を避けることに気遣わない分、作業が捗るのかも知れない。果ての空が白く塗り替えられる頃、漸くフィユは自分の頭がはっきりと目覚めるのを感じた。
窓を開け、朝特有の冷たく澄んだ空気を取り込んだ。城内が少しずつ朝の仕事に勤しむ人々の気配に満ちていく。耳を澄ませれば、遠く階下で調理室が動き始める音が聞こえてきた。当たり前のように食事が用意される生活を、気付けば日常として受け入れていて。食堂の裏でゴミを漁らなくても生きていける一日に慣れている自分に気付いてしまった。
(一年経ったら……わたしは、どうなってしまうのかしら……)
野の花に戻るどころか、罪人として裁かれるかも知れない。それに、フィユだけでなく一年後に運命の転換期を控えているのは本物の王女も同じことなのだ。彼女がそれを意識しているかはともかく。
窓から視線を室内へと逸らし、着替えをどうしようかと過ぎったとき、扉をノックする音がした。
「フィユ様、起きておいでですか」
「ええ、どうぞ」
「失礼致します」
いつもならメイドが着替えに訪れる頃だが、部屋に入ってきたのはリヒトだった。彼の手には人前に出るときに着るドレス一式が提げられている。
「本日はデューン王子との会談でございます」
「ええ。お話が終わったら、色々訊ねる時間があると良いのだけれど……」
椅子から立ち上がって鏡の前に立つと、リヒトの手により手際よく着替えが進められていく。ここへ来たばかりの頃は戸惑ってばかりだった動作も、日常となりつつある。
鏡に映る立ち姿はいつの間にか王女然としており、気付かぬうちに城の空気に染まっている事実がそこにあった。
「……行きましょう、リヒト」
「はい、フィユ様」
リヒトのエスコートを受け、長い廊下を行く。すれ違い様にメイドたちが端に避けては恭しく頭を下げ、立ち去ってから潜めた声で話すのも最早日常の一部となっていた。
フィユもリヒトも、彼女らを咎めることは決してない。上から力で抑えつけてどうにかしようとするのは、前の王女と変わりない。周りに変わってほしければ、まずは自分から以前の我儘王女とは違うところを見せるしかないのだ。
それも、別人であることを悟らせないよう留意しながら。